究極の「ちょうどいい」 2人のローマ教皇
こんにちは
先日3月27日
コロナの影響により参拝者の姿が消えたヴァチカンのサン・ピエトロ広場でフランシスコ教皇が1人で祈りを捧げる姿が画的に強すぎるとSNSで話題になっていました
フランシスコ教皇といえば
アルゼンチン出身でサッカー大好き
教皇に選ばれる前から一般のアパートで質素に暮らしたり
ローマ教皇の伝統である赤い靴を履くことを拒み
安物の黒い靴を履いたり
かなり庶民派で、若いカトリックからも高い支持を得ています
昨年11月に38年ぶりに来日し、広島と長崎を訪問しスピーチしたことでも大きな話題となりました
今回はそんな愛され教皇フランシスコと、
嫌われ者で超保守派と言われた前・教皇ベネディクト16世の
二人の友情を描くNetflix作品
「2人のローマ教皇」
について紹介・分析したいと思います
脅威のスケール感
先に申し上げると「2人のローマ教皇」は
かなりの良作 だったと思います
Netflix作品は本当に、スケール的にも質的にも度肝を抜かれる作品が目立ちますが
こいつはマジすごい、
マネーが(笑)(笑)
Netflixの資金力と実行力をただただ見せつけられてしまったのです、、
余談ですが、Netflixが2019年にコンテンツに投じた費用は150億ドルだったそうです
日本円にしておよそ1.6兆円
(2020年東京五輪の予算って1.3兆円だったな、、)
作品ごとの制作費は公表していませんが、10億円を越す作品もあるとか
日本の連続ドラマは1本あたり数千万円
NHKの大河ドラマでさえ5000〜7000万円と言われています
おそらくこの「2人のローマ教皇」でも何億というマネーが動いたのでしょう!!清々しい!!
「貪欲で羨ましい」と企業文化を羨む領域です
テーマはものすごく素朴
これほどカネの話を振りましたが、
コンクラーベでぶつかっていた2人が
ベネディクトの任命後、ある出来事をきっかけに理解し合い友情を築いていく、
いわばアメリカ的コッテコテヒューマンドラマです
ではこの作品のどこに良作感を見出したのか
例えば教皇が選出される儀式 コンクラーベのシーン
世界中から集まる枢機卿(教皇の候補者達)達が業務を遂行する様子やそれを取り囲む政府関係者やメディア陣の動きが忙しなくスクリーンを埋めてくる!
普段なかなか公開されない「内側」の世界にワクワクさせられたのです
そして「世界中の10億人のキリスト教徒のトップを決める」
そんなビックディールをサクサクと作品として画面の中に落とし込むスマートさが恐ろしくカッコイイと思ったのです(思い出してください、月数百円しか払っていないサブスクのコンテンツです)
ヴァチカンといえば「天使と悪魔」でも同じように本物の舞台を使い、コンクラーベを再現してましたが、
このクオリティを「おじいちゃん達の友情劇」のためにサクサクと作品のコンテンツ扱いしてしまうスケール感、、、
演出がスマート
私が好きだなと思ったシーンが2つあります
ひとつは誰もいないシスティーナ礼拝堂の中をフランシスコが1人でぐるっと見渡すシーン
ルネサンス期の代表作 ミケランジェロの壁画・天井画をフランシスコの視線に沿ってカメラが回り、それにジャズサックスの甘いメロディーとパイプオルガンが順に乗っかっていく
オシャレすぎる、、、
何度も繰り返し再生してしまいました
サックスとパイプオルガンという組み合わせを提案した音楽担当の人たち、天才ですか?天才でしょうね
もうひとつはこのシスティーナ礼拝堂内の脇にある「涙の間」で2人がピザを頬張るシーンです
重くて暗い、命の話を交わしたシーンから一変、
アコギをBGMにちょっと雑なお祈りを済ませてピザを頬張るシーンに移ります
温かみもありながら神々しさを演出する照明で包まれた画面は
観ている側にも安堵を与えてくれるのでした
そういえばこの作品はヴァチカンが舞台なのに冒頭からビートルズが流れてくるし、
フランシスコの故郷アルゼンチンのタンゴやジャズが映像に軽快さを乗っけてくるし、とにかく演出が先進的且つスマート!!
究極にちょうどいい
またNetflixの話に戻ります
世界中の多種多様なコンテンツを
ユーザーは自分の好きな時に好きなだけ観ることができるサービスですが
その分「観ない」選択肢も多いと言えます
飽きれば数十秒も経たないうちにすぐ別のコンテンツや他社に離脱することができるため、
PC画面だろうと、スマホの小さな画面だろうと、スクリーンいっぱいに最高のコンテンツを絶え間無く流さなければ視聴者は簡単に離れてしまう
また、どれだけ質が高くてもストーリーが重すぎたり、暗すぎたり、時間が長すぎたりしても離れてしまいます
サブスクの「ユーザーの取り込み易さ」ゆえにこんなジレンマが業界には少なからずあるでしょう
2人のローマ教皇は、
友情という陳腐なテーマを
「ローマ教皇」という重厚な設定で組み立て、先進的で軽やかな演出でスマートにまとめています
映像配信業界が皮肉にも自分たちで産み出してしまった
「わがままなニーズ」と環境に応えた、絶妙な中間をくぐり抜けた秀作と言えます
つまり、「究極にちょうどいい」作品になったわけです
金の子牛
ほんの数秒ですが、システィーナ礼拝堂の壁画の一部、金の子牛の絵にカメラがフォーカスするシーンがあります
「金の子牛事件」という話が聖書のエジプト記32章に出てくるのですが
モーセがシナイ山で神から十戒を受け取っている間に、麓にいたモーセの兄アロンとイスラエルの民が金の子牛像を作り、それを崇拝した事件です
ユダヤ教ではこれを「大いなる罪」として伝承され、キリスト教ではこれをユダヤ教を否定するための格好の材料と捉え、自分たちの正当性を説いています。(諸説あり)
この「大いなる罪」である金の子牛の絵を意味深に映したあと、当作品の中で最も重要なシーンと言えるフランシスコのある告白が始まるのですが、
タイムリー(ではないか)なことに2018年の8月8日、フランシスコが一般謁見にてこの「金の子牛事件」について語っていたことがヴァチカンニュースに掲載されています
「人間の本性は、不安定な状態から逃れるために、自作の宗教を求め、神が目に見えないのならば、自分たちで思い通りの神を創作しようとする」、「こうしたことからも、偶像とは、自ら作り出したものを崇拝しながら、現実の中心に自分自身を置こうとするための、一つの口実である」
「金の子牛」とは、自由の幻想を与えるすべての欲望のシンボルであり、実際には自由の代わりに、人を隷属させるものであったと述べられた。
何が言いたいのかというと、
「映像芸術」と「現在進行形のフランシスコ教皇のローマ政治・国際政治」とがリンクされる瞬間(目印)が、
この作品には無数に散りばめられているのです
「ちょうどいい」と表現すると悪くも捉えることもできますが、
宗教学や政治学に関心がある人も
時系列と一緒にこの映画を存分に楽しめるはずです
目印といえば「鍵」もこの映画では重要な目印になっています
ペルジーノの代表的傑作『聖ペテロへの天国の鍵の授与』
主イエスより十二使徒の長として選ばれた聖ペテロへ、天国の門を開く鍵を与える場面≪聖ペテロへの天国の鍵の授与≫を主題に描かれた壁画ですが、
作中ではベネディクトからフランシスコに教皇の座が継承される伏線として鍵や上記の壁画がサブミナル的に作中に何度も映し出されます
「質素」を貫くフランシスコは、代々引き継がれてきた(派手でダサい)十字架のペンダントを首からかけることも、伝統の衣装を纏うことも拒んでいました
ですがベネディクトからこっそり贈られたビートルズのアルバム「Abbey Road」が彼らにとっての鍵だったのかもしれません(異論は認めます)
最後に
たくさん脇道に逸れてしまいましたが、
(いや、本当はもっと脇道に逸れたい)
「2人のローマ教皇」は宗教学や政治学に興味がなくても、ヒューマンドラマが好きな方なら気に入っていただける作品だと思います
こういったスマートな良作をサブスクで観れるなんて本当に良い時代だと感涙しつつ、この感動や心境をもっと美しく言語化できる努力をしなければと思う所存です(笑)
では!