アヤカニのことを今でも思い出す
先日、友人からこんなものを譲ってもらった。
オオオン!これはアレじゃないですか!
コレじゃないですか!!!!
そう、そういうわけで、私は太野彩香ちゃんのことを思い出していたわけである。アヤカニが卒業して半年以上経つのか……あっという間だな……推しが卒業しても普通に時は流れるんだよな……しみじみ。
そう、推しはいつか卒業する。その後も芸能界に残るメンバーもいれば、きれいさっぱり一般人に戻るメンバーもいる。太野彩香ちゃんはどうか。それはもう潔いほどに一般人の太野彩香になった。今どうしているのか、わずかな情報は仲の良かったメンバーが語る姿しかないのである(それによるとよく一緒にゲームをしているらしい。ほほえましい)。
ここで本題。我々オタクは卒業したメンバーとどう向き合うべきなのか。推しTはもう着ないのか。ポスターは剥がすべきか?うちわはどうするんだ。
それはさておき、半年以上が経過し落ち着いてきて、「推しの卒業」というものの実感がようやく湧いてきている。グループの話題があっても彼女はどこにもいないし、くだらない内容のモバメが届くこともない。新しいシングルに彼女の姿はない。一度もシングル選抜落ちをしなかった彼女が。
悲しくなってきてしまったが、そうしてゆっくり受け止めてみると、「卒業したことで初めてわかること」も出てくると思う。歴史上の人物というのは、既に功績を残した後であるので、大抵は評価が定まっているし、研究もできる。アイドルの卒業もまた、「歴史上の人物となった」と言えるのではないだろうか。今活動しているアイドルには何が起こるかわからない。しかし、去ったアイドルはもう何も変わらない。そこにいたという厳然たる事実が残るだけだ。ゆえに、「卒業したからできること」はあるのではないかと思う。
しかしながら、やはりそこにおける情熱の保ち方というのは非常に難しいところだろう。動きのないものを愛でるにはこちらの熱量がすべてだ。「歴史」、言ってしまえば「過去」となってしまった彼女らの足跡をいつまで愛するのか。世の中には現在進行形でコンテンツが溢れている。それを追う方が楽しいのは確かだろう。
思い出は色あせる。私がアヤカニこと太野彩香ちゃんを思い出す頻度が少なくなっているというのは事実だ。けれど、時々、雑踏を歩いているとき、買い物をしているとき、仕事をしているとき、ふっと思い出すことがある。あ、これアヤカニが好きだったな、これアヤカニに似合うだろうな、アヤカニがこう言ってたし私も頑張るかな、と。
こうして時間が経ってみて、推しは卒業しても自分の思考の一部になっているのだなと思い知らされる。アイドルであるアヤカニはそこにいて、私は彼女を見ていたのだ。
現在進行形は楽しい。けれど、過去も悲しいものではない。推しは多分、今でもどこにも棲んでいる。
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