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『SHOGUN将軍』エミー賞は納得。『地面師たち』と比較して考える。

真田広之がプロデュースした『SHOGUN』がエミー賞を独占したと話題です。
私はこの作品をリリース当時から観ていたので、懐かしい気持ちすらありますね笑
端的に、受賞は納得できるものだと思います。

本作の最大のクライマックスは、虎永の幼い頃からの腹心、広松の切腹シーンです。
諫死による切腹だと周囲に思わせたが、実はそれは、虎永との阿吽の呼吸による「死を賭けた演技」である、という意外性が視聴者に深い感銘を与えます。
実に日本人好みのダブルミーニングな行為ですね。

例えば、『忠臣蔵』。
言わずと知れた忠義のために復讐を成し遂げる家臣たちの物語で、何度も何度も映画化されたりドラマ化されています。
このあまりに有名な物語において、絶対に外せないシーンがあります。
それは、大石蔵之介が京都の祇園で遊び呆けているシーンなのです。
実は、この祇園での放蕩は、周りに大石が復讐の意思など持っていないというイメージを作り出し、欺くためにあえて行われていたのでした。
大石は遊んでいるが、内面は冷め切った計算で演技をしているわけです。
観客はこのダブルミーニングな行為に、大石の深い忠義を読み取ります。
華やかな祇園が黒い復讐心とコントラストをなす、素晴らしい設定と言えますね。

現代の日本社会を見ると、日常において阿吽の呼吸はおろか、ダブルミーニングな行為などを読み取れないほど、表面的で上っ面な社会になってしまった感があります。
昨今、ネットを見ると、何事にも善悪をはっきりさせ、正義を振り回す人間が増えています。

ハイコンテクストな社会、すなわち人間同士の相互了解が緊密に成立している社会でなければ成り立たない、一段深みのある振る舞いや思考が消えつつある。
歴史的に日本人がドラマツルギーとして大切にしてきたものが、現代劇では描けなくなってきていると感じます。

この点で、私には今、大ヒットしている『地面師たち』は物足りないものに映りました。
要するに、あの物語は、ハリソン山中というサイコパスのお話で、それ以上でも以下でもない。
お金で繋がっている人間の単なる犯罪物語であり、被害者たちも出世と金しか頭にないような薄っぺらい人間、言わば同類たちしか出てこない物語なのです。
したがって、観ている者が、登場人物の言葉や振る舞いに、表面以上の意味を読み取ることなどできません。
登場するキャラクターの浅薄さが、物語の浅薄さと相まって、観ている側を段々と退屈させていくのです。
だからなんなんだ、と見終わった後に思いましたね。
びっくりするほど余韻がない。
(豊川悦司は素敵でしたが)

問題の広松の切腹シーンに戻ります。
広松は虎永に対して「御免」と言い残して腹を掻っ捌きます。
この時の英語字幕を見ると、
「forgive me」(許してくれ)
でした。
この字幕を観た時、これでは外国人に広松の行為の含意はつかめない、と思いました。
「許してくれ」では、行為の道徳性にのみに焦点が当たってしまいます。
特に欧米人の視聴者の意識に、すかさずキリスト教的な解釈が入り込んでしまう余地さえ作ってしまいかねません。
おそらくそれを真田広之さんも分かっていたのでしょう。
後のシーンで、広松の切腹の真意をさりげなく説明しています(ベタですね)。

しかし日本人は、「御免」という端的な言葉と、二人で交わされる目の演技で、広松の真意を悟るのではないでしょうか。
俺はお先に失礼する。もうこれで、お役御免なんだな。後はよろしく頼む。任せたぞ。
我々日本人は、端的な言葉と交わされる視線だけで、これだけの潤沢なメッセージを背後に読み取ります(多くの外国の視聴者は見返すことで、字幕を超えたこの含意に到達したのではないでしょうか)。

優れた映画やドラマは、表面の背後にある多くの語りを映像表現を通じて観客に伝えます。そして、そのような含蓄を持つシーンが、物語の哲学の中心をなしていれば、その映画やドラマは名作と呼ばれるにふさわしいものとなるのです。

『SHOGUN将軍』はその意味で、エミー賞にふさわしい作品なのは間違いありません。それに、この作品が世界に理解され、祝福されたことは、日本人の大切にしてきたドラマツルギーが決してローカルではなく、これから世界にアピールできるものであることを証明したと思います。

世界に媚びて、かつてのハリウッド映画のような単純なお話を作っては、早晩、日本のドラマや映画は衰退するでしょう。
日本人にしか作れないドラマを堂々と作る。
『SHOGUN将軍』の気概をこれからどこまで継承できるのか、注目したいと思います。





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