ぐらしあすの「摩訶不思議な宗教にのめりこむ人たちについて」(勝手な考察)
完全にぐらしあすの主観です。この投稿に気分を害する方がいれば申し訳ないです。
信教の自由は日本国憲法で規定されているので、規定の範囲を社会通念上常識の範囲内であり、それとは異なり常識を逸するとか、犯罪にもなる得る宗教に人はなぜのめりこむのか。
これを書くにあたってタイトルをどうしようかと考えた。
正統派宗教と新興宗教…ちょっと違う。
範囲を広げるとややこしくなるので、宗教1世のみについて考えることとする。
ここでは主に、輸血をしないさせない宗教をEと、高額献金を強要する宗教をTと、また、とんでもない犯罪行為を犯す宗教をOとする。
Eに対してぐらしあすが考えることは、家庭内虐待を行ったり、輸血をしないことが最大のネックになってくる。
もし最愛の人が輸血をしないと、確実に死に向かうだろうという生きるか死ぬかの問題に対してでさえ、輸血をしないという教義を貫くことが、ぐらしあすには到底理解できない。
Tに対することは、高額献金を要求したり、怪しげな壺を何千万円で売っていること、昔から他国の要人を巻き込んだり、両者にとってウィンウィンの関係を築いて私腹を肥やし、権力を行使し合い、選挙の票を得る。
善良なる一般国民が到底知るはずもないことを、羊の仮面を被った狼たちがのうのうと行う。
この件は悲しい銃撃事件によって、明るみになり始めたのは事実。
Oに対してはどこかの民主主義と謳う独裁政治国家と似ている面がある。犯罪を起こすとてつもない犯罪集団である。
なぜにそのような宗教団体に自ら入信するのか。
その集団に属することによって、ヒエラルキーの天辺にいる人の教義が、自身にとって最大に意義があると信じて疑わない。天辺にいる人の全てを、自分に取り込もうとして、こんなに意義の大きい教義を一般の人々に教えてあげようとする行為となる。そしてそのその教義を共有している者同士が依存しあい、自分自身が空虚であることをお互いに補い合う。その教義に於いて、自らの存在価値を最大限引き上げることが出来るとこころから信じている。
犯罪を起こすことより、それを超える有意義であると信じてやまない意義がその教義にある。
Tに関して言うと、まず富裕層であることが絶対条件、或いは富裕層を巻き込めるかというのが問題。
家まで売るというのは、それが借家ではなく、抵当権が自分にあるカードである。あるいは他の資産を有しているか。
いずれにして法を犯すことは断じて許されることではない。
自分自身が充たされず、その教義を信仰することによって、自分自身が充たされる。
人は自身が何らかな理由で充たされることできない場合、合法的な内容でそこを埋めるということが出来れば良いし、多くの人がそうしているであろう。
それが出来ない人々の中には、そのゆがんだコミュティーの中でしか存在意義を見出せないのであろう。
そのコミュニティーの一員になることによって、集団心理を遥か超えた自身の存在意義が充たされ、こんなに意義の大きな内容を他者にも勧誘し、依存しあえるコミュニティーに引きずり込もうとする行動そのものが、信仰の自由を敢えて偏った内容でもって、憲法を超えるか否かのグレーゾーンで信じてやまない行動をするのであろう。