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3、シーラカンス
「生きた化石って知ってる?」
部活終わりの最上の時間、オレンジジュースで和菓子を食するなんとも不作法で強気な女は、美しい夕焼けを背負いながら言い放った。
何を言っているのだ、この阿呆が。化石はとっくに死んでいるから化石であるし、地球は青かったらしいことも幼稚園児でも知っている。昭和という時代も終えてからもう二十年が経とうとしているのだぞ。と、考えは巡り巡るも好奇心という細胞が私自身より本能に従順なようだったらしく返事を発する前に立ちあがっていた。女はつくづく不作法で中華まんを片手に自転車に跨り、私は生きた化石に思いを馳せながら、帰路についた。
校門前に止まる数台の警察車両が存在感を存分に発揮し、その日の部活は突然中止になった。群衆の声など私の耳には届かず、生きた化石という先約に思いを馳せつつまっすぐに帰り支度へ向かおうとするも、まっとうな不作法である女は目の前の警察沙汰に夢中であった。その日は仕方なく女の“ごっこ”に付き合うことになった。
不撓不屈の精神を持ちたるその唯我独尊たるや、校内に行き交う人々を制止し声をかけては“ごっこ”に熱心であった。なかなか終わりの見えない行動に、真相はわかったのかと問うと、女はそんなことに興味がないのか呆けた顔を向けてきたので、やはり不作法だと思った。
翌日の校内は昨日の話題が充満していた。右腕に包帯を巻いた担任の男は、用意してきた顔を張り付けたように教室に入ってきた。大事にはしたくないのだというような口ぶりは、一体誰を護るためだったのか。左腕がそっと右腕に添えられる。瞬きをひとつ。乾いた瞳は、もっとべつの何かを云うはずだった。
コクソしなかったらしい、という小難しい言葉を校内に充満させたのは、間違いなく不作法な女だった。その証拠に彼女は一週間ほど姿を見せず、生活指導のゴリラのような教員と健やかな学校生活を送っていた。“ごっこ”に同行していた私にも当然矛先は向けられたが、まっとうな不作法な女のその“まっとうぶり”に、気を付けなさいと声がかかっただけだった。細心の注意が払われた平和な一週間のせいで、私はすっかり生きた化石のことを忘れ去ってしまった。
噂にも時効がある。誰もその話題に触れなくなった頃、彼は「おはよう」と素知らぬ顔で席についた。特段近しい仲ではなかったが、よくない状況になることはわかってしまった。
ー☒☒先生を傷つけて楽しかった?
-どの面さげて「おはよう」なんて言ってんの
-よかったね、漫画の主人公になれて、
厭に耳が立つ。また煙が充満するのがよくみえた。
「やっと来たか、ヨウギシャ君。新聞は読んだかい?読んでないのかい?え?読んでないだって?自分の名がこんなにも知れ渡る機会を?あたしなんて、今度は君を逃がさないように窓に南京錠を付けて回ってるんだからね?」
煙の中、一瞬の鋭い光と甲高い音が過ぎる。聞きたいことが山ほどあるのだ、とよく知ったような声が笑う。不作法な女は、とことんデリカシーのない人間だ。下を向く人の手を勝手に掴み、光の中へと放り込むような人間だ。手を引いてくれるのではなく乱雑に放り込む。後はあんた次第だ、と云うように笑うのだ。洗剤に負けてカサカサした手が私を掴むのが、好きだった。彼も、そっかと目を細め、微笑む。
彼の心は紫煙が立ちこめたようで輪郭さえも霞んで見えた。
「生きた化石ってとこか」
これでいいのか不安になる。
「は?」
「生きた化石って知ってる?」
「……お前のそーゆーとこ大っ嫌い」
困ったように怒る彼の輪郭が、私にも少し見えた。
「死ななくても化石になれるらしいよ。」
女が笑うと意味なんて必要ないみたいだ。
紫煙は消える。