涙の湖のはなし
『あなたの歌には哀しみがあるから好き』と、何年も前に言っていただいたことがある。
その方曰く「哀しみを宿したものこそが歌なのだ」と。
当時の私は哀しい曲や暗い曲をたくさん聴いていたから、そう言っていただけたことがとても嬉しかった。だからかなり強く覚えている。
歳を重ねれば経験は増え、体力は少しずつ弱まる。
10〜20代の頭の頃に抱えるフラストレーションや感情の大きなエネルギーは、その世代の特権だ。
社会は、世界は、人間は、私は、あの人はこうあるべきだ! と燃え盛っていた炎はだんだんと和らいで、そのうち「平和が良いよね」「争い事は少ない方がいい」と柔らかな考え方をするようになる。たまに思い出して手をかざす焚き火みたいになる。
経験を重ねて、対処法を知り、諦めと明らめを知る。あまり動揺しなくなる。動揺しなくても大丈夫だとわかってくるから。
折り合いをつける手段を身につけ、折り合いをつけるメリットを知り、折り合いをつける必要にかられる。
熱くかかげた感性の塊は軟化して、ある程度のものを受け流したり、受け入れたり、ぶつかっても傷付かなくなったりする。
そうすると交感神経は少しだけ萎えて、正しく老いていくことになる。
変化して、あの頃聴いていた「世界を壊し、変える!」みたいな曲はあまり聴けなくなる。聴く必要がなくなる。
生きて、老いながら、自分の居場所を少しずつでも見つけるからかもしれない。
自分の居場所を見つけるというのは、自分の性質を理解し受け入れることと大体同義で、人は歳を重ねるとシンプルになる。大抵の人は多分そうだし、私もそうだ。
自分の身や心まで焦がし、一つ間違えれば焼き尽くしてしまうようなエネルギーの業火には別れを告げて、日々の食べ物を焼ける程度の火を扱うことになる。
そもそもそんな巨大な炎を扱っていられなくなる。時間に追われ、責任に縛られ、居場所に尻を叩かれるから、火の始末なんてしてる時間はあまりなくなってしまう。
それでも時には入念に火の始末を確認しなきゃならない。全てが燃え上がってからではもう遅い。
燃やしたいものを燃やしたいだけ燃やせることが、どれだけ幸せだろうか。
まだまだ未熟なひよっこで、人生の先輩方から言わせれば生意気で無知で傲慢この上ない。
そんな情けない人生をふと冷静になって振り返ってみて思うのは、まず浮かび上がるのは、具体的な哀しみの出来事ではなく、哀しみを通して見える風景だ。
他の人はどうだかわからないが、私にはそれが見える。
私はふと思うことがある。
『これまでの全ての人類が流した全ての涙が集まる湖がある』かもしれない。と。
喜びは知らない。楽しさについてもわからない。が、楽しさは人々が口ずさむ歌や楽器・ダンスと共にありそうだ。
それも少し見える。
けれどそれよりも私の視界には、私の魂の、身体の奥には、涙で出来た湖が見えていて、淡く光っている。
暗く閉ざされた深い深い森と荊棘の奥に、青く輝く宝石のような湖がある。
荊棘に閉ざされているから、歩いては行けない。踏み荒らすことは許されない。厳かな気持ちで、愛おしい気持ちで、美しく尊いものを見る気持ちで、今はもう無い故郷の家を尋ねる気持ちで覗き込む。
人々が涙を流すたび、その雫はこの湖までやって来て、他の哀しみたちとひとつになる。
私の哀しみも、これを読んでくれている人の哀しみも、その父や母の哀しみも、何世代も何世代も遡って、人間としての自覚を獲得するに至った頃のご先祖様まで。みんなの涙がそこにある。全ての涙がそこに蓄えられている。
ブラックホールのことを調べていた時に「消えないはずの"情報"が消えるのでは」という話を読んだ。
この宇宙の全ての事象、つまり"情報"は、この宇宙の中に永遠に残されているらしい。
あの湖もそうなのかしら。あの湖も、その一つなのかしら。
人の涙を、哀しみを、すべて蓄えて。
人間の涙は、哀しみは、どうしてこんなに美しく、青く、淡く、光って見えるのかしら。
暗い森の奥、荊棘に閉ざされたその場所では充分過ぎるほどの光源で、私の存在ははっきりとやわらかく照らされる。
その湖のほとりまで行くと、哀しみの光を浴びて、私も少し哀しくなる。
体に、魂に蓄積された哀しみを「思い出す」と言った方が良いのかもしれない。
私が過去に流した涙も、この湖で他の涙とひとつになったのだから、この湖の水はすべてが私の涙だ。
その「私の涙」を眺め、その光を今の私の瞳に映しながら、私は歌を歌う。
私の歌に哀しみが映っているとしたら
この内的世界の存在をこっそり教えられているのだとしたら
それは「哀しみ」という共通の青い光を通して、深い次元であなたと会うということだから
私はとても嬉しい。
涙でできた湖は、あるかもしれないし、ないかもしれない。
けれど私の中にはある。多分、行こうと思えば誰でも行ける。
だから、怖くないくらいの塩梅で
それを綺麗だなって思える体調の時に
覗いてみるといい。
きっと思っているより、居心地が良い。
居場所のひとつになる。
ここに来ればどんな哀しいことも、全ての哀しみが一緒になって受け止めてくれる。同じになって哀しんでくれる。
哀しみがただ哀しみであることを、どこに行くよりも鮮明にわかって、ただ眺めることができる。
ただ眺めれば良いのだと思う。
だって、この湖はあなたの湖でもあるのだ。
訪れた者の存在をはっきりと柔らかく照らす、青く光る美しいその水は、あなたの涙で、あなたの哀しみなのだから。