ミルクの森で⑦
7.森のなかに
2019年5月28日。
季節外れの暑い日が何日か続いた後に、気象予報士に義理立てするかのような、清涼な一日がやってきました。
それは、雲のフィルターを通った柔らかい光と爽やかな澄んだ風が心地よい日で、僕たち家族にとっては、念願の温泉旅行の当日でもありました。
そう、2ヶ月ほど前にようやく母が退院したのです。
*
朝に早起きをして車を洗い、近くの農協のGSでガソリンを充填します。
実家に戻って簡単な朝食を取り、今日の旅行の算段について考え始めました。
予約したのは、岩手県雫石町の南網張温泉の一軒宿。
岩手山麓の静かな森の中にあり、風光明媚なところです。近くには小岩井農場の広大な敷地が広がっています。
その温泉宿をネットで見つけ出したのは僕で、車椅子でも宿泊できる3人部屋があるのが決め手となりました。
高齢者や障害者を抱える家庭にとって、旅行というのは、ちょっとした冒険と同じです。
障害者でも入れる温泉はないだろうか?
トイレは近くにあるのだろうか?
このお店で食事をしたいが、段差はどうだろうか?
そんな色々なことも勘案して、その温泉宿に決めたのでした。
「さて、宿の近くに有名なジェラート屋『松ぼっくり』があるから、そこに寄ろうかな?」
*
神奈川県川崎市で起きた凄惨な事件について知ったのは、ちょうどそんなことを考えていた時です。
「現在、救急車が到着し、必死の救助活動が続けられています」
TVのリポーターは興奮した様子で、同じ事を二度続けて言いました。
「なぜこんな酷いことが起こるんだろう?」と僕は思います。
人生には様々な苦難が、意地の悪い落とし穴のように待ち受けています。
年は取るし、抜け毛は多くなるし、女性にはフラれるし、病気にはなるし、医者は診断を間違えるし、スマートフォンが行方不明になったりもします。
そんな、ただでさえ慌ただしい日常の中で
どうして、このようなむごたらしい事件にまで遭わなければいけないのでしょう?
なぜ一度きりの人生で、見ず知らずの他人に殺されなくてはならないのでしょう?
あるいは
なぜ罪のない、美しい子供たちを殺さなくてはならないのでしょう?
そんなことを考えていると居たたまれない気持ちになって、TVの電源を落としてしまいました。
*
母が僕を呼ぶ声が聞こえます。
「行くよ、慈雨」
出発の時間が来ました。
僕たち家族は、中古のボルボの荷台に旅行用のバックを積み込んで、温泉旅行に出掛けました。
いや、もしかしたら、僕たちは逃げ込んだのかもしれません。
細やかな風が吹く、五月の静謐な森の中に。
(『ミルクの森で⑧』へ続く)
【附記】
事件にあわれた被害者の方々の御冥福を心よりお祈り致しております。
もう二度と同様の事件が起きないように、只ただ、沈黙と哀悼の誠を捧げます。