チケットは公演の確約ではない
チケットが取れたからってその公演を見られる確約はない。
ここ1、2年本当に実感してること。
そもそもチケット取る事自体が難しい、それでやっと取れたチケット、それが当日中止ってどれだけショックか。
今回私は中止にはたまたま当たらなかった。
見ることが叶った。
それでも中止という情報が流れてくると思い出す。
まだこんなことになる前、2019年の公演。
当日会場近くで中止を知った。
その公演は最推しの実装公演で、決して座席はいい座席とはいえなかったけれど、どうしてもその会場で見たかった。
でもあの時、「見たかった、行きたかった」ということは許されない雰囲気だった。
演者さんの体調不良を心配することだけが許されてた。
少なくとも私はそう感じた。
演者さんのことを心配するのはもちろん私も心配だったし、良くなって欲しいと思った。
でも、その日見るはずだった公演は二度とかえってこないのも事実だ。
私は各公演で1公演でも行ければいいというスタンスなのでその日のチケットしか持ってなかった。
結局その演目を観劇することは叶わなかった。
何公演もチケットをとって何回も見るうちの一公演じゃない、その公演しか私が見ることが出来る公演はなかった。
何公演ものチケットをとる人の努力をどうこういうつもりは無いし、家族名義や友人に頼ってでも行きたいという気持ちは別に否定しない。
そのせいでチケットの競争率がさらに上がってるとは思うけど、それは別の話だから置いておく。
公式に対して暴言を吐くのはもってのほかだと思うけれど、行けない、悲しいというその日、本来観劇するはずだった人の気持ちをないがしろにする空気(そのつもりはおそらくないと思うけれど)が私は嫌いです。
行きたかったとか、見たかったとか、そういう思いは決して演者さんやカンパニーに対しての文句じゃない。
自分の気持ちを吐き出すことも許してくれないってなんなの?
2019年の中止公演の時、行きたかったということを一緒に観劇するはずだった友人に言うことさえ出来なかった。
見たかった行きたかったということをまるで人でなしかのように言われたからだ。
中止が一番悔しいのは演者さんなんだから、と。
そんなの分かっている。でもそれとこれとは別なのだ。なぜ見たかったという気持ちが演者さんを責めていると思われなければならないのか。
病気であれ怪我であれ、演者さんが悪いわけじゃないことくらいわかってる、わかった上でこっちだって辛いんだ。
でもあの時は本当に「辛い」ということを表明することさえ悪かのような空気だった。
その後何度も疫病のせいで中止が続いたり地震で当日中止とかがあったことであの時圧倒的少数派だった中止公演を見るはずだった私達は、少数派ではなくなった。
自分がその立場になってどんな気持ちですか?
そんな性格の悪いことを思った。
それでも優しいよね役者さんがいちばん辛いんだから辛いとは言わない、カンパニーも役者さんも頑張ってくれたって言ってる(ただ、これ言ってるのはおそらくその日観劇予定でもなかった人)。
いや、カンパニーも役者さんも頑張ってくれてたことはわかってるんだわ。でもその日しか見ることが出来なかった人ってのはいるんだわ。その人のその日見るはずだった公演は二度とないんだわ。
それすら黙らせてどうしたいの?
みんながみんなそんなふうに黙らせようとしてないことはもちろんわかってる。
でもこういうことがある度私はあの時を思い出すんだと思う。
我慢していい子のふりをして飲み込んで。
結局胃を壊してしまった。
どうか辛いと言わせて欲しい。
それに対して役者さんの方が辛いんだ、なんて言わないで欲しい。
そんなのわかってるんだよ、役者さんだってやりたかったであろうことくらいわかってる、でも自分の辛い気持ちくらい吐き出させて欲しい。
それでも黙らたいのなら自分がその立場になった時絶対に辛いって言わないと思ってるんだろうね。それならもう仕方ない分かり合えないと思うから。そのままでいて。