カップ麺における能動的3分間

誰かに作ってもらったカップ麺は美味しくない。
パーソナルスペースに侵入されています。
パンツを誰かに履かせてもらっている味がする。

しかし世間にはたまにカップ麺を誰かに作ってもらってる人が居る。たぶん長嶋一茂です。

「だって自分でやるのめんどくさいじゃん笑」


そもそもカップ麺の良さと言えば、お湯をただ入れるだけで完成する誰が作っても同じ味になる悲しくも慎ましくもある一食である点だ。

その短い3分間をただ目の前でワクワクしながら待つ子供のような純真さは、好き。
しかし大人は何かを行う。
つまりこの3分間何か出来ないか?の勝負だ。
それは簡単すぎる用事でもいけないし煩雑すぎる用事でもいけない。
3分ぐらいで終わる雑多な用事を終わらせる、それが生活の知恵です。
何でもいい。
請求書だけ抜き取った後の携帯会社からの横長の封筒の残骸の中身を再確認して得なのかよくわからないキャンペーンの紙を見ながらカシャカシャとゴミ箱に捨ててもいい。
カップ麺の3分間に基本創造は無い。
そう、基本は溜まった何かの処理だ。


だが私はそこを超えたい。創造したい。処理から脱け出し創造したい。
それは例えば、歌って踊るでも良い。
とにかく答えの分かりきったカップ麺の待ち時間に、答えの分かりきった処理をしたくはない。
その限られた3分間ゆえに煌めくかもしれない歌踊りを、見てみたい。


それは殆どの場合、たいしたことがないもので終わる。しかし、煌めいたなら歌い踊り狂いすぎて10分ほど経っていることでしょう。

本当に世界のためを考えたとき我々が求むべき人物とは、自分で勝手にカップ麺を作り始めたと思ったら、蓋を閉じた瞬間に
「この3分間さ、歌って踊らない?」
と歌って踊りながら言ってくる人物です。

彼らは約束されたしがない何かを打ち破ろうとしている。その勇気を誰がバカと呼べましょう。
これこそがカップ麺という約束された食事を抜け出す一手。
何もない部屋に花を飾るのです。

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