限りがあるから真剣になる
小学校高学年の時のお小遣いは、1,000円だったのかな。
兄が「週刊少年チャンピオン」、わたしが「月刊少年チャンピオン」を買い、回し読みしていた。
わたしは「なかよし」も買っていたが、兄は読まなかった。
他にサンリオショップでサンリオグッズを買うこともあり、小5の時には、同じ団地に住んでいた友達と、新宿・伊勢丹で開かれた「サンリオフェスティバル」まで出かけたこともある。
子どもだけで新宿に行ったのははじめてで、友達は上大岡駅からの帰りのバス代が足りなくなり、2人で家まで歩いて帰った。おそらく、1時間以上は歩いたのではないだろうか。
後から親に、わたしがお金を多く持っていたのだから、貸してバスに乗ればよかったのではないかと言われたが、その時はそんな考えがまったく思いつかなかった。
今思うとADHDの傾向があるので、友達にお金貸してと言われないと、気づかないのだった。(さすがに、社会人を経験したので、現在はそういう気は回る)
ちなみに、父は心配だったらしく、新宿まで後をつけてきたらしいのだが、わたしはまったく気づかなかった。
友達はデパートにいる時に気づいたらしい。
なんか、後から考えると、ストーカーのようで怖いと思った。
気づかれたのならば、お小遣いを少しくれてもいいのに、そういうこともなく。
ちょっと、意味不明だった。
家でそのことについて聞いたが、うまくはぐらかされた。
中学生の時、お小遣いは3,000円だったと思う。
お金に限りがあるから、今月はこのレコードと雑誌を買おう、と真剣に選び、1枚のレコードを聴き倒した。
自分の部屋には「卒業」のサントラを、レコード用の額縁に入れて飾ってた。
「ザ・モンキーズ」を見て、モンキーズのファンになり、ファンクラブにも入り、新宿にあった厚生年金会館までフィルムフェスティバルを1人で見にも行ったっけ。
雑貨屋でアメリカっぽい雑貨(布製のボール&木製のバスケットゴールや車のナンバープレートのような飾りなど)を買ったり、「アメリカ西海岸プレイ時刻表」・「ニューヨークプレイ時刻表」という本を繰り返し読んだりした。
横浜の開港バザーでは、UCLAの熊が描かれたTシャツを買った記憶もある。
中学生の時は演劇部に入っていたが、真夏の炎天下、横浜演劇研究所に立ち寄った後、のどからからの状態で、部活の顧問の先生にマクドナルドで1杯おごると言われたときはうれしかった!
その時は、ペットボトルを持ち歩くという習慣はなかった。(1981年の時。わたしがペットボトルを見たのは、1992年か1993年にヨーロッパに行った時が初めてだったと思う。ヨーロッパって、水を買って飲むんだ!と驚いた記憶がある)
多分、その頃は屋内や公園にある冷水機で、冷たい水を飲んでいたのじゃないだろうか。水筒は、遠足などの時しか持ち歩かなかったと思う。
しかし、のどがからからなのにも関わらず、チョコレートマックシェイクを頼んで失敗した。なかなか溶けず、ごくごく飲むことができなかった。
高校生の時は、お小遣いが5,000円だっただろうか。
通っていた学校では、家に帰る途中に寄り道する場合、「寄り道ノート」に寄り道する場所を書く必要があった。
土曜などは、横浜駅などで寄り道していないか、先生が見回りしていたらしい。
高校3年の頃は、地元の本屋に毎日のように立ち寄り、何か新しい本が入っていないか、チェックしていた。
お小遣いが限られているので衝動買いはできないけれど、毎日のように通っていると、棚が少し変わっただけでも、新しい本が入ったんだ、という変化に気づくことができた。
これは受験勉強のいい気晴らしになった気がする。
予備校には高3の冬休みしか行けなかったが、予備校近くの本屋に立ち寄るのも楽しみだった。
受験の年は、夏休みは県立図書館の学習室に通い詰め、冬は予備校の自習室に入り浸った。
あの時が、人生で一番勉強した時だっただろう。
それなのに、なぜか推薦入学の大学には落ちた。小論文と面接だけだったから、実力が発揮できなかったのかも。
受験した大学は偏差値が同じような大学を選んだので、すべて受かった。
推薦で落ちた大学は最後の受験日だったが、既に他の大学の合格が決まっていたし、大雪が降ったので、受験するのをやめた。
受かった大学のうち、2つの大学のどちらに行こうか迷ったが、今は行かなかったほうの大学の近くに住んでいるので、縁があったのかな。
大学生の時のお小遣いは10,000円。
日本育英会の奨学金も受けていたが、お金が足りず、当時はバイト禁止の大学だったが、大学1年と3年の夏は本の取次会社で、大学2年の時は大型スーパーの洋服売り場で、大学3年の後半は本屋のカウンターで働いていた。
本屋のカウンターで、大学を卒業済の部活の元部長に会った時は驚いた。文化系なのに超スパルタな部活だったので2年で辞めていたが、こんなところで会うとは。
でも、特に大学に告げ口されることもなかった。
取次会社のアルバイトは、休憩時間に本を読み放題で、割引価格で本を買えるのも気に入っていたが、持ち込んだ本にはんこを押されるのは困った。
他に、学内のアルバイトで、図書館のトイレ清掃もしていた。
渋谷経由で帰っていたので、渋谷の紀伊国屋書店に頻繁に通っていた。(たまに、大盛堂書店、旭屋書店、三省堂書店などにも)
その当時はパルコブックセンターなど、おしゃれ系には行ってなかったような。
東横線を使っていたので、たまにルートを変えて、バスで自由が丘や田園調布回りで帰っていた。
2本立て映画館やミニシアターに行くようになったのも、大学の頃から。
後半は、バブル時期だからか、たまにスキーにも行っていた。
お小遣いとお年玉でやりくりしていたのだろう。
会社員になってからは金銭的には苦労しなかったが、月末の締め日や仕事の締め切りに間に合わせるために、残業をすることもあった。
仕事の忙しさにムラがあるので、暇な時期に休んで、忙しい時期は極力休まないように気を付けた。
習い事のある日は、前倒しで仕事を済ませるようにした。
わたしは結婚にも出産にも縁がなかった(結婚は、今後の可能性もゼロではない)ので、その点でのタイムリミットはあまり考えていなかった。
今のライターやデータ入力などの仕事も、締め切りがあるので、ある程度、計画性を持って、仕事をすすめられている。
締め切りが決められていなくて、いつでも大丈夫、と言われたら、いつまで経っても、やる気にならないかもしれない。
また、こういうキーワードで書いてください、と指定されていたほうが、何を書いてもいいですよ、と言われるより、格段に書きやすい。
そのほうが相手の要望がわかるので、書き直しになる確率も低いだろう。
ふだん真剣に考えてこなかったが、命にも限りがある。
近所で夏に大量死するミミズやセミ、たまに発見するカラスや猫の死骸は見るが、自分と結び付けて考えることは少ない。
エリザベス・キューブラー・ロスの本も10数年前から読んではいたが、5段階について考えたのは、病気になってからだったかも。
そういった点では、病を持つのも一概には悪いこととは言えない。
否が応でも、命に真剣に向き合わざるを得ないからだ。
でも、そこまで状態は現在悪くないので、シリアスな気分になることは少ない。
映画「生きる」のように、命に限りがあるとわかったことで、本当にやるべきことを発見できることは病気の良い面だと思う。
まだ、見つけられていないけれど、わたしもあの主人公のように、自分のためにも人のためにも役に立つようなミッションを見つけられるよう、考えていきたいと思っている。
Photo by Ludovic Charlet(@ludo_photos) of Unsplash