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お金は欲しいが目的ではなく手段のひとつ、という話

「ゆたかさ」という言葉を聞くと、ぼんやり「お金やモノが満ちている」状態と「上品に微笑んでいる(架空の)おばあさま」を思い浮かべる。
ようは、「物理的なゆたかさ」と「精神的なゆたかさ」に対する、簡単なイメージだ。

人によって、また状況によって、イメージする「ゆたかさ」は異なるだろう。だから「この状態がゆたかな状態である」と、明文化することは難しい。
けれど、「幸せであるということは、ゆたかであるということ」と言い切るのは、間違いではないように思う。物理的にか、精神的にかは人によるだろうが、どちらかもしくは両方が満ちていないと、人は幸せではないのではないか。

わたしにとっての幸せポイントはたくさんある。
美味しいもの食べることは、口もお腹も気持ちも満ちて幸せになる。面白い小説を読む時間は、わたしの好奇心を満たしてくれる。
そしていちばんの幸せは、「夫と一緒にいる」ことだ。夫と一緒に居ると満ち足りた気持ちを覚えるのは、つまり精神的にゆたかになっているのだろう。家族と一緒にいることに幸せを感じるひとは、わたしだけではないはずだ。

欲張りなことに、わたしは夫とずっと一緒にいたいと思っている。
ずっと、というのは「添い遂げる」という意味ではなくて(もちろんそうなったらいいなと思っている)、「毎日1日のうち23時間ぐらい同じ場所にいる」という意味だ。別々のことをしていてもいいし、友達とそれぞれ遊びに行ってももちろんいい。ただ、老後まで待たずとも、望めば出掛けもせずに同じ空間にいられるようになる、ということ。
ちなみになぜ23時間かというと、残りの1時間はお手洗いだとかお手入れだとかの時間をおおざっぱに計上しただけである。

この頃の外出自粛についても、様々な不安はあるが、夫が在宅勤務になってとても嬉しかった。新型コロナウイルスが収束しつつあることは喜ばしいが、出社が再開になることは残念に思っている。
つまり、夫と居ることができればわたしは安らかでゆたかな気持ちになれるのだから、それが毎日だったら最高だと考えているのだ。もちろんたまにイラっとすることもあるけども、それを上回るものをわたしに与えてくれる。

「夫と毎日23時間いっしょにいる」ことを実現するにあたっての障害は、仕事だ。何せ生活費を稼がないと生きていけないので、会社に出社しなくてはならない。
在宅でできる仕事を探すだとか、一緒にお店を始めるだとか、色々な手段があると思う。考えてはいるが、どれも思い切らないと選べない選択肢で、それだけの余裕は未熟なわたしたちにまだない。

結局のところ、わたしがゆたかさを極めるにあたって、手段としてお金が必要なのだ。
わたしにとってのゆたかさは、お金があるということ自体ではない。宝くじで10億円当たってうれしくない人はいないだろうし、もれなくわたしも欲しい。そりゃ欲しい。「愛があればお金なんて」とは言えない。だが、引き換えに夫がいなくなってしまっては意味がないのだ。

つまり、自分がゆたかになって幸せになるためのみちを、躊躇なく選べる。そのための手段がお金になる。

わたしだけではなく、社会全体の傾向として、「お金やモノに満ちていることだけがゆたかさではない」という価値観が、昨今あらわになりつつある気がする。
かつて「24時間働けますか」という言葉があったが、その頃は仕事に打ち込むこと、お金を稼ぐこと自体が目的という人が多かったのだろう。けれど現在は、「自分の時間が大切」「仕事は仕事」という人が増えているように、SNSなどを通じて感じる。
これから、精神的に幸せになるための「ゆたかさ」とそれを実現するための「お金」、という二軸が、より鮮明になっていくのではないか。

わたしも、お金を手段のひとつとして、わたしにとってのゆたかさを手にいれたいと思っている。

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