ミルクの森で⑥
6.化粧
女性にとって化粧とは、「身だしなみ」以上の意味を持っているのです。
おそらく、それは「できるだけ長く(そして、願わくば美しく)生きたい」という意思の表明であり、未来の自分に対しての「ささやかな献身」なのです。
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僕の「敬虔」とは言いがたい祈りが通じたのか、赤十字病院に転院してからというもの、母の容態は目に見えて回復していきました。
転院した当初は無菌室に入れられ、家族以外との面談は禁止されておりましたが、1ヶ月ほど経つと腎機能の数値も改善し、リハビリも再開しました。
前回の市立病院での苦い経験は、僕たち家族にひとつの教訓を与えました。
それは「医者の言うことは8割くらいしか当たらない」ということです。
あの年輩の看護士が言った「よくあること」が二度と起きないように。
僕たち家族は用心深く、一歩ずつ地面を踏み固めるように、その日々を過ごしていました。
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その頃の僕は毎朝5時に起きて身支度を整え、一度病院に寄って、母の様子を確認してから仕事場に向かうという生活をしていました。
ある日の朝のこと。
いつものように病室に入ると、母が「顔を洗いたい」と言い出しました。
病院からは2週間に1回程度の入浴タイムが与えられておりましたが、きれい好きの母にとって、そんな頻度では、とても我慢できなかったようです。
僕は洗面器にお湯を注ぎ、母のベッドまで運んでやります。
母はパジャマの袖をまくりあげ、洗顔クリームを泡立てて、気持ち良さそうに顔を洗います。
そして、タオルで顔を拭うと、おもむろにポーチから化粧品を取りだしました。
今度はピンク色のボトルに入った化粧水をパシャパシャと肌に浸し、さらに乳液を手に取り、顔に満遍なく塗り込みます。
母は化粧を終えると、白髪混じりの自分の顔を鏡に写し、「すっかりお婆ちゃんになっちゃって」と軽い溜め息をつきました。
僕が
「そう?けっこう前からだよ」
とからかうと、母は
「そうか、『けっこう前』からか。じゃあ、しょうがないねぇ」
と言って、ふふっと微笑みます。
僕が、女性にとっての化粧の意味について考えたのは、そんな他愛のないやり取りの最中でした。
(『ミルクの森で⑦』へ続く)