泣きながら書いた私の人生

私はごく一般的な家庭で生まれ育ったと思う。
共働きの両親に、2つ下の弟。
父親の転勤で2歳の頃から横浜に住み始め、
来年の4月からは横浜市内の会社に就職予定。
学生の間は何かとリーダーを務めることが多く、
大学3年の冬からは後に就職先となる会社でインターンを始めた。
卒論も順調で、あとは学生生活を満喫するだけ。

これだけ聞くと、特に苦労もない、安定した人生を送っているように感じるはず。
ただ、そんな簡単な人生でなかったからこそ、記録に残しておこうと思う。

何も知らず本当に幸せだったのは、小学校低学年頃までだった。
それまでは母親は専業主婦でよく手作りのアクセサリーを作ってくれていたし、父親も休日は色んなところに連れて行ってくれた。

しかし高学年にもなると、現実が見えてくる。
まずは両親の不仲。
常に喧嘩をしている訳ではないが、2人が同じ空間にいると「空気」が一瞬にして変わったのを覚えている。
気軽に発言出来ないというか、重たい空気だった。父親が怒鳴ることも増え、家族での外出は祖父母宅への帰省のみになった。

後から知った話だが、父親はかなりお金にルーズで、私や弟が幼稚園児の頃に借金を抱えていたことがあったらしい。
確かに父親は機嫌がいいとポンポンと欲しいものを買ってくれるタイプだったが、今思えばそれが借金に繋がったのだろう。

母親はきっと、父親のことをこの頃から愛してなかった。
ただ私と弟が、子供がいるから離婚しなかっただけ。

中学生になると、現実を見る前に突きつけられた。

自分で言うのもなんだが、私は勉強ができた方で、県内トップの高校を志望校にし、日々勉強していた。

しかしそんなある日、母親から「離婚する」と伝えられた。

正直、やっときたか。遅いよ。ぐらいに思っていた。
でも、何故か当時の私は号泣し、翌日も立ち直れず、受験勉強を言い訳に学校を休んだ。

離婚したら母親の実家、つまり祖父母宅にお世話になる。
ということはこの受験勉強はどうなる?志望校は?中3で転校?
大混乱だった。

しかし、結果として両親は離婚しなかった。

理由は父方の祖父が精神を病んでしまい、離婚話どころではなくなってしまったから。

祖父が失踪したと連絡を受け、家族総出で地方の祖父母宅まで駆けつけた。
着いた頃には祖父は発見されたが、首元に自らつけた傷が…
そして、今までも何度も失踪していたことも教えてもらった。

長男である父親は病院探しから親戚への対応、そして今後の祖父母の世話の話し合いを数日続けていた。
母親は親切にしてくれていた義両親が好きだったから、このタイミングでは離婚を押し進められなかったんだろう。

話し合いが解決しないまま横浜へ帰ることになり、そして私は受験。第一志望は落ちたものの、それでも某私立大学の附属高に受かることができた。

余計に両親は離婚できなくなった。

高校生活は、初めは順調だった。
ほぼ約束された進学、新しい友だち、私立ならではの充実した部活動…もちろん恋愛も。
このまま約束された将来へ進んでいくものだと思っていた。

高校2年生。正確には1年生の3月。
ある日突然、外に出られなくなった。

たった一歩、それが踏み出せない。
無理やり連れ出されると動悸で周りの音が聞こえなくなり、喉が無性に乾き、足は動かず立ちすくんでしまう。

特に電車や教室といった、「自分ではどうすることも出来ない密室」が苦手になった。
電車は各駅停車にしか乗れず、駅と駅の間のたった2分は地獄のような時間。
教室は休み時間は平気なのに、授業が始まった途端に怖くなってしまい、保健室へ逃げた。

母親が休みの日はなんとか車で送迎してもらっていたが、それでも保健室登校がギリギリ。
次第に完全に不登校になり、留年が確定した。

この頃から、父親が恐怖対象となった。
外が苦手ということを理解して貰えず連れ出されるし、この頃の父親はちょっとしたことでも怒鳴るようになっていたのが怖くて仕方なかった。
唯一の安全地帯であるはずの家も、父親がいると落ち着けなかった。

そして最悪の事態が起こる。

娘が精神科に通う理由のひとつが自分とは思っていない父親が、通院に付き添いたいと言い出した。
しかし今回の診察は学校の先生方も訳あって同席予定で、そこに父親を呼んでも診察の意味が無い。
母親もそう思ったのか、付き添いの提案を断ると、

キレた父親が、すぐ側にあった扇風機を蹴り飛ばし、壊した。

今まで父親は、どれだけ怒鳴っても怒鳴るだけだった。
せいぜい手に持っていたものを床に叩きつけるぐらいで、家族に危害はなかった。
しかしこの日初めて、ものに当たった。
それもただ蹴るだけじゃなく、壊れるレベルで。

流石に母親も怒り、私は恐怖で号泣。
弟は身を潜めていた。

この日以降、家族の会話はほぼなくなった。

通信制高校に転校したおかげで無事に留年することなく卒業でき、合う薬も見つかったおかげで外出が出来るようになった。
大学生活は毎日が楽しく、新しい友だちも出来て、また恋愛もして、本当に順調だった。

そんな大学生活を送り始めて半年が経った頃、父親に呼ばれた。
母親と弟も呼ばれ、「仕事を辞めた。翌日からは自営業のバーをやる。」と話された。

最初は理解出来なかったが、脱サラして出店したことを事後報告されたのだった。

ここからの家族の崩壊は早かった。

必ず払うと約束された学費は払って貰えず、奨学金を借りることに。なのに父親は非協力的で、さらに溝が深まった。
そしてコロナが流行し始め、バーは営業出来なくなった。生活費も入れてくれなくなったらしい。

大学2年になり、コロナ禍で家にいないといけないのが辛く、出歩いて帰らない日が増えた。
後期には母親と物件探しを始めた。
成人後の離婚がどう影響するのかも調べた。

3年になり、やっと両親は離婚した。
新居へ引越し、役所で様々な手続きをし、
母の旧姓になるまで1ヶ月もかかった。
初めて裁判所と電話をした。

そうしている間に3年の夏は終わり、新しい名字での新生活が始まった。

父親に怯えなくていい生活を手に入れた。
まさか大好きだった父方の祖父母に縁を切られるとは思わなかったけど、それでも周囲のサポートもあり、今ではそこそこ快適に暮らせている。

ただ、ここ最近、どうしても辛くて泣いてしまうことが増えた。

頭の中では仕方の無いことだと分かっている。

本当はもっと早く免許を取りたかった。
けど、生活はギリギリ。
そして離婚に関連する手続きで忙しい間に取る余裕はなかった。

弟のように甘やかされたかった。
母親が差別している訳では無いのは分かってる。
ただ弟が服に無頓着すぎるから、揃えてあげてるだけ。
でも、私だって同じ大学生で、子供なわけで。
誕生日でも何でもない日に服を買ってもらいたかった。
学校生活を気にかけてもらいたかった。
帰りが遅くなると心配されたかった。

こんな娘でごめんなさい。
生まれてきてごめんなさい。

私がいなければ、弟の奨学金はもっと少なく済んだ。
そもそも、離婚だってもっと早くできた。
病んだかと思えば朝帰りするような娘を持たずに済んだ。

これが私の人生。
25歳でポックリ逝くのが目標。

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