「聲の形」は大今良時の私小説なのか?
私は「聲の形」は作者である大今良時の私小説的要素を孕んだ作品だと思っている人間だ。
それは何故か、簡潔ではありますが文章化しようと思います。
前提として
私が聲の形が大今良時の私小説的に書いていると思うのは幾つか理由があって。
創作物を完成させるには莫大なエネルギーが必要で、単に小銭稼ぎや承認欲求が欲しいという理由では、やり遂げることが難しいと思うのですよ。
そういったモチベーションでも作ることはできると思いますが、あの様な大作にはならと思います。
以前自分の記事でもサラっと触れましたが、押井守の言うところの
「人間の情熱とか、やむにやまれぬ思いとか情念とかそういうものがないと成立しない」のです。
でないと、新人が週間連載を続けることなんて難しいと思います。
また、新人作家である場合は技巧が未熟なため、より自身のそういった感情を使って作品を作らざるを得ないのです。
つまり、私小説的な作りにどうしてもなってしまうのです。
そういう前提を置いた上で大今良時の「やむにやまれぬ」ものとは何か?
それを私小説的にどう描いているのかをちょっと書こうと思います。
①ファンブックより考察
ファンブックでのインタビューを読む限り自分は大今良時は自分を投影して描いてるように思えるのです。
上記のインタビューから自分としてはこの様に推察出来ると思います。
①硝子のモデルとなった人物は、聴覚障害者ではなかったが、大今良時が上手く人間関係を作ることができなかった人物である。
②(①に関係あるかどうかは不明だが)硝子のモデルとなった人物は、自殺した。
③硝子のモデルとなった人物の死で、大今良時はかなり衝撃を受けた。
④大今良時は「自分は変わらねばなるまい」と考えた結果、聲の形を描いた。
映画では尺の理由上カットされた終盤での映画製作編が描かれた理由がここら辺にあると思うのですよ。
それは、読者から若干唐突(アギトのラスト5話の様な感じ)ではないか?という声があっても、いやだからこそ描かれた様な気がします。
映画製作編では将也の親友が自らを表現するために、硝子がバラバラになった皆を結びつけるため自主制作映画を作ると言ったものです。
(ここら辺、各キャラの思想や過去がわかっていいですよね。)
で、その映画の内容は将也や硝子が自殺しようとしたこと、皆のギクシャクした人間関係を反映したものでした。ほとんどの観客が呆然とし、審査員からボロクソでしたが将也だけが「さ…最高――!」と感動してしまいます。
これは大今良時にとって、過去や自身の体験を漫画にすることを、「聲の形」という漫画の中で表現した、劇中劇の様な意味を持った、平成仮面ライダーで例えるならディケイドの様なメタフィクション的な意味を持っているのではいないかと思います。
それは、映画を作ることで将也や硝子の周囲の人間が(それなりに)まとまり、理解しあえたように、漫画を描くことで、バラバラだった大今良時の心に抱えていた気持ちがまとまったことを描いているのではないでしょうか。
コンテストに出すと審査員から「君のマスターベーションを見せられちゃったって感じかな」とか「ひどいナルシズムを感じる」といわれてしまうワケですよ。
大今良時は、この漫画が自分にとってのマスターベーションでナルシズムの結晶としての「聲の形」である。
なんてことは充分に自覚してるワケですよね。
加えて、聲の形は実は計4回も描かれた作品です。
2007年:新人賞受賞(掲載見送り)
2011年:別冊少年マガジン掲載
2013年:リメイク版が週刊少年マガジン掲載
2013〜2014年:週刊連載
「だから、4回も描くほど思いれのある漫画なんだ!」と言いたいのですが、この計4回に渡り「イジメ」や「聴覚障害」というワードに反応した人々によってあーだ、こーだ言われたました。つまり、計4回、反響と批判を呼んだわけです。
有吉弘之の言うところの「ブレイクするということは馬鹿にみつかることだ」が4回もあり、短編、リメイク短編、長編、そして映画と、4回馬鹿に見つかった、大今良時は色々言われたのです。
(モチロン、馬鹿に見つかる度に作品に触れる人が多くなり、コンテンツとしての規模が大きくなっていくので良いのですが。)
それを踏まえた上で自身の「やむにやまれる思い」を注ぎ込んだ作品が酷評されるのともリンクしている様に思えるのです。
それを含めて大今良時はインタビューでここのシーンを描くが「むっちゃ楽しかったんですよ(笑)。」と言っている様な気がしてならんのです。
②大今良時作品がそもそも「私」を入れる作家だということ
大今良時は聲の形もそうですが、「マルドゥック・スクランブル」や「不滅のあなたへ」でも自身を削ぎ落として作品にする作家であると思うのです。
バロット、硝子や将也、さらにノッカーですらが死を願います。大今良時はそこから如何にその願いから遠ざけるか?それは自殺(してしまったかもしれない)友人を漫画の中で死を食い止めるために描いていると思うのですよ。また、周囲の人間もその自殺しようとする人間とどう向き合うか?が描かれておりそれは自分自身が出来なかったことを漫画という極めて個人の妄想に近い世界でやろうとしているのでしょう。
そう考えると連載版より前の「聲の形」は違う意味を持ってくる様な気がします。
先にも大今良時が死を遠ざけるのは友人のためかもしれないと書きましたが、自分自身のことでもある可能性もあります。
https://news.goo.ne.jp/article/footballchannel/sports/footballchannel-96190.html
自分は今、アラサー世代で自分の表現を持ちながらもどんな世界観をも描ける漫画家は諫山創、大今良時、藤本タツキの3人だと思っています。
(九井諒子も漫画を読む限りおそらくアラサー漫画家だが年齢を公開していないので今回は除く。)
そんな自分としてはどうしても大今良時は他2人の様に「漫画家になれなかったら死ぬ」というタイプの人間だったと思うのですよ。
大今良時が自殺しようとするのを漫画の中で止めようとするのは過去の自分をも投影しているのではないでしょうか?
揚げ足取りみたいになりますが死ぬことを考えたことない人間は「自殺は絶対しない」って考えないと思います。
大今良時は自分の祖父母との経験を漫画に落とし込んでいます。
祖母の死によって「不滅のあなたへ」というタイトルや、ピオランのエピソードを作っています。(そして、それをエンタメ化して生きている自分に疑問を持っているのもいいですねぇ…)
「聲の形」では結弦の様に不登校だった時代に
「ばーちゃんはゆづ(大今良時)が心配だよ。姉ちゃんのことばっかで自分のことは知ろうとせん」
みたいなことは言われているでしょう!大今良時に姉と兄がいるということを踏まえても!!
大今良時は上記の様に自分を入れて描いているのです。
そういえば先ほど、バカに四回も見つかった「聲の形」は西宮硝子の人物造形に対して批判が挙がっていました。
「聴覚障害をエンタメ化し、いじめっ子や元いじめっ子を慰める感動ポルノではないのか」
「聴覚障害者である西宮硝子が無垢な天使として描かれているのではないか?」
石田将也はいじめっ子でありながらいじめられっ子という経歴を持ちます。また、いじめに加担していた植野直花はある意味で石田よりも西宮と向き合うキャラでした。
西宮硝子のキャラ造形においても「天使」として象徴されないように描写はされています。
西宮硝子はいつも微笑んでおり、周囲に気を遣うばかりで決して怒らない人物として描かれていましたがそれは物語が進むにつれて演技でしかなく、努力の結果そう振る舞っていただけとわかります。
1巻での将也とのケンカでも「これでも(それでも)頑張ってる」と発していたり、結弦には時に強気で接してたりします。
終盤での自殺を試みようとすること自体、彼女が常に本心をひた隠しにしていたことの何よりの証明です。
作劇的観点から言えば西宮のような「つんぼ系ヒロイン」は「綾波系ヒロイン」としてサブカルチャーのなかで大きな人気を博したので美人に書かれているのです。
これは受け手が「作中では普通の顔で、無口な感じで描かれている
けど、自分だけがこのつんぼ系ヒロインの可愛さ(良さ)を分かっているんだ…!」
「こんなに社会のヒエラルキーとして下等なオレでも付き合えるんだZE!」という欲望を満たし、そのキャラを特別視或いは感情移入してもらう手法を使っているのです。
これが不細工に描かれていたら週刊少年マガジンという媒体においてあそこまで人気は出なかったでしょう。アフタヌーンじゃないんだからさ。
そこも承知で、聲の形では「美形」か「モンスター(西宮の父系の家族など)」という二分した描き方をしています。
また、「つんぼ系ヒロイン」や障害者を作品に出す事に批判が挙がりますが、「女囚さそりシリーズ」とかはいいの!?三島由紀夫の「金閣寺」とかモロにアウトなんじゃないの!?と思ってしまいますね。
話を戻して。
西宮硝子の批判を回避するには作中で聴覚障害者をあと何人か登場させればいいのです。
西宮硝子と正反対というか、全く異なる聴覚障害者を、最低限一人だけでも登場させるだけで済むでしょう。
言ってみれば、平成特撮で主人公の影法師としてのダークライダーや人造ウルトラマンみたいな感じでですよ!
彼らは昭和のにせ仮面ライダー、にせウルトラマンとは全く異なる位置です。
価値観の多様化、大きな正義(もしくは物語)としてのビッグブラザーの死、ゼロ年代決断主義世界において、「何が正義で何が悪なのか?」を定義することが難しい現代で、主人公の正しさに異議申し立てをするためのダークヒーローでありアンチヒーローでした。
その様な感じで、西宮の引っ込み思案で笑顔を絶やさず、決して怒らない性格は、天使のような障害者という特性ではなく、西宮一個人の性格によるものとして描くことが出来るのではないでしょうか。
つまり、聴覚障害者の代表でなくなるワケですね。
高校生になった西宮は聾(ロウ)学校に通っているということになっているので、そこでの同級生として登場させれば良いのです。ポリコレへの配慮というやつですね。
同年代に公開された「この世界の片隅に」では、主人公であるすずさんが昭和的女性の役割を押し付けられる一方で、義姉の徑子は元モダンガールで、結婚相手も離縁も自分で決め、自分の人生は自分で決めてきた女性として登場します。
こういう感じで上手く出来ると思うのです。
自分の様な凡夫以下の存在でも思いつくのですから、大今良時はとっくの昔に思いついているでしょう。次作での「不滅のあなたへ」のグーグーを描いたタクナハ編では上記のような批判、「聲の形」という作品へのアンサーソング、語り直しおしているのですからやろうと思えば幾らでも批判を回避するような描写はできたハズです。
でも、大今良時はそうしなかったわけですよ。
それは何故か。
作劇上の構成が長くなってしまうということもあるかもしれませんが、やはり自分の「やむにやまれぬ思い」を反映させた漫画をポリコレに配慮するためだけにそんなことしたくなかったのでしょう。
それは、硝子のモデルとなった人物や、創作の動機となる現実への「裏切り」行為になってしまいます。「やむにやまれぬ思い」はそこで消失し、大今良時は二度と「聲の形」という漫画が描けなくなってしまうのです。下手をすればもう二度と漫画を描けなくなってしまうことなのですから。
(ここら辺を踏まえるとノッカーについても深く読み取ることが出来るかもしれませんね。)
まとめ
「聲の形」はコミュニケーションを扱った作品だ。それは作者自身も多くの媒体で語っているためその通りなのだろう。
そこでは友人と、ネガである自分(言い換えるなら他人)と漫画という人生そのものを使ってコミュニケーションをしているのだ。
それは死の匂いを感じさせる暗い泥沼の様だとしてもだ。
大今良時にとって自身の漫画は読む者を驚かせる華麗さに満ちた、夜空一杯に広がる花束である。
打ち上げ花火はすぐに消える。だが、漫画の中では死者は今でも立派に残っている。
それはいつまでも消えない友人と過去の自分との花火の残像である。
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