【読書】三島由紀夫『癩王のテラス』とゴシック
「聖なるものは物を否定する運動によって、その運動のさなかに現れる。供犠では犠牲(いけにえ)を滅ぼしているさなかに出現する。芸術作品が聖性を帯びるとき、そこでは物の輪郭・安定性が否定されているのだ。ゴシック大聖堂の装飾芸術のなかで怪物の図像はきわめてよくこの否定の動きを表し、聖性をかもしだしている。」酒井健『ゴシックとは何か』
三島『癩王のテラス』を読み終わり、長く積読し、ちかごろ並行して読んでいた『ゴシックとは何か』のこの箇所が、頭の中で響きあう。作品全体の構造そのものが、この聖性を具現しているようだ。
主人公のジャヤ・ヴァルマン王は、戦いからの凱旋時、寺院の建立を宣言するが、同時に不治の病の兆しを得る。寺院の建設が進むにつれ、その肉体は滅んでゆく。ラストはみづみづしく輝く若い王の肉体と、現実には死にゆく王の精神の声のダイアローグでしめくくられる。
肉体「見ろ。精神は死んだ。めくるめく青空よ。孔雀椰子よ。檳榔樹よ。美しい翼の鳥たちよ。俺はふたたびこの国を領(うしは)く。青春こそが不滅、肉体こそが父子なのだ。……俺は勝った。なぜなら俺こそがバイヨンだからだ。」 ―幕 バイヨン 王が建立した寺院
にしてもこの戯曲は実際の舞台になったことはあるのだろうか。スケールが大きいし、就中、タイトルの病が重要なモチーフであり、現在だとこのままの上演は不可能だろうが…。2023.12.10
追記 なんと、2016に鈴木亮平主演で舞台になっていた。観たかった。
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