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いつもの線路沿いがやけにきらきらしていた

 2023年2月24日

 思えば,何となく音楽を聴かなかったことは何かの天啓だったのかもしれない.今日は大学だったのだが,家を出て,歩き始めた.音楽を聴かない日は無いと断言できるが,何故だかイヤフォンを付けることなく歩みを進めた.

 目ならぬ鼻を凝らすと春の匂いがじんわりとした.その割には吹く風が冷たくて,このアンバランスさは,この時期特有だなぁと思った.また,お昼の住宅街には,コンクリートの塀の匂いもうっすらと太陽光を浴びて漂っている.

 自転車に乗って行き交う人々を眺めながら,あみだくじのように,住宅街の塀に囲まれた道を曲がっていく.東京は真っすぐな小道が多い.そんな思いを浮かべつつ,家々を見ていた.色とりどりの洗濯物がたくさん干してあった.物干しざおの端の方まで靴下があると思った時,なんだか自分の洗濯物を見ているようで恥ずかしくなった.


 いつもコンセプトに興味が惹かれる美容室ALOHAの角を右に曲がれば,線路沿いに出る.あとは駅まで真っすぐだ.ふと右手の家の窓を眺めた.窓脇に熊のぬいぐるみが置いてあった.おそらく,手足が長くておんぶするための紐になっているぬいぐるみであったが,手足の紐がなかった.その時,遠い昔の記憶が蘇り,僕も猿のそのようなぬいぐるみを持っていたことを思い出した.ただ,どうしても猿の耳を噛みたくなってしまい,食いちぎってしまった.その後,母が縫ってくれた.罪悪感で震えた.片方だけしなびた耳の猿は,今どうしているのだろうか.どうしようもないが,切なくなった.


 しばらくしたら左手に大きなマンションがある.少し前に,一階の部屋の窓に映った夕陽が綺麗で眺めていたら,その奥にじっとこっちを見ている人がいて,仰天したことを思い出した.

 そして,誰かが植えたのか,マンションの前には柑橘系の木が何本か生えている.最近は,僕の握り拳よりも大きな黄色い実がたくさんなっている.何となく,その木になっている実を見てみる.その中に,三つが密集してなっているものがあった.ちょうどこんな感じのマッサージ器の先端があったような気がした.

 ふと頭の中に「生まれ変わっても,この家族でいような」という台詞が浮かんだ.三人家族.もしかしたら,この密集した黄色い実たちは,前世にそう願った家族なのではないだろうか.もしそうなら,感動的だ.でも,もし自分だったら,そう願った結果がこうなるのは,少しだけ,一瞬だけ,嫌かなと思った.でも,それはすごく失礼なことだから,その黄色い実たちに,「今のは撤回します」と心の中で念じた.


 マンションを過ぎて,しばらくすると,線路にかかる鉄橋がある.ぼろぼろだ.かなりさび付いていて,穴がぽつぽつある.しかも階段の傾斜がおそろしく急だ.初めて遠くから見た時,壁だと思った.でも,夜に登った時の見られる東京の光はすごく綺麗だ.

 ボーっと眺めていたら,階段横のフェンスには,何やら張り紙がしてあることに気づく.「地震時に登らないでください」と書いてある.なおさら怖い.だが,これからも夜の光は見たい.登りたい.今度からは,登った時に「今地震来ないでください」と祈ることになりそうだ.


 鉄橋の階段を過ぎる.階段横のコンクリート塀に,横50 cm,縦30 cm,奥行き15 cmぐらいの凹みがあることに気づいた.なんだか,脱獄兵が金属などのスプーンで穴を掘って脱獄を試みようと思ったはいいものの,想像よりも体力を使うし,看守にばれないように気を張っているのも大変だから,途中で止めてしまった跡のように思えた.

 なんとも人間臭い脱獄兵なのだろうか.三日坊主.僕もそうだ.僕も猫背を直そうとして,買った猫背矯正器具は,現在,テレビ台の横の本棚をねぐらにして,ほこりを被っている.同じだ.中途半端な掘り進めた穴.消えることない三日坊主の烙印を見るたびに脱獄兵も思うのだろう.いつかはやり続けるぞと.

 ちなみに,僕の音楽アプリのプレイリストには「三日坊主×∞」という三日坊主を無限に繰り返したら,ずっとやり続けたことになるぞという意味を込めたものがある.そこには,人におすすめされた曲を入れている.しかし,もうだいぶ前から聴いていない.


 徐々に交通量が多くなってくる.線路の下を通る地下道の入り口まで来たら,駅までもう少しだ.ふと右手に大きな看板があった.テニスのサポートセンターの看板だ.「プロが選ぶガット張り」と書いてあった.僕はテニスをやったことがないので,ガット張りの重要性や大変さは分からないけれど,第一印象,もっと打ち方などを教えてほしいと思ってしまった.だが,きっとここまで,でかでかとガット張りと書いてあるので,大切なことなのだろう.看板を通して,僕の性格が浮き彫りになる.

 アコースティックギターを買った時も,弦の貼り方や保存方法などを店員さんから説明された時,覚えられなくて,面倒くさくなって,ギターケースから出さなくなってしまった.そういう楽しくないわけではないけど,やらなければいけない準備が,面倒くさいので,いつも手を出せないでいる.その先の楽しみを味わうよりも,目先の面倒くささが勝ってしまう.でも,毎回いつかは挑戦するぞと、心の中で誓っている.


 看板を通り過ぎて,今までうっすら認識していた何らかのクリニックが目に入る.整形外科.ああ,整形外科かと思って,すぐ横の電信柱を見ると再び整形外科の文字がある.しかも,今僕の近くにあるクリニックの名前ではない.ただこの先,60 mとある.もしかして,三鷹駅前は整形外科の激戦区なのかと思った.客の取り合いなどもあるのだろうか.医者自らが敵のクリニックに患者として赴き,診断内容などを聞くといった敵情視察もあるのだろうか.ともかく,客の取り合いはし続けてほしいとは思う.健康な人が多いに越したことはないから.


 クリニックを過ぎて,線路沿いに広がる駐輪場と右手に連なる美容室,ラーメン屋,コンビニ,マンション,パチンコ屋で順に挟まれた道を進めば,三鷹駅前へ到着だ.この前,美容室からお客さんをお見送りするために,外へ出てきた店員さんを立ち止まって見た.そして,その店員さんが店に戻るまで見ていた.僕は僕で,美容室に戻る店員さんのお見送りをした.

 そのことを思い出しながら,ラーメン屋が入っている建物の二階を見ると,都立国立高校同窓会という縦長の看板があることに気づいた.謎のオフィスが二階に入っているらしい.まさかここで同窓会をやっている訳ではなかろう.看板も古びているし.調べてみると,正式名称は都立国立高校同窓会事務局というらしいが,活動内容は分からなかった.謎のままだ.


 三鷹駅前の階段を登っていく.思った.今日はやけに様々なことに気付いたことを.音楽を聴いていないからか.じっくり外の景色を見ていると,様々な面白いものや思い出,言葉が転がっていた.

 好きな食べ物はずっと食べ続けてしまうし,気に入った作品は何回も見てしまう.内側で事足るなと思っていた.それもいいけれど,外をじっくり見ることも良いことなのではないかと強く思った.外側から内側へ吹き抜ける風のようなものを感じた.久しぶりに閉め切った窓を開けた時の喜びに近いものがあった.

 身近なところに楽しいものが転がっている.いつもの線路沿いが煌めいて見えた日だった.


 その後,電車に乗り,ぼんやり感動に呆けていたら,無意識に音楽を聴いていた.やっぱり音楽も好きなんだと思った.永原真夏の「リトルタイガー」という曲が流れてきた.

 「ほかのだれでもないきみがいて 仕方のないぼくが偶然出会って そこから全てははじまった まわりだす まわりだす地球」


 あと,大学の近くを歩いていたら,つくば巻き爪センターという巻き爪に特化したクリニックがあった.こんな専門的な施設があるのかとすごく驚嘆した.


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