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✲*゚1.泣きボクロ

午前四時。

窓の外で鳥たちが鳴き始めた。
カーテンの隙間から、ゆっくりと白い光が差し込み始める。

机の上には飲みかけのペットボトル。パッケージはローソンの安いジャスミン茶だけど、中身はただの水道水。それから読みかけの文庫本と、描きかけのスケッチブック。どれもこれも中途半端。

部屋が明るくなるにつれて、それらの輪郭がはっきりしてくる。
あたしは布団の中から、段々と明るさを増していく自分の部屋を、ただ呆然と眺めていた。

遠くの方でカラスが鳴き出す。

私は布団にうずくまる。さすがに羽毛布団は暑いからって押し入れに仕舞ったけど、なんだか今日は、ちょっと肌寒い。

カラスの鳴き声が遠くなる。

あたしはやっと眠りについた。

☆☆☆

不思議な夢を見た。

初めは霧のせいで視界が霞んでいたから、ここがどこかも分からなかったし、仄かに明るい程度だったから時刻もわからなかった。音も聞こえない。

怖い。寒い。怖い。

あたしが動けずにいると、だんだんと視界が晴れてきた。
ゆっくりと、波が引いていくみたいに。

そこで気づいた。

あたしの視線の先に、だれかいる。

霧が完全に晴れて、あたしは彼の姿をはっきりと捉えた。彼もあたしの姿を捉えた。視線が交わる。少しの緊張と、でもなぜか、なんだか懐かしい気持ちがした。

歳は多分あたしと同じくらい。白いシャツにジーパン。なぜか素足。どちらかと言うと痩せ型で、短髪黒髪。あたしはもっとガタイのいい人が好みだけど、右目の下にある泣きボクロはちょっと可愛いと思った。

なにかの音がした。あたしはハッとして、その瞬間、ここがどこなのか理解した。

ここは、あたしが昔住んでた団地だ。
集合住宅が規則正しく並んでて、団地の中央には小さな公園があった。ジャングルジムとブランコと、ちっちゃな砂場しかない公園。あたしたちはその公園に立っていた。

辺りは真っ暗でとても静か。みんな寝静まっているのか、そもそも誰もいないのか、虫の鳴き声だけが聞こえる。

「こんばんは」

彼の声。鈴の音みたいな澄んだ音。

あたしはその声を聞いて。何故だろう。
気がついたら涙を流してた。

自分でもよく分からない。彼とは初めて出会ったはずで、これは夢の中の出来事で。

そこであたしは思った。

あ、そうか。泣いてもいいんだ。
ここは、あたしの夢の中なんだから。

「そうそう。泣いてもいいんだよ」

あたしの心を覗いたかのように、彼が言葉を紡ぐ。

「つらくて、苦しくて、どうしようもない気持ちが溢れてきて。自分の身体じゃ抱えきれなくなってしまったら。そんな時は、素直に泣いていいんだよ」

彼がブランコに座るよう促した。
あたしが座ると、彼も隣のブランコに座った。
ブランコは少し、小さかった。

「ここは、あたしの夢の中だよね。あんたは一体何者なの?」

涙を手の甲で拭って、あたしは尋ねた。
そう。ここはあたしの夢の中だ。

「どうして、夢の中でこの場所が出てくるの?」

彼は少し困ったような顔をしていた。

「うーんとね、僕もよく分かんないんだけど……。多分この夢は、今の君が一番必要としている"記憶"から出来てるんだと思う」

「あたしが、必要としてる記憶……」

そんなものがあるのだろうか。ここで過ごした記憶ってことなのか。確かに、この団地に住んでいたのはずっと昔のことだから、きっと忘れていることも多くあるとは思うけど。

改めて公園を見渡してみる。
真夜中ってだけで、特に変わったところはないように思う。何の変哲もない遊具。大して広くもないからサッカーも出来ないって、同じクラスだった男子たちが言ってた気がする。だからみんな、学校近くの大きな公園に遊びに行くんだって。

彼があたしに聞いてくる。

「君は、この公園で誰と遊んでいたの?」

そう。ここの公園はあまりにつまらないから、クラスのみんなは違う公園まで遊びに行っていた。
でもあたしは、みんなについて行かないで、いつもこの公園で遊んでたんだ。

ここで、あたしと一緒に遊んでたのは。

「……ユウくん」

隣の部屋に住んでたユウくん。クラスは別々だったけど、お隣さん同士だから生まれた時から仲が良くて、いつも一緒に遊んでた。

「ユウくんは生まれつき体が弱くて……。激しい運動とかが出来ないから、よく本を読んだり絵を描いたりしてたんだ。でも、たまには体を動かさないといけないからって。そういう時は、よくこの公園で遊んでた」

「君はクラスの子とは遊ばなかったの?」

「遊ばなかったわけじゃないけど。ユウくんと一緒にいた方が、なんか、楽しかったんだよね」

「あれも、ユウくんと遊んだ時のかな?」

彼が指さしたのは砂場のほう。近づいてみると、地面にたくさんの絵が描かれていた。リンゴ、ラッパ、サカナ……。なにを描いたのかよく分からない絵もある。

「これってもしかして"絵しりとり"じゃない?」

「あ、そうかも。ユウくん、結局公園に来てもこんな風に絵描いてた。うわぁ〜なつかし〜」

あたしはその地面の跡を指でなぞった。
当時はあたしが描いてみても、ユウくんみたいには全然上手く描けなくて。ユウくんがそれを見て笑うから、あたしはちょっと怒って。でもそのやり取りが、とても楽しかった。

「思い出せた?」

「うん。でもそれじゃ、あたしが必要としてる記憶って、ユウくんとの思い出ってことなのかな」

「きっとそうだと思うけど……。僕にはなんとも言えないなぁ」

「歯切れ悪いな。……でもそっか、思い出か」

ユウくんとの楽しかった思い出。
それを今のあたしは必要としてるらしい。
なんとなくだけど、すとんと胸の中に落ちてくるものがあった。

「そういうのは"腑に落ちる"って言うんだよ」

「知ってるよそれくらい!!てか、あたしの心の中覗かないでよ!!」

「いやー、なんとなく伝わってきちゃうんだよね」

彼が悪びれもなく答える。なんなんだ一体。

「ほら、そろそろ夜が明けるよ」

彼の言葉通り、東の空が仄かに明るくなっていた。
もうすぐこの夢も終わりなんだろう。

「あたしが寝た時、もう朝だったけどなぁ」

「細かいことは気にしないで。ほら、もう起きるよ」

「ハイハイ」

「あ、そうだ」

そこで彼が思い出したように聞いてきた。

「僕の姿って、その"ユウくん"に似てる?」

あたしは彼の姿をましまじと眺めて。

「いや、全っ然似てない」

「まじかー」

全然似てないよ。そのホクロ以外はね。

☆☆☆

スマホを見ると、昼の12時を回っていた。

窓の外からは、子供たちの声と車の通る音が聞こえる。

あたしはベットから起き上がると、とりあえず顔を洗おうと思った。なんだかまだ、夢の中にいるようだったから。

顔を洗って少し落ち着いて。
そして、二週間前のことを思い出していた。

-ユウくんが死んだと知った、あの日のことを。

二週間前、ユウくんの母親から手紙が届いた。
あたしが中学生になる年。父の転勤であたしたち家族は、あの団地から引っ越した。それからはユウくんとも疎遠になっていた。初めの頃は手紙を出すこともあったけど、だんだんと学校も忙しくなってきて、最近は量産した年賀状のうちの一枚を送るくらいだった。

手紙を開くと、丁寧な文字が並んでいた。
簡単な時候の挨拶の後に、先日、ユウくんが病気で亡くなったことが書かれていた。昔あたしたちがとても仲良くしていたことを思い出して、こうやって手紙をくれたらしい。

ユウくんが死んだ。

その言葉は、なかなかあたしの中に入ってこなくて、宙を舞って、そのまま床の上に落ちた。

実感が湧かないってこういう事なのかと、どこか冷静なあたしは思った。

手紙の続きには、お葬式は身内で済ませたことと、もしよかったらお墓参りに来てくれないかと書かれていた。

あたしはその手紙を机の中にしまって、時計を確認して、とりあえずバイトに行かなきゃと思った。

それから二週間。

大学もバイトも普通にある。でも、なぜだろう。
なにもやる気が起きなかった。

ベットの中で過ごす日が増えて、昼夜逆転の生活を送った。最近はなかなか眠ることも出来なくなっていた。友人からのLINEにも適当に返事をして、バイト先の店長には当分休ませて欲しいと頼んだ。

試しに、好きな本を読んだり絵を描いたりもしてみた。けどダメだった。途中で投げ出してしまった。
このままじゃいけないってわかってる。でもあたしは、どこかに心を置いてきてしまったようだった。

机の引き出しから手紙を取り出す。

手紙に書かれていることはすでに過去の出来事で、ユウくんが死んだことも、今更手紙を読み返したところでなにも変わりはしない。

でもそっか。

ユウくん、死んじゃったんだね。

もう会えないんだね。笑った顔も見れないんだね。

気がついたら、あたしは泣いてた。
二週間前は涙のひとつも流せなかったのに。

視界が滲む。あたしの世界がぼやける。

涙が、止まらなかった。

☆☆☆

「ホクロかぁ……」

彼女が目覚めたあと、僕はひとり公園に残された。

「さてと。仕事は終わったことだし、僕も帰ろうかなぁ」

「あの……ありがとうございました」

声のした方を振り返ると、ひとりの青年が立っていた。

やせ細った体で、少し寂しげな表情の彼。
右目の下にある泣きボクロがチャーミングだ。

「本当にありがとうございます。俺には、どうすることも出来なかったから」

「いいよいいよ。これも"僕たち"の仕事だからね」

「彼女は大丈夫でしょうか」

「大丈夫だと思うよ。きっかけはつくってあげたし、きっと今頃すっきりしてるんじゃないかな」

僕がそう言うと、彼は少し安心したようだった。

「俺が死んで、周りにいたたくさんの人達を悲しませてしまいました。でもまさか、彼女まで苦しめることになるなんて思ってなかったから」

「でも最近は疎遠になってたんでしょ?」

「はい。でも、心のどこかで忘れられなかったんだと思います。少なくとも俺はそうだった」

「生きてるうちに連絡すればよかったのに」

「それはそうなんですけど。彼女はとっくに、俺の事なんて忘れていると思っていたから……。こんなことになるなら、ちゃんと連絡すればよかった」

「そういう後悔があるから、まだこの世に留まってるわけだからね。まぁ最近は、後悔してない奴の方が少ないけどさ。んでどう?これで向こうに渡れそう?」

「はい。もう大丈夫です」

「じゃあ、そろそろ僕たちもいこうか」

僕が歩き出すと、彼はもう一度だけ公園を見渡した。
その目は、懐かしさと優しさで満ちていて。

東の空が明るくなっていく。

もうすぐ夜が明ける。

「……さよなら」







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