養鯉の鬼
俺は鬼。養鯉の鬼。
コイを肥え太らせることに関して一切甘えを認めない。常にコイを優先させる生き方をしてきた。
過去には四人の妻と六人の子、故郷の父と母それに祖父と曽祖父を母方父方まとめて捨ててきた。たとえ血縁といえ、俺の養鯉にかける意思に優るものは何一つ無い。
俺のすることに横槍を入れようものなら、何者も一切の躊躇なく切り捨てる生き方をしてきた。先生、クラスメイト、仲間たち、後輩、課長、係長、市長に首相、林家たい平、円楽師匠……
取り憑かれたかのように、人気のない山の中俺は毎日コイに餌をやる。一心不乱。ひたすらに楽しい。これこそまさに男の生きる道と思う。
俺の他に人一人いない施設の中、こうしてコイに餌をやっていると過去の過ちの何もかも清算されていくような気さえしてくる。
ある日のこと、俺の養鯉施設にやって来たのは一人の若い娘。聞く所によると、養鯉を生業とすることを夢にしているという。
試しにコイの餌やりをするように娘に勧めると、娘は生け簀に勢いよく餌を撒いた。腹を満たそうとするコイの群れは蝟集し、跳ねる音を立て水面は波に揺れた。
こういう手合いは思いのほか少なくない。――行く先も見つけられない若者のひとときの気の迷い。思うと捨てた妻達とも元々はこんな風に知り合ってきた。餌を食うコイに夢中な娘の黄色い悲鳴をよそに、俺はそんなことを思案していた。
しかしこの手の”にわか”コイキチの大半は師を持ったとて、養鯉にまつわる過酷なリアルを思い知り、結局はそのうち疲れきって田舎に帰ることになる。養鯉とはかくもつらい生業。界隈を跳梁する甘党の知識層には広く知られていること。過去百年には「コイを肥え太らせ、その身は瘦せ細る」と著書を締めくくった異国の博識もいた。
俺は娘のオファーを受け入れた。こいつも近いうちに諦めて帰ることになる――。その時はそう思っていた。
七年経った。
俺は世間の言う壮年期に達していた。此の所思うように働けないことも多くなった。手足も腰も目も耳も、消化器官さえも言うことを聞いてはくれない。もはや誇りと気力のみを頼りにして養鯉の世界の淵に立てているような有様になっていた。
そんな俺にひきかえ、娘は最初に会った頃の若さを保っている。
というよりも俺の目には一切の変化を認められない。本当に全く変わっていない。
いつか本人から聞いた話によると、この娘は生け簀のコイから発せられる少量のα線やX線の影響により、地球の引力や加齢の影響を受け付けなくなる体質らしい。そういった話は西洋の神話や怪しい民間療法に記されるように、古今、まことしやかに囁かれている。
奇跡の起こる地と知られているシエラレオネの出身とは聞いてはいたものの、まさかこの娘のこととは。
コイの話のほかに、さして何かに感心することのない俺もこれには内心驚嘆を隠せない。尤も、娘本人にその感心を伝えることはない。俺の沽券に関わるし、他人と余計なことを話すつもりはない。故に人は俺を養鯉の鬼といった。
ある日重い病にかかった俺は、とうとう職を離れ山を下りて、医療機関の世話になることになった。幾日にも亙る治療の末に、何とか小康を得た俺はようやく職務に復帰することになった。
今朝のルーチンワークも終わりを迎える頃、あまりに急な娘のけたたましい悲鳴。
「生け簀を見て!大変なことになっているわ!」
寛解していないせいか、不調を来して椅子に座って休憩していた俺に娘は捲し立てた。慌てて事を把握しようと生け簀の縁に引っ付き、中を見た俺は声を失った。
生け簀のコイはみな、活きのいいシャケに変わり果ててしまっていた。
俺の呆気にとられた顔を見て、薄い笑みを見せて娘は説明した。
何を隠そう、目の前のこの娘は「コイをシャケに変える」能力の持ち主。
X-MENの一員らしい。恐らくはミュータントの一種か。
昔捨てた何人目かの妻の依頼を受け、俺を懲らしめるためにこうして何年間も熱心なアシスタントのフリをして復讐の機会を待っていたらしい。
俺は今になって何もかも理解した。
俺は養鯉の鬼。
目の前の娘は養鯉の鬼を殺す鬼。
四肢に力を入れられない。
さしもの養鯉の鬼も寄る年波には勝てやしない。空の生け簀の前に倒れ伏す俺をちらりと見ることもなく、娘は西の空の奥深くへと消え去っていった。
完
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