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うすべにの「哀」(くらやみの眸③)
きっかけは多分、一年生最初の行事である林間学校で行われたレクリエーションの肝試しだったように思う。わたしの通う私立城北高校は各地から成績優秀な子供が集まってくる進学校で、その分授業の進みも早いし扱う内容も難しいけれど、勉学と同じくらい行事にも力を入れていた。
だから毎月のように学校独自のイベントがあるのだけど、入学してきたばかりの一年生が真っ先に経験する行事というのが野外活動だ。東京から離れた山奥へ泊まりがけでキャンプとか自炊体験とかするやつ。
ゴールデンウィークからちょっと経った五月の半ばという、外で体を動かすには絶好の季節なのと、勉強漬けの日々から解放されるのもあって、やっぱりみんなテンションは高い。というかイベントごとを楽しめない気質の生徒は入学試験の段階ではねられてしまい、そもそもうちには入ってこない。
俗に陽キャと呼ばれる人種だらけの学校なのだ。大人しかったり、真面目すぎる子には向いてないというか何かと厳しい環境なので、こういう非日常的なイベントなんかがあると必要以上に盛り上がってしまいがちで──つまり「やりすぎた」んだろう。端的に言えば。
一日の流れとしては早朝に学校へ集合し、チャーターバスで移動、昼前に目的地である学校所有の森林内にあるキャンプ場へ到着、場内にある宿泊施設で事前に割り当てられた部屋で荷物の整頓等を済ませたら、各グループで昼食を作る。
昼食後は各クラスごとにカヌーとか農業体験とか森林散策とか。それで午後は潰れる。夕食は施設内で用意され、各自で入浴を終えたらあとは消灯まで自由時間だ。さっさと寝てもいいし友達とおしゃべりしてもいい。ただし施設外へ出るのは禁止。
元は学年全体の結束を高めるとか、クラスの団結力を鍛えるみたいなお題目があったかと思う。何かとお祭り好きな創立者があれこれイベントをねじ込んだので未だに惰性でそれらが続いているだけなので、どういう趣旨の元に行われているかはよくわからない。まあ楽しいからいっか、というノリだ。
バカンスとまではいかないけど、普段から課題や授業でいっぱいいっぱいな生徒たちのために息抜きとして実施しているだけあり、野外活動というには内容もゆるいし締めつけもない。これは進学校の生徒だから悪事なんてやらかさないだろう、という信頼度の高さも関係しているのだろうけれど。
で、わたしたちの代では夕食後のレクリエーションとして肝試しをやろうということになった。当然禁止事項である施設外での行動になるので、教員と事前に打ち合わせを行って安全対策を講じた上でのことだ。
これが底辺校だと深夜に勝手にやって案の定ペアとはぐれたとか迷子になったとかで行方不明者が出て大事になり、何も知らない教員を含めた大捜索にまでコトが大きくなるんだろうけど、まあうちなのでルートから仕掛けから全て教員や施設の管理者と協議を重ねてある。
何事もなく終わる予定だった。当初は。でも実際には、そんな甘ちょろい結果にはならなかった。
「……えーっと、ここかあ。針間心霊相談所……なんか怪しいっていうか、うさんくさいなあ。ねえ、ほんとにここでいいの? 新浪くん」
「困ってんでしょ。じゃあ行けば。それとも引き返す? それでもいいよ、君がどうなろうと別にどうだっていいし。でも君は悩みを抱えてんでしょ? だったらどうすべきか、頭いいんだからそんくらい自分で考えなよ。オバケなんかいないさウソさ、って唱えれば解決するんならね、僕らみたいな稼業のモンは最初っから要らねえよ」
「なんか辛辣じゃない……? わたし、あなたに何かしたっけ」
「いーや? 僕は別に何もされてないよ、僕はね」
にっこり。というオノマトペがとても似合うイイ笑顔をした彼は、新浪龍樹くんという。わたしと同じクラスの男の子だ。彼と同組とわかった途端、クラスメイトの女子たちが入学当初キャーキャー黄色い声をあげていたのをよく覚えている。というのも新浪くんはイケメンなのだ。簡単に言っちゃえば。
ふわふわと柔らかそうなミルクティーブラウンの髪に甘めのきれいな顔立ち、タレ目がちな瞳までキャラメル色をしていて、長い手足に細身ながらも均整の取れた体躯、しかもなんかいい匂いまでするという徹底っぷり。同年代の男の子と比べても清潔感のあるルックスをしていた。
新浪くんを密かに狙っている子は数多い。かくいうわたしもその一人だったりする。城北男子はみんな陽キャ気質というか根明な子が多いけれど、やっぱり女子相手にはどこか照れが入るのか、つれない態度だったりあんまり優しくなかったりするのに、新浪くんは違う。
誰にでも穏やかに接するし、口調も比較的丁寧だし、それに何よりすっごく優しい。それが上っ面の、たとえ演技なのだとしても、それでも演じようとしてくれているだけ優しいと思う。少なくとも転んで膝を擦りむいた相手にハンカチを差し出してくれるようなひとは、無条件に優しい人扱いしたっていいだろう。
わたしもそんな、彼の紳士的な態度にコロッと落ちてしまった。えっ、イケメンに優しくされたくらいで靡くなんてチョロすぎ? でも、普通に生きていると同世代の子から女の子扱いされた程度でも嬉しくなって舞い上がってしまうなんてよくあることだ。
だってこちとら、まだ高校生になったばかりなんだぞ。全然まだまだガキもガキ、キッズ呼ばわりされてしかるべき年齢だ。逆に聞くけど、ここぞとばかりにのぼせ上がらなくてどうする? って感じ。せっかく手に入れたJKブランドを活かさなくてむしろ何を活かせばいいのやら。つまりチョロかろうがなんだろうが恋愛なんてしたもん勝ちってことだ。
でも今、新浪くんとわたしが一緒にいることに、わたしの個人的な恋愛感情は全く関係がない。というか仮に周りに抜け駆けして放課後デートに誘ったところで彼はバッサリ断ってしまうだろう。
うちのクラスだけじゃなく、隣のクラスや違う学年の先輩女子からもアプローチされまくってるのに、その全てを袖にしているのは有名だ。優しいのに塩対応。塩だけど紳士的。それもまた新浪くんの魅力ってやつだ。それはまあともかく、問題は件の肝試しである。あれが全ての原因だ。間違いない。だって他に心当たりないし。
例の肝試しにはほとんどのクラスメイトが参加したのだけれど、唯一不参加を表明した生徒がいる。何を隠そう新浪くんその人だ。ペアになりたい女子たちが、なんとしてでも参加させようとあの手この手で引き止めたのだけど、結局彼は一人だけ自分の部屋に戻ってしまった。
その間どうしていたのかはわからないが、一応盛り上がったもののどことなく白けた空気が最初漂っていたのは覚えている。だから一切巻き込まれていない新浪くんしか、わたしは頼れなかったのだ。だって「あれ」のせいで被害を受けているのは、わたしだけじゃないのだから。
必死のお願い攻撃が効いたのか、それとも若干の後ろめたさを感じていたのかは知らないけど、新浪くんは意外とわたしの頼みをあっさり呑んでくれた。という経緯で今回、彼に付き添ってもらっている。
ていうかもう一緒にいてくれるなら正直誰でもよかった。当たり前だろう、十代の若い身空でどうして針間心霊相談所──とかいうオカルトじみた、怪しさと胡散臭さたっぷりのところへ駆け込まなきゃならないんだ。そもそもの話、本当にここへ行けば解決するかもわからないのに。まあ新浪くんが自信たっぷりにここを推してくれたので、とりあえず信用してみることにするけど。
東京新宿歌舞伎町界隈のド真ん中という昼前でもあんまり近づきたくないような場所に、そのビルはあった。エントランスからして人工の滝が流れているような、ド派手で絢爛豪華って言葉が似合う九階建ての瀟洒なビルには上から下までめいっぱいホストクラブとかバーとかキャバクラとか、とにかく夜のお店がひしめきあっている。なんかパフェバーとかいうちょっと可愛めな店もあるけど。
なぜか一番家賃が高くつきそうな最上階だけ空っぽで、ここはずっと空室のままらしい。しかし今回、用があるのは地下一階だ。ビルオーナーが個人的に使用しているそうで、事務所兼自宅なんだそうだ。館内マップに地下の存在は明らかにされていても出入口への案内もなく、どこにも看板やテナント名もないのは、無関係な人間に見つかりにくくするためらしい。
というわけでわたしも地下へどうやって出入りするかは差し控えておくことにする。とにかく地下へ降りていくと例の「針間心霊相談所」はあった。名前のセンスゼロかよ。クソだっさって思ったけどもちろん黙っておいた。室内はビルの大きさに反してかなり狭く感じた。
というのも本棚とかキャビネットで部屋全体が覆われてきて、その全部にファイルだの辞書みたいな分厚さの本だの、ギチギチになるまでたくさんしまってあるからだ。年季の入ったデスクにも同様に紙類がタワーのように積んであって、ソファには毛布がぐちゃぐちゃのまま放置されている。テーブルには飲みかけのコーヒーが入ったままのカップ、それと吸殻がてんこもりの灰皿。
……どうしよう、帰りたい。すっごく。ここに来ちゃってほんとによかったのか? ていうか部屋主はどこいった。新浪くんはメッセージを入れて在宅なのを確認してあると言ってたけど、それらしき人物はどこにもいない。適当にかけてなよ、と彼は言い捨てると、ふらりとどこかへ消えてしまい、ますますわたしはどうしていいか分からず隅っこで縮こまるしかなかった。
ややあって彼は三人分の缶コーヒーを手に入れてきた。館内の自動販売機で買ってきたらしい。慌てて小銭を渡そうとするが断られてしまった。普通、オフィスって給湯室くらいあるイメージだったけどここにはない。というか給湯室以前にキッチンすら、あるにはあるけどまともに使われてないという。え? ここって一応事務所兼自宅なんだよね? 本当に人が住んでいるの?
二人して缶コーヒーを片手に待つともなく待っていると室内にある玄関扉とは違うドアが開いて、一人の男性……たぶん男の人が現れた。たぶんってつくのは見た目じゃ判別しにくかったから。だって身長が日本人女性の平均身長とほぼ同じであるわたしと変わらないし、全体的に細いというか薄っぺらい。華奢とガリガリの狭間って感じ。背を覆うほど長い、まっすぐな銀髪をのたのたと覚束ない手つきで適当に結うと、驚くほど目鼻立ちの整った美貌があらわになる。艶美的というか艶麗というか、そこらの芸能人でも太刀打ちできないんじゃないかというほど。よれよれの黒いスーツに解けかけのネクタイという徹夜明けのリーマンスタイルじゃなきゃ、思わずグラッといったかもしれない。いややっぱ自分より小さい男(?)は嫌だ。
彼女ないし彼は酒焼けした低い声で、誰こいつ、とわたしを指さして新浪くんに訊ねた。なんて失礼なやつだ、人を指さしちゃいけませんと習わなかったのかこいつは。わたしは一応客だぞ。もしかしたらだけど。
「あのっ、今回依頼させていただきます、一ノ瀬奏音といいます! あなたが針間纏さんですか?」
「……そーだけど。依頼って何、なんも聞いてないんだけど、おい龍樹、お前このガキになんて説明したんだ」
「えー? なんか困ってる風だったから、とりあえず連れてきただけ。一ノ瀬さん、この人に依頼なんてしてたの? 僕知らなかったよ」
「……え? あの、話が読めないんだけど、紹介してくれるんじゃなかったの?」
「だから案内してあげたじゃん。ここまで連れてきてやったんだし、もう僕帰っていい?」
「待ってよ、わたし、本当に困ってんだけど。置いてくなんて言わないよね、まさか」
「知らないよ。身の程知らずにもあんなところで『あんなこと』をした自分達の愚かさをもう少し恥じたら? 僕こう見えても忙しいんだよね、悪いけど、あとは自分でどうにかしなよ」
しれっと言ってそそくさと帰ろうとする新浪くんだが、そう簡単に逃してたまるものか。踵を返そうとする彼の肩を無理やり掴み、着席を促す。忌々しげに舌打ちした彼がソファに腰を下ろしたことでようやく話ができる環境になった。手短に最近身の回りで起きた奇妙な出来事について説明してみるものの、彼らの表情は芳しくない。すごくダルそうというか、顔にハッキリと心底どうでもいいですって書かれてあった。ものすごいムカつくけど、受けてもらえなると困るのでもちろん言わない。
「あのさあ。私のような稼業の人間って基本多忙なわけ。予定も依頼も詰まりまくってるし。だからアポ取ってないやつの相手とかいちいちしてらんないの。ご理解いただけたんならさっさと帰れ」
「そこをなんとか! ていうか子供が困ってるんですよ!? 少しくらいお話聞いてくれたっていいじゃないですか! 新浪くんもなんか今日すごく冷たいし、どうして? いつもはもっと優しいのに」
「……そんな程度のことも気づいてないんだ。君、頭いいくせに馬鹿だなあ。まあいいけどさ、纏さんの言う通り今日はもう帰りなよ。どうしても会いたいって言うから連れてきたけど、本来君みたいな人間に時間割いてやれるほど暇じゃないんだよね、纏さんって」
「そーゆーこった。ほれ、帰れ帰れ、そんで二度とここに来んなよ。ガキはお呼びじゃねえんでな」
「ひ、ひどい……ほんとに困ってるのに……霊能者さんてもっと優しいかと思ってたのに」
「客にはそりゃ優しくするさ。お前は客じゃないだろ。じゃあ訊くが、うちの依頼料は平均で三百万を下らないけど、お前にそんな大金、支払えるのか?」
「そ、それは……でも親なら払ってくれるかも」
「却下だ。話にならん。ほら帰れ、その面もう見せにくるなよ。不愉快だから」
怖くなるほど澄み切った瞳にじろっと睨まれ、あえなくわたしは退散するしかなかった。あんなに冷たいやつだとは思わなかった。キレイな顔をしているくせに、性根はちっとも綺麗じゃない。あんなやつに無駄金を突っ込まずに済んでよかった、いっそと逆に安心する。だって詐欺かもしれないじゃないか。もしかしたら壺か何かを買わされるところだったかもだし、これで正解だったんだ。
新浪くんとはエントランスで別れて自宅までまっすぐ向かう。歌舞伎界隈から家までは結構距離があるけど、あわよくば新浪くんに送ってもらって親睦を深めるという淡い期待はとっくに吹き飛んでしまった。
電車を乗り継ぎ、住み慣れた我が家へ着く頃には既に日が落ちかかっていた。斜陽に照らされる街並みはいつもと変わらないごく普通の風景なのに、どうして心臓がこんなに逸るんだろう。ドクドクと痛いほどに鼓動を打ち、決して暑さのせいばかりではない汗が手のひらを濡らす。我知らず息が浅く早くなっているのに気づき、どれだけ緊張しているんだかと我ながら呆れてしまう。
二度、三度深呼吸すると、早足になっていた歩行速度を通常に戻して、再び歩き出す。平常心、そう平常心だ。おばけはビビってるやつにほど構ってくると何かで読んだ。つまりこちらが冷静になれば飽きてどっかに行くはずだ。インターネットの荒らしと同じだと考えればいい。
わたしは平気。わたしは大丈夫。わたしは何も見てないし、何も見えないし、何も聞いてないし、何も聞こえたりなんかしない。何も感じない。だからどっかに行け。あっちへ行け。念仏のように繰り返し脳内で唱え、もう目の前に見えてきた自宅マンションへとようやく辿り着き──そこで、耳元三センチで。やはり「その声」は聞こえた。
『しねばいいのに』
若い女のような、あるいは少女のような、時には老婆めいて聞こえる、けれどハッキリと女性のものと分かる声。怨嗟と憎しみをたっぷりと込めた、呪詛のようなそれ。しねばいいのに、しねばいいのに、しねばいいのに、しねばいいのに、しねばいいのに、しねばいいのに。
あの日からずっと、絶えず止むことなく声は続いている。勉強、風呂、トイレ、食事、あるいは家族や友達と一緒にいるときでさえ。寝入り端にまで侵入してくる声はいつだって耳元三センチから、囁きかけるみたいにひたすらに鼓膜を揺さぶってくる。
まだ、それに反応したことはない。でも。時間の問題だった。返事をしたら終わる気がする、だからいつも気にしないフリをしている。いつか幻聴にこちらの気が狂うか、それとも声の主が飽きてわたしから去っていくか。二つに一つだ。そもそもこの声がただの幻聴にすぎないのか、それともやはり目に見えない何かのせいで起きているのかも素人のわたしでは判別つかないのに。
だから助けてほしかったのに。あいつらって本当に役立たず。ちっとも頼りになりやしない、だったら自分でなんとかするしかない。しねばいいのに、と壊れたレコードみたいに呟き続けるそれを無視して自室に籠る。せっかく気合いを入れて施したメイクを落とすのも、今はだるさと疲労で億劫だった。ぽすんとベッドへ横になり、制服のポケット入れっぱなしにしていたスマートフォンを取り出して動画サイトを開く。
「……あ、明石先生のチャンネル、配信してる。見よ」
明石照日。自称霊能者系動画配信者という触れ込みの売れっ子ライバーで、よく浄霊配信している。占いも得意らしく、会員制オンラインサロンでは一時間一万円でお悩み相談も受け付けているそうだ。
あんな銀髪野郎と違い明石先生はホンモノで、時々行われる浄霊ライブではいつも、依頼者が取り憑かれた霊のせいでおかしくなっているのが、明石先生の浄霊を受けてすっかり元に戻る様子が映し出されている。
元々はオカルト好きとかホラーマニアの間で有名だった方なんだけど、最近はテレビでもよく見かけるし他のショート動画サイトでも彼女の投稿は軒並み大人気だ。もしかしたら世の中は密かにオカルトブームなのかもしれない。とにかく明石先生は信用できるし、知識豊富だし、この人に見てもらえたらなあとつい縋ってしまいたくなる。
……そうか、明石先生に依頼してみればいいのかもしれない。どこから依頼すればいいのかわからなかったから、とりあえずチャット欄とコメント欄にそれぞれ同じ内容を書き込んだ。ついでに投げ銭もしてみる。一円でも二円でも、とにかくお金を出せば見つけてもらいやすくなるかもしれない。
それに「推し」に貢ぐのは楽しいし。すると、やはり明石先生は浄霊で忙しいはずなのに投げ銭つきのチャットコメントをすぐ発見してくれて、嬉しそうにコメント返信を口頭でしてくれた。やっぱりこの人は信頼できるひとだ。こういう方なら推しがいがあるってもんだ。
「えーっと今回のお便りは東京都の女子高生さんから、学校のイベントで肝試しをしたらその後なんだか変な声がずっと聞こえるようになった……と。ふむ、これは間違いなく霊障ですね! すぐ解決しないと大変なことになりますよ。概要欄に依頼フォームがありますので、もう少し具体的な内容を送ってくださいね! 後ほど確認してお返事します!」
悪霊に取り憑かれ、御堂の中で暴れる依頼者を空手チョップで仕留めつつ明石先生が明るい声でわたしのコメントに対する返事を述べた。彼女は素顔非公開なので、いつも目深に被ったキャスケットに全身を覆う袈裟装、サングラスとマスクで顔面も覆うという徹底っぷりだ。よっぽど身バレしたくないんだろうなあ。
残りの配信も見ていたいけど、名残惜しくなりつつも言われた通り概要欄を開いて、貼り付けてあるリンクから依頼投稿フォームに記入事項を書き込む。連絡先として明かしたメールアドレスにさっさく依頼受付完了の案内メールが届き、ひとまず安心した。あとは手付金としていくらか送金すればいい。
朝イチで銀行へ駆け込むことを脳内にメモしてから、いつも通り明日の授業の予復習と課題に取り組み、合間に次々飛んでくる友達からのメッセージも捌く。JKとは忙しい生き物なのだ。メッセージの内容はどれもくだらないものばかり。
彼氏と喧嘩したとか、共通の友達の悪口とか、好きなアニメとか漫画とかゲームの推し語りとか、たまに授業で分からないことの相談とか。正直全部シカトしたいし興味ないしどうでもいいけど、それを露骨表そうものなら明日からクラスでの居場所はなくなる。誰にでも愛想よく、丁寧に、機嫌よく。それがめんどくさい人間関係を乗り切るコツだ。
ほんとは今起きているこの問題を誰かに話したいし、わたしの苦しみだって分かってほしいし、悩みを聞いてもらいたいし、誰でもいいから頼りにしたい。でもそれはワガママだ。だって世の中って等価交換で成り立ってるものでしょう、わたしが何かしてあげたら見返りに何かしてくれるかもしれない。
逆に言えばわたしが何もしなかったら誰もわたしのことなんて見てくれやしない。だからこそ常に価値を示し続けなければならない。時間やコストやお金を使うに値する存在だって、周りにアピールし続けないと誰にも省みてもらえない。
相手に投資してもらうためには、わたしは絶対に自分の価値を落とせないのだ。勉強して運動してプロポーションを維持して肌のコンディションを整えて、いつだって可愛く、いつだって優等生の、万能なクラスのアイドル一ノ瀬奏音でいなくては。
……でも、疲れた。まだ入学してからたった三ヶ月だ、三年間あるうちのほんの僅か。なのにもう疲れて、疲れ果てて、本音を言うと限界に近かった。いつも無理している自覚があった。気を抜くわけにはいかなかった。城北にはわたしより可愛い子も、わたしより頭のいい子も、わたしより優しい子もいる。
外ならもっとたくさん、わたしより上の人間がいる。それらに打ち勝ち、わたしこそが優れた存在だと認めさせるためには不断の努力が必要不可欠だった。可愛くて賢くて優しくて完璧な女の子にならなきゃ。誰にも負けたくない。誰よりも優れていたい。そのためには新浪くんは大事だ。彼のハートを射止めたら、皆わたしを認めてくれる。
一ノ瀬奏音は完璧なんだって。そしたらきっと誰も馬鹿にしない、ウザがったりしない。わたしこそが勝者になる、なってやる。
だから。
『……しねばいいのに』
おまえは、邪魔だ。
◆◆◆
あの肝試しを企画したのは他ならぬわたし達のグループだった。せっかくみんなで一泊二日の野外活動をするのだから、何かレクリエーションでもしたいよねという話題になり、それなら肝試しはどうかという流れになった。誰が最初に言い出したかまでは覚えていない。
ただ、本来は規則で禁止されている夜間の施設外活動というのに皆否応なくテンションは上がったし、特に反対する人もいなかったように思う。開始時刻は八時半というそこまで遅くない時間帯に決まり、ペア行動を必ず徹底することで安全対策については折り合いがついた。
肝心の内容は敷地内にある小さな祠まで行って記念に自撮り写真を一枚撮るというもの。その道中で教員がスタンバイして脅かすという、至ってシンプルな構成になった。実際に肝試しを開始してみると、初めのうちは単純に楽しかったし予想通りに盛り上がったと記憶している。
でも最後のペアだけなかなか帰ってこなかった。最後のペアというのは、そう、わたしともう一人……誰だっけ。あれ、わたしって誰とペアを組んだんだっけ。どうしてか思い出せない。でも、目的地の祠というのがなかなか見つからなくて、生徒を見守るために配置しているはずの先生方もなぜかどこにも見当たらなかったことだけは覚えている。祠までの道のりは整備された歩道のはずだったし、獣道を行くのでもないのに異様に歩きにくくて、外灯だって途中まではちゃんとあったのに、いつの間にかそれもなくなっていて。ペア相手はずっと無言で何を話しかけても無視されてしまって。ああそうだ、到着した証拠に写真を撮ったんだった。二人で。あれはどこに──あれ? 写真がない。消してないのに消えている。うそだ、だって一緒にピースしてわたしのスマートフォンで自撮りを──ない、どこにも、どのフォルダにもない。削除された項目を開いても見つからない。そんな、だったら、わたしはあのとき一体、どこに居たっていうんだ?
異様な悪夢に魘され、酷い動悸と悪寒と共に上体を起こした。ベッドサイドの目覚まし時計はちょうど午前七時を指している。起床するには、ほんのちょっと早すぎる時間帯だ。だが二度寝しようにも目が冴えて全く寝られる気がしない。帰宅してから夕食や風呂にも行かずそのまま寝落ちしてしまったらしく、着たままの制服はすっかり皺が寄っていた。一旦脱いでハンガーにかけ、アイロンでなんとか皺を伸ばせないか試行錯誤する。
今日から夏休みでよかった。もしこの絶不調なコンディションで登校したとしても、いつものように授業を受けるのは叶わなかっただろう。なんとか納得できる程度には皺が消えたので、そそくさとシャワーを済ませる。ようやく少し気分がマシになってきた。この間もずっと呪いの声は聞こえ続けているけど、今のところはあまり気にせず聞き流していられる。
朝食というには早すぎるけど、不可抗力ながら夕ご飯を抜いてしまったのでお腹はぺこぺこだった。今の時間にキッチンを漁って騒音で起きてきた親に怒られるのも嫌だし、備蓄しているお菓子の中から適当にクッキーを摘んで空腹をごまかした。さっそく入金してしまおうと普段着に着替え、コンビニへ走る。
ATMで貯金を全額引き出し、昨日のメールに記載してあった口座へ振り込もうと次の手続きに移ろうとした、まさにその瞬間。上着の胸ポケットに入れっぱなしにしていたスマートフォンに着信が入る。慌てて確認すると、掛けてきたのが知らない携帯番号だったことに首を傾げる。普段は友達ともSNSを介してしか連絡を取らないから、わたしの番号を知るのは親と昔からの知り合いくらいだ。
無視してもよかったけど、しつこく着信音が鳴り続けるので仕方なく通話に応じることにした。どうせ切ってもまたすぐかけてくる気がしたのもある。このままATMを占領するわけにもいかないので手続きをキャンセルし、引き出したままのお金は財布につっこむ。何も買わずにコンビニを出て、電話に出ると開口一番、通話相手が大音量で怒鳴ってきた。
「おい! 聞こえるか! お前ッ、今何してる!?」
「ひえっ、え、誰? 誰なの?」
「いいか、何しようとしたか知らねえが、それはやめとけ。それは素人じゃどうにもならねえ。オレの領分だ」
「なんなの……あなた何者? どうしてわたしの番号を知ってるの。てか、わたしが何しようが、そんなのどうでもいいでしょ。ほっといてよ」
「ふざけんな。あいつのクラスメイトが困ってんのに、ほっとけるわけあるか。いいから来い、なんとかしてやる」
「……ほんとに?」
「オレは嘘はつかん。お前、名前は」
「一ノ瀬奏音。……あなたは?」
「針間勇次郎だ。あいつ──新浪龍樹の幼なじみだ。これから時間はあるか?」
「暇っちゃ暇だけど……」
「わかった。あとでそっちに向かう。一旦切るぞ」
宣言通り、通話は一方的に切られてしまった。新浪くんの幼なじみだという針間勇次郎と名乗った相手は、その後すぐにわたしの番号宛に待ち合わせ場所と時間を指定したメッセージを送ってきた。こちらの事情をまるで斟酌しない態度にちょっとムカついたけど、それよりなんとかしてやるという言葉の方が嬉しかった。
どうやって番号を知ったのかとか、針間ってもしかして昨日会ったひとの身内かなとか、気になる部分はあったものの、この問題を解決してもらえるならその方が大事だ。電話越しに聴いた、アルトに近い少しハスキーな声音は、なかなかわたし好みの声だったというのも時間を割いてやってもいいかなと思った理由でもある。
大金を持ち歩くのも怖いので、もう一度コンビニ内のATMへ走ると、今日使う額だけ財布に残して残りは自分の口座に戻した。帰宅すると母親はもう起きていて、鼻歌混じりに朝ごはんを用意している。機嫌が悪くなさそうなことに、ちょっとホッとする。お母さんのテンションが最悪なときは、何をしでかしてくるか分からないからだ。
「あら。奏音、どこかに出かけてたの?」
「うん、ちょっとコンビニに用があったから……それ、朝ごはん?」
「今日から夏休みでしょう、せめて朝食の時間だけでも親子のふれあいがないとダメじゃない? ネットにもそう書いてあったし。それに、お母さん、ここしばらく忙しくて奏音になんにもしてあげられなかったし」
「……あ、そう。わたしは別に話すことなんかないけど」
しまった、と息を呑んだときにはもう遅かった。食卓に出来上がった料理を並べ終えたお母さんは、す、と片手を差し出した。先日返却された中間考査の答案用紙を寄越せと言いたいんだろう。必死に勉強したかいあって点数はそこまで悪くなかったけど、目標である学年順位一桁は達成できなかった。
そのことでつい最近も膝詰めで説教を受けたばかりなのに、まだ足りないっていうんだろうか。貼り付けた笑顔で朝食の話題に引き戻そうとするけど、お母さんは冷たい目で黙ってわたしを睨んでいる。なんの感情もないような、ガラス玉みたいなその目が昔から苦手だった。まるで娘じゃなくて他人を見ているみたいだったから。
「……ごめん。わたしが悪かったから。怒んないで」
「別にいいのよ。あんたがこの先どんな苦労をする羽目になったとしても。だって所詮お母さんの人生じゃないもの。でもね、迷惑はかけないで。お母さんの害になるために生まれてきたわけじゃないでしょう?」
「次は挽回するから。もうあんな点数二度と取らないから! だから許して、お母さん」
「分かればいいのよ、分かれば。さ、朝ごはんにしようか。今日は和風にしてみたの。シリアルやパン食ばかりじゃ栄養も偏るでしょう?」
茶碗に盛られた白飯にパックの納豆、厚焼き玉子に銀じゃけ、おひたし、豆腐とわかめの味噌汁。そのまま家庭科の教科書に載せられそうな、典型的な日本の朝食って感じの献立だった。さっきまではとても美味しそうに見えたのに、もう胃に入る気がしない。でも箸を取らなければまたお母さんは怒るだろう。
砂を噛むようなメニューをなんとか食べ終え、胃の痛みと吐き気を堪えて無理やり笑顔を作る。わたしの笑みが演技だと見抜いているだろうに、完食できて偉いわね、と満足げに言って、お母さんはさっさと空の食器を片付け始めた。慌てて台所に走って洗い物を代わると申し出れば、嬉しそうにお手伝いありがとうと笑って彼女は出勤する準備に入っていく。
手早く洗い物を済ませたのとほぼ変わらないタイミングでお母さんが出勤していくのを見送り(お見送りをしないとやっぱり不機嫌になる)、母を乗せた我が家の愛車が自宅を離れていくのを確認して、ようやく一息ついた。どうせなら残業になってくれれば顔を見ずに済むけど、そうすると次の日が怖い。残業をした日と翌日の機嫌は最悪だ。地獄の朝食を二度も繰り返したくはない。
やっぱりお父さんについていけばよかったかなぁ、と後悔する日はほぼ毎日だ。お母さんのことは嫌いじゃないし、この歳まで育ててもらったことにも感謝している。でも気分屋で、不機嫌になるとああして子供に当たり散らす癖は苦手だ。周りの子はみんな、お母さんは優しいっていう。わたしも自分の母親は優しい人なんだと思いたい。だけど打算抜きに優しくしてくれたことなんて、今までどれだけあっただろう。
普通の家に生まれたかった。自分の家庭を普通だと思いたかった。どれも叶わない夢だ。少なくとも小学校低学年の頃には、わたしんちは「へん」なんだって気づいていた。だって普通の家は親同士が掴み合いの喧嘩なんかしない。普通の家は父親が母親から殴られたり蹴られたりしない。普通の家は、わたしに向かって熱湯を浴びせかけたりしない。
何もかも普通じゃない。うちは変だ。うちはおかしい。だったら普通ってなんだ。どういう条件を満たせば普通になれるんだ。うちはずっとこれが普通だった。今更どうすれば普通になれるというのだろう。
お母さんが嫌いになれたら、もっと話は簡単だった。どんなに酷い言葉を投げつけられても、難しい課題や目標を強要されても、わたしの言葉にあまり耳を傾けてくれなくても。それでも嫌いになりきれないでいる。たまにくれる優しさに縋ってしまう。その優しさが打算や、良い母親を演じるためのものであったとしても。上っ面の優しさだって、きっと優しさには違いないじゃないか。
ぼんやりとダイニングチェアに腰掛けたまま、天井を見上げていた。なんの変哲もないマンションの天井なんて見ていたってちっとも面白くない。このマンションも元々はお父さんの持ち家だった。離婚の際、幼かったわたしを慮ってお母さんに譲ったのだ。他にも多額の慰謝料とか財産をお母さんに渡したって親戚から聞いた。
今頃、お父さんはどうしているだろう。離婚してから一度も顔を合わせていない。わたしのこと恨んでるかな、お母さんに怯えてお父さんにちっとも味方してやらなかったんだから、憎まれていても仕方ないだろう。お父さんに会いたいだなんて、わたしに言う資格はない。それでも、今でもわたしは「一ノ瀬」だ。お母さんと同じ「八雲」じゃない。たかが苗字だけが、わたしとお父さんを結ぶたった一つのよすがだった。
もし、ここにお父さんがいてくれたなら助けてくれただろうか。味方になってくれただろうか。ありもしない未来を思い浮かべることほど無為なものはないとわかっていても、つい想像してしまう。お母さんが優しくて、お父さんもいて、何もかも普通の我が家ってやつを。そしたら、わたしは、こんなにも。
ふいにこぼれそうになる、熱い何かをグッと堪え、ぶるぶると服の中で振動するスマートフォンをタップし、来たばかりの通知を確認する。さっき連絡をくれた相手、勇次郎くんからのメッセージだった。事情を説明したら新浪くんも一緒に来ることになったみたい。どうしよう、めいっぱいオシャレしないと。
慌てて自室へ戻ってワードローブの中身を点検する。何を着よう、メイクはどうしよう。髪型もアレンジしないと。せっかく好きな人と学校じゃないところで会うんだから、変な格好だけはできない。通販サイトのタイムセール中に張り切って買ったおしゃれ着をいくつか取り出し、どれを着ようか鏡の前でチェックしようとした、その瞬間。
「……え」
姿見に、何かが映っていた。はっきりとした輪郭を持たない、黒っぽい人型の、靄のような。具体的に何とは言えず、何かとしか言いようがないそれがピッタリと、背中に張り付くように。
急いで背後を振り返る──何もいない。ただ、ずっと聞こえ続けていたあの声が一瞬ピタリと止んで、そして音が、言葉が切り替わる。
『……おいで、こっちにおいで、はやく、おいで、はやくおいで。こちらへおいで、鬼さん、こちら』
誘うように、唄うように。ささめく声は楽しげでいて、どこか甘さを帯びたもの。うっかりその気になってしまったならば、一体どこへ連れていかれてしまうんだろうか。
「……なんなの、もう」
それまで浮かれきっていた気持ちが急速にしぼみ、オシャレする気力は完全に萎えてしまった。惰性でテキトーにシャツとジャケットとスカートという普段の制服とあまり変わり映えしない組み合わせに決め、出かける準備を終えると、そそくさと家を出る。
電車とバスをいくつか乗り換え、向かった先は城北高校のある地域の隣町だった。うちの学校がある、たくさんの若者が行き交う雑多で賑やかな学生街と違い、この町はどこか閑散としている。古めかしい木造の民家や団地が立ち並び、どの店もシャッターが下りたままの表通りはうらぶれていて、あちこちに施された前衛的なラクガキがより退廃さを強調している。
学校側からも隣町にはなるべく近づくな、と言われていた。方南界隈は治安があまり良くなく、特に一般の高校では引き受けられない生徒が集まる方南高校は、不良とかヤンキーの巣窟だって話だ。学生街から離れているのもそのせいらしい。実際、方南高校生が起こした凶悪犯罪の噂も人づてに流れてくる。再開発から取り残され、身寄りのない人や独居老人、地元に居られなくなって流れ着いた人間なども住み着いており、わざわざ周りに忠告されずとも好んで近寄りたいとは思わない。
あちこちから刺さってくる視線に不愉快な気持ちになるものの無視して、メッセージに記載されていた住所を地図アプリで検索し、経路案内を頼りに向かう。だが注意力が散漫になっていたのか、向こうから歩いてくる人影に気づかず思いっきりぶつかってしまった。その相手が明らかにヤンキーとか半グレみたいなナリをした男数人のグループだったため、ひゅっと息を呑む。やってしまった。どうしよう。
「ありゃーおねーさん大丈夫? 疲れた顔してんねー、どっかで休んだ方がいいんじゃね?」
「へえ、割とかわいー顔してんじゃん。ここら辺一人で出歩くのはあぶねーよ、俺達が護衛してやろっか」
「おいおいお前ら怯えちゃってんじゃーん。ごめんなー、よく言って聞かすからさあ、こいつらにちょっと付き合ってやってくんね?」
ヘラヘラと締まりのない笑顔で詰め寄る三人の男は、口では人の好いことをのたまっているけど、いつの間にかこちらが逃げられないように周囲を取り囲んでいる。遠巻きに眺める通行人らにとってはいつものことなのか、特に通報したり助けてくれそうな様子はない。なんならこいつらと歳の近そうな若者などは、何分でこのナンパ紛いが成功するか賭けをしている有様だ。
せめて貴重品だけは守ろうと鞄を胸に抱き抱え、距離を詰めてくる男達からどうにか逃げ出せないものかと機を窺っていると、背後から「おい」とドスの効いた低い声が聞こえてきた。その声質には聞き覚えがあるというか、今朝も耳にしたはずだ。気づかぬうちに真後ろに立っていた青年は、苛立たしげに男共を睨んでいる。
「こいつに用があんのはオレなんだけど。何、お前ら。邪魔。はやく消えろ」
「ちっ、なんだよユーくんの客なら声かけんかったのに。先に言えよな」
「しけた。帰ろ帰ろ、隣町の方行こーぜ」
意外なほど呆気なく彼らは引き下がり、踵を返してどこかへ消えてしまった。隣町がどうのと吐き捨てていったから、たぶん学生街に餌場を変えるつもりなのかもしれない。ナンパグループを追い払ったその人は深いため息をつくと、すまなかったな、と微苦笑した。
針間勇次郎と名乗った彼は、見た目からしておそらく同世代だろう、背の高い男の子だった。半端に伸びた髪を後ろで雑に括ってハーフアップにしており、インナーの上に柄シャツを羽織っている。両耳にもたくさんピアスをつけているし、首元や手首にもシルバーアクセサリーをジャラジャラさせていて、一見すると遊んでそうな雰囲気だ。猛禽のような眼光の鋭い瞳に彫りの深い顔立ちは整っているが、ちょっと近寄りがたい。身長に対して肉がつききってないようだけど、しかし非力そうには見えなかった。
「あんたが一ノ瀬サン?」
「そうですが……でもなんで、わたしのことがわかったんですか。新浪くんから何か聞いてたんですか?」
「昨夜、あいつから連絡があって。クラスメイトがなんか霊障を受けてるっぽい、みたいな。そんで、今朝急に嫌な予感して、とにかく止めなきゃって、無我夢中で電話かけた。びっくりしただろ」
「そうだったんですか……でもよくわたしの番号わかりましたね。親くらいしか知らないはずなのに」
「テキトーに頭に浮かんだ数字をそのまんま打ち込んだら繋がった。元から知ってたとか、誰かから聞き出したわけじゃねえし、もう覚えてもいねえから安心しろ。……悪いな、どこで待ち合わせすりゃいいかわかんなくて、家の近くに場所決めちまって」
「いえ、さっきのはちょっとびっくりしましたけど」
ほとんどシャッター街と化しているアーケードだが、数少ない営業中の店があるというので連れて行ってもらう。そこは昔ながらの純喫茶、って趣のカフェだった。看板も店舗も年季が入っていて、最近のレトロ喫茶ブームに乗っかれば人気も出そうなのに、常連のおじいちゃんおばあちゃんくらいしか目立った客はいなさそうな、少し寂れた雰囲気が漂っている。
クーラーの効いた店内にはカウンターとボックス席がそれぞれいくつか設えられており、勇次郎くんは一番奥にあるソファ席を選んだ。他の席と違い、ちょっと奥まったところにあって店の外からじゃ目につかないので、密談するには絶好の席である。店主であるらしい、腰の曲がったおばあさんが無言でおしぼりとお冷を置き、メニューを開いて去っていった。
これまた長い間使われ続けてきたのがわかる、すっかり紙が黄ばんだメニュー表には、軽食とデザートがそれぞれ数種の他に、コーヒー紅茶緑茶烏龍茶くらいしかドリンクの記載がない。勇次郎くんはナポリタンとアイスコーヒーのセットを頼み、わたしは悩んだ挙句プリンとクリームソーダをオーダーした。昼食にはまだちょっと早い時間帯なのと、喫茶店の固めプリンが単純に好きで、カフェに行くとついつい注文してしまう。
程なくして先に飲み物が運ばれてきてから、勇次郎くんは本題を切り出した。
「んで、肝試しの後から変な声をずっと聴いてるって? そりゃ災難だけどさ、一ノ瀬サンとこの例の行事って五月中旬だろ? もう七月終わるぞ、ずいぶん長いこと我慢してたんだな」
「最初はただの幻聴とか幻覚の一種って思い込もうとしてたんですよ。だっていくらなんでも非現実的じゃないですか、オバケとかユーレイとか、そういうの。妄想とか幻聴って患者を責めるタイプが多いっていうし、聞こえてくる音声がわたしに対する罵倒とか悪口なら、ますますその可能性の方が高いでしょ」
「でも、精神病とか何かしらの障害によるものじゃないって確信できることが起きた。だから『あいつら』を頼ったんだろ」
「あいつら……っていうのは、新浪くんともう一人の男の人ですか。名前は、確か」
「纏。針間纏だ。オレにとっては兄にあたる。龍樹はちっちゃい頃あいつに師事してたから、今でもたまに師匠呼びすることはあるけど」
「へえ、あの二人って師匠と弟子の関係なんですか……なんかそんな風には見えませんでしたけど」
「……家族ぐるみで付き合いがあったし。あいつ、しばらく訓練のためにうちで暮らしてた時期もあったから。ほとんど身内みてーなもんだよ」
ぶすくれた表情で唇を尖らせて言う彼は、ずずっと行儀悪くグラスの中のコーヒーをストローで吸い込んだ。なんで急に不機嫌になったのかは分からないけど、この件はあまりつつかれたくないらしいので、ひとまず話題を切り替えることにする。
「それで、今もずっと変な声は聞こえ続けていて……今朝なんかはとうとう変なものまで見えるようになっちゃって。あんまり信じたくないけど、これってやっぱりオバケの仕業ですよね、なんとかなりませんか」
「変ものってのは具体的になんなんだよ」
「わかりません、なんか黒い人型のモヤみたいな……それがわたしの背中にべったり貼りついていて。でも姿見越しにしか見えなくて、後ろ振り返っても何もいなくて。アレは一体なんなんですか」
「って言っても直接視たわけじゃねーから、今すぐどうこうってのは言えねえな。別に、今んとこ変なのが取り憑いてるとかってのもないし」
「……え? なんともない、の? ほんとに?」
「おう。ない。なんもない。オレは術師連中の中でも特別良く視える方だけどさ、マジで一ノ瀬サンには何もいないんだよ。悪いモンとか良いモンも含めてなんも。普通の人は誰かしらの思念がうっすらくっついてるもんなんだけどな、めずらしーね」
……だったら。絶えず聞こえている呪いの言葉も、朝方に見た人影も全て幻覚や幻聴の類で間違いないことになる。だとするならば頼るのは霊能者じゃなくてメンタルクリニックとかカウンセラーだ。嘘でしょ、いつの間にわたしは妄想に取り憑かれるほど追い詰められていたっていうの。にわかに信じがたい事実に黙りこくっていると、タイミング悪く頼んだ料理が運ばれてきた。
目の前に置かれたプリンは期待通りの固めのやつで、生クリームと缶詰のさくらんぼがトッピングされていて、とても美味しそうなのになぜか食欲があまり湧かない。残すのももったいないので匙で掬ってひとくち運ぶものの、確かにおいしいはずなのに、脳へは全く多幸感をもたらしてくれなかった。
「っつーか、肝試し程度で呪われるのもおかしな話だけどな。出来たての心霊スポット……まあ廃屋とか廃トンネルとか廃病院とかそういうのは、こびりついた怨念やら無念が全然昇華されきってないから、無遠慮に忍び込んだ侵入者に攻撃してくることもあるけど……その祠だかなんだかは今も定期的に整備しにくる人もいる、生きてるやつなんだろ? ならそこの神さんなりなんなりがガキ相手に祟るってのも考えにくいんだけどなぁ」
結構な大盛りナポリタンだったけど五分とかからずあっという間に平らげてしまった勇次郎くんは、おしぼりで口の周りを拭いながら首を傾げた。言外に、お前他にもなんかやらかしたんじゃねーだろうな、と詰問されているように感じてしまい、思わず仏頂面になってしまうが、慌てたように彼は責めてるつもりじゃないから! と弁明した。
「肝試しはそれぞれペアになってやったんですけど、新浪くんだけ未参加だったから奇数になっちゃって。一人は必ずソロ参加になるはずなんですけど、そういえばあのとき普通に全員ペア相手がいたんですよね。で、わたしはペアの子と一緒に祠でルール通り自撮りして……でも、事前に決めたルートは歩きやすい舗装済の歩道だったのに、あのときは道に迷って変な獣道とか行くことになっちゃったんです」
「へえ。そいつと行動してる間は特におかしいなとか奇妙に感じたりはしなかったのか?」
「ええ、まあ……後から思い出すとアレ? ってなるけど、そのときはあんまり。肝試しを計画したの、わたしと仲のいい友達グループだったから、必然的に回る順番が最後になっちゃったんですけど……ペアになってくれた相手のこともなぜか思い出せなくて」
当時の記憶を辿れば辿るほど、異質で不気味であることに背筋が震えた。いくらなんでもおかしくないか。おかしいことをおかしいと思えないことが何よりおかしい。どこかで疑問や不安を感じてもいいはずだった。なのに、わたしはそのとき、全て当然で当たり前だと思い込んで、全く異常だと認識できなかったのだ。
ここまでくるといっそ笑えてくる。精神障害にしても一体どういう症状だよとつっこまざるを得ない。本当に病気ならよかった。投薬なりカウンセリングで治療するという選択が取れるのだから。でもこれは明らかにそんな簡単な話じゃない。勇次郎くんという人がどれだけの腕前を持つ霊能者か知らないが、何も視えてないというのはどういうことなんだ。……わたしは、ほんとに大丈夫なの?
「……ね、ねえ、わたし、どうなっちゃうの」
「今の状況じゃまだわかんねえ……あんたに憑いてる怪異なり霊がもう少し具体的な行動に出てるなら対処のしようもあるけど、聞いてる限りそこまで悪意が感じられないんだよな。なんか、怯えてる様子を見て楽しんでるだけっていうか、からかってるだけみたいな」
「何それ……悪質すぎるでしょ」
「かといって変に刺激して攻撃のトリガー引かせたくないしなあ。呪いとか霊障ではねえよ、たぶんだけど」
「じゃあ、これ、なんなの?」
「それが分かりゃ苦労しねえって。こういうのって基本、分類とかできねえんだよ。分かりやすくオバケやユーレイが悪さしてることもなくはないけど、星の巡りみたいなもんで『たまたま』タチ悪ィのに目ェ付けられて変なことが起きたり巻き込まれる、みたいなことだってフツーにあんだわ」
「ハァー……顔も見たことない知らん人間に期待したわたしが馬鹿だったけど、予想以上に使えないじゃん。昨日も新浪くんの師匠とかいう人に酷いこと言われるし、ほんっとツイてない……」
「……あいつになんか言われたの?」
ガラリと声色が変わった。それまではどこか他人行儀というか、よそいきっぽい雰囲気だった勇次郎くんの顔からストンと表情が抜け落ちる。色素の薄い、猛禽のような双眸はビー玉みたいに無機質に光っている。そういえば、こんな眼をどこかで見た覚えがある。昨日、あの纏って人に睨まれた時と同じだ。……ほんとにきょうだいなんだ。
「不愉快だからその面二度と見せるな、って。こっちは依頼しようした人間なのに、なんなの、あの客を客と思わない態度! 新浪くんもいつもと違って全然優しくしてくれないし、マジで最悪」
「ぶっ、あはは! そいつぁ傑作だ、オレもたぶんそこに居たら同じこと言うだろうな。あいつのクラスメイトだしと思って助けてやる気になったけど──あの二人の言う通り、最悪なのはお前だよ」
クソ兄貴と意見が被るのは業腹だけどな、と吐き捨てた彼はまだ僅かに残っていたグラスの中身を干すと伝票を持って席を立った。慌てて財布を取り出して自分の分を払おうとするが、うざったそうにそれを拒否して会計を終え、店を出てしまう。勇次郎くんがスタスタと早足で帰ろうとするのを追いかけ、服の裾を引っ掴む。
「なんだよ。まだなんか用?」
「最悪って……最悪って、なんなの。わたし別に、あなたになんもしてないじゃん。そんな風に言われる筋合いなんてないんだけど」
「『自分は悪くない』って思ってそうなトコがだよ。他責もいい加減にしろ。なんで自分に非があるのかもとはちっとも考えられないんだ? 相手に無礼を働いておいて、いざ怒られたらすっとぼけて逆ギレする癖なんとかしろよ」
「ハア!? 逆ギレなんかしてないじゃん! わたしばっかり責めるの意味わかんない!」
「キレてんじゃん。たった今。他人の好意や善意にタダ乗りしておいてまるで何も返す気がないその態度と、自分の欲求は優先されてしかるべきっていう傲慢さが透けてるからあいつに嫌われてるっていい加減気づけば?」
「傲慢って……そんなんじゃないし。さっきからなんなの。失礼なのはそっちでしょ。もう知らない、依頼も受けなくていい。自分でなんとかするもん」
昨日からずっと最悪なことばっかりだ。みんなしてわたしに辛く当たるなんて。わたしは何も悪くない。責められるようなことなんて何もしてない。だったら変なのはあいつらだ。……やっぱり明石先生にお布施した方がよかったかも。少なくとも、あんな不良みたいな男の言うことを聞くよりよっぽどマシだ。
帰り際、コンビニに寄ってもう一度貯金を全額引き出し、案内メールの手順に従って振り込む。すると入金確認完了メールが届き、カウンセリングと題した事前打ち合わせのスケジュールについて記載されていた。明石先生は依頼者一人一人に直接会って、先に細かくヒアリングしてから仕事に当たるらしい。ちょっとしたお悩み相談みたいなもんだ。
一番近い日付を選んで返信すると、数分経ってから再度確認メールが送られてきた。具体的な待ち合わせの時間と場所、それから必要なものなどが付記されている。忙しい方なのに三日後に会ってくれるなんて、明石先生ってなんて神なんだろう。何かと失礼すぎるあいつら兄弟とは雲泥の差だ。予想以上に上手くコトが進んでいるのに安心し、ほくほく顔で帰宅する。
家の掃除や洗濯をさくっと終わらせ、夕飯はどうしようかとお母さんに帰りが何時頃になるかメッセージを送ってみるけど、案の定返信はない。わたしが中学生になったあたりからお母さんはあんまり家に帰ってこなくなった。もちろん残業で遅い日もあるけど、大抵は男だ。それかホストクラブ。
あの人は教員と風俗の二足のわらじを履いていて、同世代の女に比べればかなり金持ちだ。でなければマンションの固定資産税を支払えない、という事情もあるけど。わたしが学費の高い私立に通えているのもそれが理由。学校の先生としてバリバリ働いているお母さんのことは尊敬しているし、すごいと思う。でも、空いたスキマ時間で風俗の仕事をやって、稼いだ多額のお金をホストや彼氏に貢ぐのはどうなんだ。
とはいえ家族であっても所詮は他人なのだから人の人生にいちいち首を突っ込んでくるな、というのがお母さんなりの信条であり家訓で、わたしが意見することを彼女はものすごく嫌う。一度それで酷い大喧嘩になった。真冬のクソ寒い時期に三日も家を追い出されて、友達の家を転々とする羽目になる、あんな惨めな思いはもうしたくない。だから次々男を取っかえ引っかえしていても、夜のお店で豪遊していたとしても、わたしは何も言えない。
わたしにはわたしの人生があって、そこに誰かが立ち入ることはできないし、お母さんにもお母さんの人生があって、娘だからといって全てに優先できるわけでもない。それは分かっている。お母さんに何よりも我が子を最優先する気はないし、それを無視して子供の立場から優遇するよう要求するのも間違っていると自分でも思う。わたしだって別にお母さんをプライオリティの一番上に置く気はさらさらない。
お母さんが自分のお金や時間をどう使おうと何か言えた立場でもない、あくまで血縁関係にある他人同士が同居しているだけに過ぎない、という認識を誤ってはいけない。だからこうして連絡してもなしのつぶてなことも、子供より男を取っていることも、いちいち責めたらだめなんだ。あのひとは、他人。家族だけど、他人。そう何度も繰り返し、頭の中で唱えて自分に言い聞かせる。
小さな頃から何度も何度も言い聞かされ続けてきた。わたしとお母さんは別な人間で、それぞれ別な人生を歩んでいかなければならないこと。だからお互いの選んだことに目くじら立てたり干渉したりしないこと。娘という他人を優先するかしないかは母親の都合に左右差されること。それは娘側もまた同じだということ。
家族はなんの免罪符にもならない。家族とは無条件で接遇されるという意味ではない。場合によっては取引先、会社の同僚、友人、それ以外の他の人間を選ぶことだってあると理解しなければならない。だから急いで返信してほしくても、早くメッセージをチェックしてほしくても、絶対に催促するのは許されない。
でもそういう我が家の在り方を誰かに話したことはなかった。理解を示してもらえるとも期待していなかったし、最悪毒親だなんだと謂れのないレッテルを貼られて行政や福祉が介入する事態になるかも、という不安があった。実際のところまともかどうかに関わらず、まともじゃない扱いを受ける。それはこの現代社会に生きている人間にとって常に付きまとう、耐えがたい恐怖だった。
分かっている。たぶん、うちが普通じゃないんだろうってことも。普通とは思われていないんだろうってことも。ほんとはわたしだって自分の家を普通だと信じていた時期なんかないんだから。お母さんが、在るべき母親の姿としては間違っているんだろうっていうのも。だけど間違っているからなんだっていうんだ。それがうちで、それがわたしで、それがお母さんだ。今までそうやって生きてきた。今更他の生き方なんか選べない。
でもたぶん、そうやって見ないフリをしてきた歪みをあの人達は──彼らは突きつけてくる。「それ」は正しくないことなんだと、その有り様は間違っていると。なんてバカな人達なんだろう。間違いを間違いと認めることで一体なんになるっていうんだ? みんなそれぞれ歪みなんて持っていて当然じゃないか。歪みは正さなければならないなどと、どこの誰が決めた?
だから悪くない。正しくないけど、間違っているけど、悪くはない。お母さんがわたしを見てくれないことも、わたしが色んなものに責任をおっ被せて生きていくことも。
◆◆◆
三日後、都内某所にあるレンタル会議室へとわたしは訪れていた。てっきり動画でよく見る御堂みたいなところへ連れていかれるのかなと思っていたけど、あそこは実際にお祓いするための本番用施設で、普段から使っているわけではないらしい。わたしが着いてから間もなくして、待ち合わせの時間ぴったりに現れた明石先生は、なんと素顔だった。いつもみたいにマスクもサングラスも帽子も身につけておらず、ご尊顔を晒している。
さらさらした長い黒髪は下ろしたままで、黒いライダースジャケットの下に黒いワイシャツ、黒いレザーのパンツという非日常的なスタイルは、まるで小説や映画から登場人物が抜け出してきたみたいだ。化粧っけのない地味めの顔立ちには、額から顎先にかけて縦に走る刃物傷の痕がくっきり残っていて、なるほどこれでは素顔を隠さざるを得ないはずだと得心がいった。
「こんにちは。今回はずいぶんお若いお客さんでびっくりしちゃった。アタシは明石照日といいます……ってあなた動画のファンなんでしたっけ。それなら知ってるよね」
「あ、あのっ、はじめまして! 一ノ瀬奏音といいますっ、動画いつも見てますっ!」
「ふふ、そんなに緊張しなくてもいいのよ。それで何が起きたの? 話してみて」
聴くひとの心をうっとりさせる、耳朶をやわく食むような甘ったるい声に、思わずぽうっとしてしまう。この人の言う言葉に全て従ってしまいたくなるような。この前勇次郎くんに話したことをそっくりそのまま話して聞かせると、次第に彼女は表情を曇らせはじめた。
「それは……やはり呪いの一種ね。何か恐ろしいものが、あなたに取り憑いているように見える。今は警告程度に留めているけど、いずれあなたを呪い殺すかもしれないわ。なるべく早く手を打たないと」
「そんな……あの男、だってそんなの一言も! わたしを見殺しにするつもりだったんだ。許せない」
「……他にもあなたに助言をくれた術師がいたの?」
「はい。針間勇次郎っていって、わたしのクラスメイトの幼なじみだっていうやつがいきなり呼び出してきて……藁にも縋る思いで頼ったら、急に怒って罵倒してきたんです。許せないですよね」
「針間、針間か……他には? 他には同じ針間ってひとは一緒にいなかった?」
「いえ、その人だけです。……何か気になることが?」
「ええ……まあ、ちょっとね。大丈夫。あなたに何か不利益をもたらすことはないわ。もうその男には何も依頼なんてしてないんでしょう?」
「もちろんです。あんな最悪なやつに頼ろうとしたわたしが馬鹿でした。もう本当に最低です。会ったばかりの、現在進行形で困って助けを求めてる人間に優しくしないなんて、男の風上にもおけません」
自分でも驚くくらいに、よっぽど腹に据えかねていたのか愚痴が止まらなくなっていた。明石先生が困ったように眉尻を下げて苦笑いしているのに気づき、咳払いして慌てて止める。みっともないところを見せてしまったと密かに自分を恥じていると、彼女は横道に逸れかけた話を引き戻した。
「一応忠告しておくけれど、針間には気をつけて。あの家の連中は守銭奴のぼったくりでロクな術師ではないから。それより、ここでの霊視だけでは何がきっかけで発生した呪いなのかハッキリ視えないから、やはり現地に赴いて原因を突き止めるしかなさそうね」
「……え? わたし達、わざわざもう一度あそこに行かなきゃならないんですか?」
「推理ドラマの探偵や刑事だって手がかりを掴むために何度も現場へ足を運ぶでしょう。それと一緒よ。どういう類の呪いなのかもよく分からないし。なんというか、ずいぶん複雑にこんがらがってるみたいだから」
「そんなにヤバい状況なんだ……なんか大変なことになっちゃった。わたし、何もしてないのに」
「怪異ってのはこっちが何も悪くなくても、気まぐれで人間を弄ぶ存在だからね。だからこそ常に気を引き締めていないといけないの。正直あいつらとの共存なんて無理だとアタシは思ってる。人と化け物の間に線を引き直すのが仕事だなんて生ぬるいこと言ってるやつもいるけど、アタシは人間を守るために手段は選んでられないな」
会議室の外へ目をやり、彼女は忌々しげに舌打ちする。深く突っ込んでいいのか分からず黙りこくっていると、明石先生は照れくさそうに頬を掻いてほろ苦く笑った。きっと彼女がその結論に至るまで、色んなことがあったんだろう。気持ちがわかるなんて簡単に言えないけれど、現実に呪いだなんて馬鹿げた被害を受けている今、共存なんて無理な話だとわたしにも思えた。
今後の流れは近日中に現場へ赴いて下見し、そのあといつもの御堂で浄霊を執り行うとのことだ。先に下見してからでないと、どんな手法を用いて浄霊するか検討できないため、本番がいつか今の時点では確定できないとのこと。ここだけの話、明石先生には多くのスタッフがおり、彼ら彼女らと協力して浄霊にあたるのだそうだ。
要するに下見にかかる費用も含め、前払いした代金だけでは全然足りないってことだ。貯金は全額使い果たしてしまったのでこれ以上は持ち出せない。少なくとも自力では。城北高校は無理して入った自分にとってはレベルの高い学校だからアルバイトは避けてきたけど、さすがにこればかりは四の五の言っていられない。
降って湧いた金策という難題に頭を抱えていると、彼女はわたしの悩みを先読みしたかのように、にっこり笑って頭をぽんぽんと撫でた。大したことないスキンシップなのに、なんだか全身がぽかぽかしてきて頭痛の種が吹っ飛んでいく気がするから不思議だ。心做しかダルさや肩の重さも取れたように感じる。
「お金、困ってるの?」
「……正直、そんなにかかるものだと思ってなくて。甘く見積もったわたしが悪いんですけど……時間がかかっても必ず払うと約束します。だからちょっと待っててもらえますか」
「いいのよ。そんなに気負わなくても。まだ高校生だもの。こればっかりは仕方ない。とはいえ、こちらもスタッフを食べさせてやらなくちゃいけないし、あんまり悠長なことも言えないの。ごめんなさいね」
「あ、あの……それじゃあ依頼は」
「今回のは前金ってことで、既に受け取っちゃってるからお返しできないの。打ち合わせにだってこちらは時間を費やしているわけだしね、さすがにタダにはならない。キャンセルでもいいけど、それって無駄だよねえ」
どんどん重なっていく言葉に追い詰められていく。大人から見たら微々たる額でもわたしにとっては大金だ。それをただ支払っただけなんて彼女の言う通り、あまりにもったいないじゃないか。他の人に依頼をしたくても元手がないんじゃどうにもならないし、それ以前に明石先生以外の霊能者なんか信用できない。どうせならこの人になんとかしてほしい。
もしもアルバイトでも支払いきれない額を請求されたりしたらどうしよう。お母さんに頭を下げる? 絶対ナシのナシだ。いつもみたいに不機嫌になって罵倒や暴力だけならまだいい、最悪殺される。あのひとは他人に迷惑をかけられることを何より嫌う。金銭問題なんてその最たるものだ。他ならぬ娘がそんな面倒事を持ってきたと知ったら、何をしでかすか分からない。
一度に大金を稼ぐとなったら、もうパパ活か風俗くらいしか思いつかない。いつだったかSNSで見かけたけど、海外出稼ぎなんて一度に数百万稼ぐのも夢じゃないって聞くらしいが、こんな小娘でも務まるものなんだろうか。もし学校にバレたら。親にバレたら。そう想像しただけで、足が竦む。誰にどこに頼ればいい。わたしを助けてくれるものなんて、いないのに。
「安心して。ちょっといい儲け話があるの。あなたは分け前をもらえる、そこから代金を支払えばいい。アタシは取りっぱぐれない。ウィン・ウィンってやつね。肝心の内容は、お客さんの中でも特に才能があると思った相手にだけ教えてるの。あなた、運がいいね。どう? せっかくだし受けてみない?」
「な、内容によります……ほんとに稼げるんですか」
「あなたの頑張り次第としか言えないなぁ。残念ながら受けてくれる人にしか詳細は伝えられない決まりでね、あなたは滅多にいない素質の持ち主だから、見込みアリとアタシは評価したんだけど……残念だよ、本当に」
「わかりました、受けます! 受けますからっ、詳細、教えてください。お願いします」
半ば食い気味に返事すると彼女はニッと笑みを深め、自席の傍らに置きっぱなしにしていたアタッシュケースを開ける。中にしまわれているのは仕事道具なのだろう、御札とか水晶玉とか何やら仏具っぽいものとか、いかにも霊能者が使いそうなアイテムばかりだ。これがプロの使う道具かあ、としげしげ眺めていると、彼女はその辺の神社で売られていそうな御守りの一つを手渡した。でも表には何も書かれていない。普通は交通安全とか安産祈願とか色々なお願い事があるものなんじゃないだろうか。
試しに中身を覗いていいか尋ねてみたが、それも断られてしまった。受け取ったはいいものの、これはどうすればいいんだろうか。矯めつ眇めつしていると鞄につけてもいいしキーホルダー代わりにしてもいいという。とにかく常に肌身離さず持ち歩き、決して落としたり失くしたりしてはいけないと厳命された。これをしばらく預かるだけで、数百万単位のお金が転がり込んでくるという。そんな美味しい話ってそうそうあるものなんだろうか。
ぶっちゃけすごく怪しいし今すぐ断りたい気持ちでいっぱいだったけど、高額な依頼料をどうにかできるツテもアイデアもない。せめてこの御守りがなんなのかくらいは教えてほしいが、それも契約上明かせないとのこと。ただ、明石先生が作ったものではなく、取引先からテスターを見つけてほしいと頼まれ仕方なく所持していたという。つまりこれは試供品だ。なんのかは不明だが。
「しばらくしたら何かしらの効果が出てくると思うから、それをアタシまで報告してほしいな。それを元に取引先にレポート書かなきゃいけないんで」
「は、はぁ……持ち歩くだけでいいんですか。えっと、いつまで?」
「んー、いつまでっていう具体的な期間はちょっとアタシにも伝えられてなくて。とりあえず必要じゃなくなったら回収するから、それまではあなたが保管しててね。報酬は取引先経由で送られてくるから、そのうちの何割かをアタシに送金して。依頼完了次第で大丈夫よ、その後に見積出すから安心してね」
「わかりました……ところでこれ、本当になんなんですか。御守りに見えますけど」
「ねえ、頭いい高校に通ってるんでしょ、あなた。なら、こんな言葉も知ってるよね? ──寝た子を起こすな」
今までの柔らかく響く澄んだ声とはまるで違う、人を恫喝し慣れた者だけが出せる重低音で彼女は「忠告」する。お母さんと同じだ、この人は。あの人とおんなじ、人を自分の思うがままに操り、使役することに慣れた人間だ。逆らってはいけない。もしも機嫌を損ねたら。何をしでかすか、何をされるか分からない。
「うん。いいお返事。よかったぁ、物わかりのいい子でアタシ助かっちゃったよ。もう少しお話聞いてあげたいんだけど、生憎と予定が詰まりまくっててね、もう行かないといけないの。その代わりと言ってはなんだけど、これ連絡先ね。念のため渡しておくから、何か困ったことがあったら遠慮なく連絡ちょうだい。ではまた」
わたしが首をこくこくと縦に振ったのを見やって明石先生は今日一番の笑顔になり、元の優しい声に戻ってから慌ただしく会議室を出ていった。がらんとしただだっ広い室内にぽつんと一人取り残され、手の中の御守りを見つめながら、本当にこれでよかったのだろうかと自問する。だが答えは出ない。出るわけがない。
反射的に頷いてしまったけど、こんな得体の知れないものを持っていて大丈夫だろうか。捨てた方がよくないか。だけどちょっと変な見た目とはいえ御守りの形状をしているものを粗雑に扱うのも気が引けるし、もしも次会ったときに御守りの未所持を見抜かれて追及されたらと思うと、ここへ置いていく気にもなれない。くどいくらい彼女は紛失に注意しろと説明していた。それだけ取扱には慎重にならざるを得ないんだろう。
もし故意に捨てたのがバレて報酬がもらえなくなったら依頼料が払えなくなるし、とにかく今は言われた通りにするしかない。しばし考えた末、お財布の中にしまうことにした。鞄や鍵に付けるのはチェーンや紐が切れた場合を考慮すると得策ではないし、身分証や銀行のカード類と一緒にしておけば、財布ごと落とさない限りなくすことはないだろう。我ながら名案だ。
会議室を軽く清掃して現状復帰し、エントランスに鍵を返却してビルを出る。八月になったばかりの午後は、鉄板焼きでもこうは炙られないだろうというくらい酷い日差しが肌を突き刺し、じりじりと焦がしていく。屋内は冷房が効きすぎでむしろ肌寒いくらいだったから、温度差の極端っぷりにクラクラしてしまいそうだ。お天気アプリで今日の最高気温を調べるのも億劫で、さっさと帰ってしまおうと駅の方向へ歩き出す。
まさに、そのタイミングだった。
「……お前、この前龍樹が連れてきたガキだな。そんなもんぶら下げて、ここで何してる」
剣呑な眼差しを向ける、わたしを呼び止めた男。昼下がりのきつい日光すらものともしない、病的な肌の白さと銀髪を結い上げた、華奢なシルエットと異様なまでに整いすぎた美幌には見覚えがあった。あの日、新浪くんに連れられて行った、怪しげな事務所の主。名前は、そう、確か──針間纏。
「何ボサっとしてる。早くついて来い」
「ハア? なんでよ。わたしがなんであんたなんかの言うこと聞かなきゃなんないの」
「馬鹿が。お前、そんなに周囲の人間を殺してえのか。厭な匂い撒き散らしやがって」
「……え? ……は?」
「何も知らねえのか。いいから早くしろ、手遅れになっても知らねえぞ」
女の子みたいに細い腕のどこにそんな力があるのか、気がつくと片手を取られてグイグイ引っ張られていた。無理やり歩かされてしまい、慌てて振り払おうにも怪力すぎて全然引き離せない。むしろこちらの腕が脱臼しそうでこれ以上力を入れられなかった。全身真っ黒のスーツに黒のネクタイを締めた姿は暑苦しそうなのに、汗ひとつかかない横顔は涼しげで小憎たらしい。
彼は道を通りかかったタクシーを捕まえ、あの事務所がある界隈まで行くよう運転手に言いつける。成人しているかも不明な男と女子高生の組み合わせにタクシーのおじさんはけげんな顔をしていたけど、降車する際に男が料金とは別に数枚の高級紙幣を渡した途端、コロッと愛想良く振る舞ったあたり通報は考えにくいだろう。ムカつく。わたしが逃走するのを警戒してか再び腕を掴まれ、あのビルの地下へと連れていかれる。気分は完全に誘拐犯に捕まった哀れな美少女だ。
前回来たときと変わらないどころか、もっと荒れ放題の事務所へ通され、というか強引に入らされる。生ゴミの放置だけはないだけマシとはいえ、やはりこの散らかり具合には呆れてしまう。そんなに片付けが苦手ならハウスキーパーくらい雇えばいいのに。聞けば、このビル丸々一棟を所有していて家賃収入だけで充分遊んで暮らせるらしい。金に不自由してないなら、なんで家事代行やお手伝いさんを使わないんだろう。
どうやらお気に入りらしく、他の家具や調度品と比べてかなり使い込まれた様子のソファへ、座って待っているよう命じられ、大人しく腰を下ろす。男はその間、部屋を片付けるでもなくフロア内をあちこち行き来していた。事務所以外に私室とか書庫とか物置とか色んな部屋が地下にあるらしい。なんとなく見てみたい気もするが、勝手に立ち入って怒られるのも嫌だ。
暇を持て余し、スマートフォンに何か連絡でも入ってないものかと通知をチェックすると、なんと明石先生からさっそくメッセージが来ていた。例のテスターの件で、さっそく明日中に報酬が振り込まれるらしい。思っていたより早い入金のお知らせに、つい笑顔になってしまう。これで依頼料が出せるし、このワケの分からない謎の幻聴や幻覚ともおさらばできる。
「何ヘラヘラしてんの? お前さっき数百って数の人間を呪いに巻き込んで殺しかけたのに」
「……え。は? 急に何その冗談。にしてはタチ悪すぎ。ちっとも笑えないんだけど」
「その笑えねー冗談みてえなことをしかけたのがお前だよ。つーか、さっきからプンプンくせえんだけど。バケモンの死骸の臭いがよ」
「なんのことかさっぱりわかんないんだけど。てかバケモンの死骸って?」
「実体を持たない怪異ばかりじゃねえ。より上位の、自力で物質界に干渉できるタイプのバケモンは肉の器を持ってることもある。そういうやつの遺骸は呪物になる。殺された恨み、憎しみといった負の感情が染みついていて、昇華しきれない情念が禍を招くからだ。ただの人間が持っていていいもんじゃねえ」
「いやだからなんの話? 心当たりないし。人違いなんじゃない?」
「んなワケあるか。あそこで死体くせえのはお前しかいなかったし、私の目にゃキッチリ視えてる。誤魔化すな。財布ん中にあるモン出せ」
やはりすっとぼけたフリは通用せず、それどころかより核心へと迫られてしまった。彼の言葉があの御守りを指しているのはもはや確実だ。とはいえこっちだって報酬がかかっている。簡単にくれてやるわけにはいかない。それに明石先生から直々に守銭奴ぼったくりと名指しされた針間の人間なんか信用には値しないし。
「なんのこと? さっきから言われてる意味がわかんない。わたしは財布の中に何も入れてないけど」
「……曲輪」
「あいよ、ちょいと失礼すんぜ、お嬢ちゃん」
「え? あ、ちょっと! 人のバッグ漁んないでよ!」
いつの間にか真後ろに立っていた大柄な男が、横合いからわたしのバッグを奪い取ると中をガサゴソ引っ掻き回し始めた。真っ赤な着流しの上に白い羽織をまとい、浅黒い肌に、うすべに色の長い髪。瞳孔が縦に裂けた、人間のそれとはまるで違う双眸は炯々と輝いている。
どこぞのコスプレイヤーみたいな見た目をした青年は、あっさりわたしの財布を見つけ出すと中身を検分しだした。褐色の肌に反して、やわらかいピンク色をした手のひらの上にあの御守りが乗っかっている。取り返そうとするものの、身長差がありすぎて全然届く気がしない。
「こいつぁキッツいな……おれでも完全に抑え込めんのは五分が限度だ。相当やべぇ呪物だぜ、お嬢ちゃんが無事だったのは完全に運だな。纏のやつが通りかからなかったら三分と経たず、招き寄せられた悪霊怨霊バケモン共の群れに食い殺されてただろうよ。こいつが気に食わねえ野郎なのは分かるが、一応感謝しといた方がいいぜ」
うっへえ、と苦虫を十匹くらいまとめて噛み潰したような顔で、曲輪というらしい男は、御守りを纏──さんに向けて投げ渡した。ヒョイと危なげなくキャッチした彼は、御守りの袋を真ん中から横方向に力ずくで引き裂いた。強すぎる握力に耐えかね、あっさり引きちぎれた御守り袋から何かがぱらぱら落ちてくるのは、爪だった。いや、爪を細かく切断した代物、とでもいえばいいのか。
そういえば御守りというにはヤケにカサカサって音がするなあとはうっすら感じていたんだ。まさか、こんな気持ち悪いものが封じ込められていたなんて。そりゃ明石先生も中身を見るなと厳命するはずだと納得する。……ということは、あの人は中にあるものについてご存知だったのだろうか。なんの御守りなのか、いくら聞き出そうとしても明かしてくれなかったのに。
「うわ、なんだこりゃ。想像以上にヤバいモンが出てきたな、コレ一つでちいせえ町なら簡単に滅ぼせそうだぞ。お嬢ちゃん、こんなのどこで手に入れたんだ?」
「こんなの知らない……覚えてないっ」
「ンなわけねえだろ。とっとと吐けコラ。呪物がその辺に落っこちてるもんか、誰かから押しつけられたか買い取らされたかに決まってる。こいつをお前に預けたのはどこの誰だ? さっきから聞いてりゃ、そらっとぼけやがってよぉ……気に食わねえな」
「い、言うもんか! 業突く張りで守銭奴のぼったくり野郎になんか!」
「ブハハ! そいつぁ傑作だ! 確かに纏の奴ァ料金が高ぇからなァ。ガキ相手にゃ学割もあるらしいけどな」
「うるせえぞ曲輪。……その物言いで犯人がわかった。明石照日だな、いかにもアイツが好みそうな手口だ。呪物を小娘に持たせて性能を確認しようとしたのか。あの愉快犯め、何企んでやがる」
先生の名前を出され、ひゅっと我知らず息を呑む。どうしよう、わたしのせいで明石先生が疑われてしまった。なんとか先生を庇おうと口を開くが、なんて言えば彼らの気を逸らせられるか分からなくて、ただ口をぱくぱくと開閉させることしかできない。本当になんてやつらだ、先生を疑った挙句に貶すなんて。
「いい加減にしてよ! 先生が何したっていうの、これ以上明石先生を悪く言うなんて許さない、こっちにだって考えがあるんだから」
「なんだこいつ。ずいぶん手懐けられちゃってんな、あのバカ一体何したんだ?」
「一種のマインドコントロールってやつじゃねえの? お嬢ちゃん、どうみても正気じゃねえし、従順にするために何かしら細工したんだろ」
「あー、なるほど。私の言動に対して常に反抗し続けるよう、変なコマンドが働いてるってことか。あの女、人間をプログラムで動くロボットかなんかだと勘違いしてんじゃねえのか。ハア……めんどくせえな」
ごちゃごちゃと喧しいこの男をとにかく黙らせようと物理的な手段に訴えようとしたその瞬間、ドスッと鈍い音が自身の下腹部から鳴って、ついで激痛が襲う。したたかに腹を殴られたのだと気づくのに少し時間がかかった。まともに立っていられなくなり、ふらつく足元をなんとか支えようとするが、かくんと折れた膝のせいで床面にそのまま倒れ伏してしまう。狭まる視界と落ちかかる意識を繋ぎ止めようとするものの、強烈な眠気には抗えず、結局わたしは気絶してしまったようだった。
◆◆◆
いつの間にか寝落ちてしまったらしいわたしは直前まで座っていたソファの上に寝かされていた。ご丁寧にバスタオルを丸めた簡易枕が頭の下に置かれ、明らかに高級品とわかる質の良さそうなブランケットが上半身にかかっている。あれほど敵意剥き出しだった纏さんがわざわざ貸してくれたとも思えないし、もう一人の男性、曲輪さんの手によるものだろうか。
睡魔自体はすっかり抜けているが、なんとなくぼんやりしたままの頭は完全に目覚めきっていないようで、気絶するまでの記憶が若干ぼやけている。纏さんと何か口論になったことまでは覚えているのだけど、なんで言い争う羽目になったのかまでは分からずじまいだった。ひとまず身を起こし、バスタオルとブランケットを畳み直していると、玄関のドアが開いて纏さんその人が入ってくる。
ポニーテールに結い上げていた髪は下ろされ、喪服のような黒スーツから私服へと着替えていた。シャワーでも浴びてきたのか、襟元がだるんだるんになるまで着古したオーバーサイズのシャツに下はジャージのズボンという寛ぎスタイルで、首元にタオルを引っかけている。濡れたように輝く銀髪はもうほとんど乾ききっていたけれど、紅潮した頬はまだうっすら湿っていた。
「おー、起きたか。体調と気分は? 問題ないならとっとと帰れ。ここはガキのたまり場じゃねーんでな」
「……あの、わたし、なんでここに。確か直前まで誰かと約束してて、そしたらあなたに偶然会って……それで……あれ? ダメだ、思い出せない」
「ちょっと効果が強すぎたか……まあいい、お前はあの自称霊能者ってやつに体よく使われたんだよ。生身の身体に受肉できるほど力の強い怪異が死ぬと、その遺骸にも力が宿る。多くの人間を巻き込んで呪い殺すほど強力で凶悪な呪物へと変じる。お前があの女に持たされたのもその一つ。知識のある人間が正しく管理すれば暴れ出すことはないが、ひとたび無関係な人間の手に渡れば、際限なく人を殺める凶器になる」
無惨に壊され、残骸と化した御守りはテーブルの上に置きっぱなしにされていた。今はただの土の礫にしか見えないが、元は鋭い鉤爪のような形状をしていたらしい。破壊された以上もう無害だが、本来の能力は半径数キロメートルに渡る広範な効果範囲にいる生きた人間を極めて惨たらしい死に方で呪殺してしまうという。
呪殺と言われてもあまりピンとこないけど、有名なホラー映画における被害者の末路をいくつか列挙され、それと似たような殺され方をすると聞かされて、ようやく恐怖が心に追いついてきた。そんなとてつもなくヤバいものをわたしは普通に持ち歩いていた、というか常日頃肌身離さず持ち歩くように言いつけられていた。
もしも言われた通りにしていたら、真っ先に死ぬのはわたしなのでは。呪物の放つ禍々しい気配に引き寄せられ、有象無象の化け物も集まってくる、誘蛾灯のような効果もこれにはあるというではないか。仮に無事でも招き寄せられた怪異に殺される可能性まではゼロにできない。なんてとんでもないものをあの人はわたしに託したのだろう。死んでも構わなかった、元からわたしのことは依頼人とも思ってなかったってことなのか。
「そんな、どうして……明石先生……」
元はといえばインターネット越しにしか知らない相手を一方的に信頼していたわたしに原因があるのは、もちろん理解しているけれど。それでも、こんな簡単に裏切られてしまうなんて。一体わたしの何が悪かった? お金がないから? 子供だから? それともわたしの全てが悪かったの? わたしは、ただ自分じゃどうしようもない恐怖を解決してほしかった、それだけなのに。
「やれやれ。馬鹿なガキだ。ま、ガキってのは阿呆なのが普通か。……それで? お前はどうする?」
「どうする、って」
「あの女に復讐するのか、どうなんだと訊いている。騙された恨みを晴らすも忘れるもお前の人生だ、好きにするといい」
「何も……何もしません。わたしが馬鹿だったから、馬鹿なのが悪いから。明石先生は、何も悪くない」
「……ずいぶん信仰心が篤いことで。あの女、どうやってここまで懐かせたんだ?」
「さあな。けど面倒だぞ、ここまで心酔してるやつなんか珍しくもねえだろ。そいつ、どうやら針間に敵愾心あるくせえし、万が一仕事でバッティングしようものなら、信者使ってどんな嫌がらせしてくるかわかんねえぞ」
「問題はそれなんだよなあ。私個人を狙う分には問題ないが、勇次郎に矛先が向くのは避けたい。分家連中は自力で対処できるだろうが、あいつは……」
「頭に殻がついたままのヒヨっ子だもんなァ。バケモン相手にするのも精一杯なのに、ましてや同業からの悪意なんざお手上げだろう。しばらくはお前のとこに置いてやった方がいいんじゃねえか?」
「そうしてやりてえが、勇次郎本人が私に守られることをよしとしないだろうな。龍樹がうまいこと言いくるめられるならともかく、私が絡むと途端に強情になりやがる。いっそ二人とも抱え込むか?」
やめて、やめてよ。あなた達にそこまで言われるほど、あの人は悪いひとじゃない。そう声を大にして言ってやりたいのに、今にも殺されそうになったという事実がわたしの口を縫い止める。果たして彼女が善人であるという明確な根拠などどこにある? 相手のことなんて今まで動画の配信でしか知らなかったのに。「明石照日」という名前が本名なのかさえも知らないままなのに。
「やれやれ、ガキ一人に関わったせいで面倒なことになっちまった。とりあえずもう帰れ。お前にゃもう用はない。あとはこっちで全部なんとかする」
「そんな……! じゃあ、どうすればいいの、わたしは呪われてるのに! 元はといえばあなたのせいなんだから、最後までちゃんと助けてよ!」
「ハア? 知らねえよ。そんなの自分でどうにかしろ、この自己中他力本願女が。私ら術師は便利屋でもなんでもねえぞ、ろくな対価も払えないくせに一丁前にピィピィ喚きやがって。おい曲輪、お前は勇次郎んトコ行ってこい。明石照日の式が万が一来てたら露払いくらいしてやれ」
「あいよ。このお嬢ちゃんはどうする?」
「ほっとけ、と言いたいが……ここに居られても邪魔だ。先に家まで送ってやれ」
まだ話は終わってないのに! しかし無理やり居座って追い出されるのも癪だ。曲輪さんは自宅まで送迎すると申し出てくれたが丁重にお断りして、仕方なくビルを出た。ずいぶん長い時間をあの事務所で過ごしていたようで、外はすっかり赤く焼けていた。真っ赤な西日に照らされる街並みは夏の夕方特有の猥雑な空気に満ちていて、学校がある学生街や地元とも違うその喧騒に、ここはわたしの居ていいフィールドじゃないのだと自覚する。
最近、全然ツイてないことばかりだ。今まで他人に邪険にされたことなんてなかった。みんなに構ってもらえてチヤホヤされるのが当たり前で、それをわざわざ特別だとも思ったことがなかった。こんな酷い扱いを受けるなんて屈辱だ、許せない。嫌いだ、わたしに優しくしてくれない人間なんて全員いなくなっちゃえばいい。わたしを軽く見るやつも、粗雑に扱うやつも、刃向かってくるやつも。みんな、みんな、みんな、死んでしまえばいい。
思考が真っ黒に澱んでいくなかでも身体はオートモードで動き続けるようで、気づけば自宅の最寄り駅に着いていた。ビル影が重なり合ってでこぼこしたシルエットに夕日の最後の残照が引っかかって、今にも暮色は地平線の際へと沈み始めている。いつもならなんてことのない、ただの夕焼けなのに。なんだか今は、良くないことが起こりそうな予感がした。
見慣れたマンションの前まで来て、なんだかそれ以上奥に行くことを躊躇ってしまう。ただ、家に帰るだけだ。それだけなのに、自分の家というものが、二度と陽のあたる場所へ戻ってこれない奈落の底のように思えた。そういえばお母さんは今日、休みだって言っていた。今頃は家にいるはずだ。なのに行先を何も告げないまま出てきてしまった。そんなのこれまで決してありえなかったことだ。
娘に迷惑をかけられる事態を何より嫌うあの人が、ささいなルール違反を笑って許してくれるとは到底微塵も思えない。もし、見捨てられたら。お前なんかもう要らないって拒絶されたら。お母さんがお母さんをやめちゃったら。あれこれ「もしも」を考えるだけでますます足が竦む。帰りたくない、帰れない、でも、そしたらどこへ行けばいいというの? わたしの居場所なんて、もうどこにもない。
「助けてあげよっか」
それ以上進めず、エントランスの手前で立ち尽くしていると、背後から聞き慣れた声がかかった。鼓膜を引っ掻くような、耳朶を甘噛みするような、砂糖菓子のようにあまいあまい声。動画で何度も耳にした、そしてつい最近も聞いたその声音。それが誰のものであるかなど、わざわざ特筆すべきことでもないだろう。
夕闇に浮かぶシルエットは、数日前に見たものともずいぶんと違っていた。背に流れる長い黒髪こそ同じだが、夏場だというのに丈が足元近くまである真っ赤なロングコートを羽織り、その下には胸元を強調した黒いタンクトップ、薄手のワイドパンツにハイヒールという出で立ちだ。目元をサングラスで覆っているが、それだけでは隠しきれないくらい、顔面の半分を占める大きなケロイド状の傷跡が痛々しい。
ホンモノだ、と思った。このひとこそが本物の明石先生なんだ。わたしはすっかり騙されていたけど、それは偽物だったからだ。よくできた精巧なフェイクのせいなら、やっぱりわたしは何も悪くない。ちょっとドジっちゃっただけだ。でももう大丈夫。だってようやく本当の明石先生が来てくれたんだもの。
「せんせ、せんせいっ……明石先生! よかった、よかったよう……っ、もう会えないかと」
「うん。待たせてごめんね。偽物が全て悪いね。アタシも一ノ瀬ちゃんに会えて嬉しいよ」
「……名前、覚えててくれたんですか。嬉しい。やっぱり本物だ。本物の明石先生だ! わたしにはもう先生しか頼れる人がいないの……ねえ助けて、先生っ」
「もちろんだとも。だからアタシと一緒に行こうね。着いてきてくれる?」
「行きますっ、絶対! あんな家も、お母さんも、みんなみんなどうだっていいです、先生の力になれるなら……わたし、もっと先生のお役に立ちたいんです!」
「そっかそっか。素晴らしいよ。大好き。アタシ、一ノ瀬ちゃんのことが大好きになっちゃった」
「先生……っ、わたしも先生が好きです! ずっと一緒にいたいです……! 先生が傍にいてくれるなら、わたし、何も怖くありません。ねえ、わたしのこと近くに置いてくれますか……?」
「……いいよ。だからアタシから離れないでね」
差し伸べられた手を取る。少し湿った感触の、ひやりとした手のひらが今はわたしにとって唯一のよすがだった。一度だけ、お母さんがいるであろうマンションの部屋のあたりを見やる。ベランダからでもリビングの灯りが点いているのがわかって、なのに名残惜しい気持ちもお母さんに会いたいという思いも湧かなくて、あるのはあの人がどうなろうが別にいいか、という乾いた感情だけだった。それもたぶん、もうすぐ消える。
だって今は先生がいるんだから。先生さえいれば。先生だけがわたしの光だ。それ以外はいらない。何もいらない。どうだっていい。学校の友達も、親も、新浪くんも、誰もかれも。一度諦めがつくと、ふっきれたように心は軽くなって、跳ねて弾んでどこかへふわふわ飛んでゆきそうなくらい、晴れやかな気分になる。みんな、どうせ煩わしいんでしょう、わたしのことなんか。だったらこっちから捨ててやる。捨てられるくらいなら捨ててしまえばいい。わたしにとってはなんの意味も持たない、なんの価値もない、がらくたなんだから。
彼女がここまで乗ってきたというレンタカーに同乗させてもらい、わたしが先導役として例の肝試しをした現場へと向かう。さすがにお金のことが気がかりになって訊ねてみれば、偽物がわたしに迷惑をかけたお詫びとして今回は特別にタダで引き受けてくれるそうだ。なんて慈悲深いひとなんだろう、やっぱりあの針間とかいう連中や偽物とは全然違う。
都内からはちょっと離れているので、行きがけに飲み物と軽食を買って、車内で遅めのランチ兼夕飯を済ませた。先生の運転する車は大きな幹線道路を外れ、道はどんどん細く狭くなっていく。流れていく景色も高層ビルが林立する都会の街並みから閑静な住宅街、そして長閑な田園地帯へと移ろう。夜闇に沈んだ田畑と山並みを等間隔に設置された外灯がぼんやり照らしているが、それも林道へ入ると車窓から眺められるのは、道の周りに広がる鬱蒼とした森林ばかりになる。
近づいている。あの場所に。二ヶ月近くもの間、頭の奥に居座っていた幻聴は現在、耐えがたいほど大きく激しくなっていた。まるでわたしの来訪を阻むかのように。でもせっかく先生がわたしの味方になってくれたんだから、負けるわけにはいかない。無視しようとするが、そのとき背後からぬるりと伸びた、生白い手が肩を掴んだ。
『くるな、くるなくるなくるなくるなくるな──くるな』
そして、まともに見てしまった。車内を反射している窓ガラスに、はっきりと。それは映っていた。半透明に透ける血の気のない頬に、雨に降られでもしたのかボサボサの濡れ髪が張りついており、相貌をぼやけさせる。血走った眼は明らかに、窓越しにわたしと目が合っていた。わたしの背中におぶさるように、ぴったり重なっている「それ」が青紫に変色した唇を開く。
『……さない、ゆるさない、ゆるさない。しねばいい、しねばいいのに、しねよ、しんでしまえ──死ね』
「ねえ今更だけど冷房キツくない? 寒いなら少し温度上げよっか? だいぶ走ったし、まだ目的地手前だけどそろそろ休憩しようか、一ノ瀬ちゃんも疲れちゃったでしょ」
息を呑み、声も出せず、微動だにせず「それ」から目を逸らせずにいたわたしに対し、先生が能天気に話しかけてきた。気づいてないのだ、この異常に。しかも「それ」はもう姿を消していて、ガラスには何も映っていない。先生に恐れをなして逃げたと願いたいが、さすがにそうではないだろう。慌ててわたしは休憩しましょう、と返す。よかった、声はいつも通りに出せた。震えてもいないし掠れてもいない。
野外活動で利用した宿泊施設には広々とした駐車場があるのでそこにひとまず停車し、短い休憩を取ることになった。行く途中にそちらへ伺う旨を先生が連絡していたのもあって、案外スムーズに敷地内へ入れた。本来は一般人の入場を受け入れてないらしいが、はてさて一体どんな手を使ったのやら。
なんとなく誰かから通知が来ていないか気になってしまい、シャットダウンしていたスマートフォンの電源を入れてみる。全部捨てた気になっていても、やはりこれまでの繋がり全てをなかったことにするのは難しかった。SNSには友達からのリプライやメッセージが届いていて、他にも企業からのダイレクトメールやお天気アプリ、ゲームアプリからも色々通知がきている。でも、お母さんからの着信は一切なかった。
送られてきたメッセージそれぞれに返信するか少し迷って、しかし結局やめた。もうわたしには先生がいるんだから、俗世の人間とこれ以上関わり合う必要もない。それに彼ら彼女らがいると、踏ん切りがつかなくなる。覚悟が揺らいでしまう。日常に帰りたくなる。そこがもう自分の居場所ではないと知っていても。ぬるま湯のような地獄に浸ってしまいたくなるから。
「いいの? 返さなくても。これが最後のチャンスかもしれないよ?」
「……いいんです。もう、わたしのものではないですから。わたしはとっくに先生のものです。だから先生の好きにしてください」
「ふうん。本当に? 本当にいいの?」
「ええ。たとえどうされようと、どんなことになろうと後悔はしていません。先生の力になれるなら、先生のお側にいれるなら。なんだって構わない、そう決めたから」
「ふふ、まぶしい。一ノ瀬ちゃん、キラキラしてる。そんなところも大好きよ」
顔の半分がケロイド跡にまみれていても、微笑む彼女はやっぱりとてもとても美しくて。何よりきれいに見えた。このひとになら、何をされたって嬉しい。ああ、ようやくわかった。これが愛なんだ。今までちっともピンとこなかったけど──なんとなく新浪くんに恋している気でいたけど、あんなの所詮まやかしだ。だって今、こんなにも輝かしくて圧倒的で、素晴らしい愛を感じている。愛したい、ううん、愛している。先生のことを。
先生がわたしを愛してくれなくても別にいい。わたしは先生に愛されたいんじゃんない、先生を愛していたい、ただそれだけだ。愛してもらうためじゃなくて、愛したいから愛するんだ。だから、なんでもするし、なんでもされたい。このひとのためならなんでもできる。それが愛ってものなんだろう。今やっとわかった。気づくのに時間がかかってしまったけど、きっとやり直せるはずだ。一方通行なのだとしても、愛には違いないだろう。
車の窓を開け、これからはもう役目を果たすことのないスマートフォンをアスファルトに向かって放り投げる。高校入学を機に買い換えてもらったばかりのそれは、何度か地面をバウンドしながら転がっていった。ばきばきに割れた液晶画面から中の基盤がうっすら覗いており、もう故障していることは誰の目にも明らかだったけれど、不思議ともったいないとか後悔の気持ちは湧いてこない。むしろ、これで全ての人間関係を精算できた気がして、気分は爽快だった。
「……そろそろ現場に行こっか。ここからは徒歩でないと向かえないから、ナビ頼むね」
「わかりました! ……あのっ、手を繋いでもいいですか? 足元、危険だから……先生、ヒールだし」
「やさしいんだね。でも大丈夫よ、こう見えて足腰は鍛えてますから」
コートを翻して颯爽と歩き出す先生はとても格好良くて思わず見惚れてしまう。先に行く彼女が早くおいで、と笑うので置いていかれないよう早足でその背を追って、ちょっと恐れ多いけど隣に並んだ。途中までは道路が舗装されているので歩きやすいけど、ある地点からは山の中に分け入らなくてはならない。ハイキングコースなどとは違う、本物の獣道だ。
外灯はないし枝葉に遮られて月の光も届かないので、先生の懐中電灯で足元を照らしながら、日も落ちた暗闇の中を慎重に進む。夏の盛りだし、本来なら虫の声でうるさいはずなのに、なぜか森の中は水を打ったように静まり返っていた。夜行性の野生動物の鳴き声も聞こえないし、無風なので風が梢を揺らす音もしない。耳に届くのはわたし達の息遣いだけ。
あの白っぽい何かはもう見えないが、引き続き幻聴は聞こえていた。これまでの怨嗟と憎悪だけじゃない、警告にも似た響きの声が耐えず、耳鳴りのように頭蓋の中でわんわんと反響している。一度でもそれに応えてしまったら良くないことになる予感がして、なんとか聞こえない振りを続ける。もうスマートフォンがないから山林に入ってどれくらい経ったか不明だけど、そろそろ着いてもいい頃合なのではなかろうか。
「……ねえっ、そろそろじゃない? あの祠でしょ? 一ノ瀬ちゃんが呪われる原因になったのは」
「ええ、そうです……でも最初に決めたルートでは整備された林道を歩くから、こんな山登りみたいなことはしない予定だったんです。あとで友達と確認したら、わたしが迷い込んでしまった祠と、本来のゴールポイントの祠は全然別物でした」
「異界に招かれた……いや、違うな。実際のルートが使えるかこうして検証してみて可能だったのだから、位相がズレてるわけじゃない。ここはあくまで現実の世界だ。やっぱり普通に迷子になっちゃったんじゃない?」
「そんなわけないです! だって今もっ、変な声は聞こえてるし、さっきも変なのを見たし……」
「変なのって? たとえばどんなの?」
「えっと、白っぽい人影みたいな……いかにもユーレイって感じの。黒髪で、ぞっとするほど肌が白くて、それで」
「ああ、うん。なるほど。一ノ瀬ちゃん、やっぱりそれ、病気かも。頼るのはアタシじゃない。精神科か、ないしはメンタルクリニックかな」
「……は? ……え?」
「いやさあ。おかしいなーとは思ってたんだよね。一ノ瀬ちゃんの言う化け物なんて見えないの。変な声とやらも聞こえないし。針間のやつらはクソッタレぼったくり野郎だけど、インチキじゃない。あいつらは本物だ。本物が問題なしと判断したなら、正真正銘インチキのアタシに何か感じられるわけがない」
「……インチキ? どういうこと?」
「あるわけないでしょ、金儲けのために動画配信なんてやってる人間に霊感なんか。ずっと本物って信じ込んでたから仕方なくノッてあげてたけど」
ケラケラとおかしそうに笑い、芝居がかった仕草で肩を竦める彼女は、一体誰だ。偽物? また偽物なの? 本物の先生はどこにいるの? 嘘だそんなことあるわけない、先生がインチキだなんて、わたしは絶対、信じない。
「ああ、ほら、もう近いね。現場が見えてきた。で、霊障なんて本当に起きてると思う? あなた別に元から霊感持ってるとかじゃないんでしょ、アタシにも当然ないけど。『そういうもの』が本当に居るってことを否定はしない。けど、少なくとも呪われなきゃいけない理由は、今のところアタシにもあなたにも『ない』と断言できるよ。でも百聞は一見にしかず、とよく云うでしょ。現場にでも連れてこなきゃ納得してくれなさそうだから、メンケアも兼ねて一緒に来てもらったけど。どう、これでようやく満足できた? よかったね、化け物の呪いでも祟りでもなく、あなたが単にメンヘラだったって判明して」
一際大きな古木の根元に小さな祠がぽつんとあった。石造りのそれは苔に覆われているが、彼女の言うように別に禍々しいオーラみたいなものが漂っているとかではない。祠にしてもずいぶん小さなつくりだなと感じるだけで、何か悪いものが封じられている、という雰囲気でもない。かつてこの地に住んでいた人達による、素朴な信仰の名残。特別悪いモノでも、さりとて善いモノでもない。
だったら本当にわたしの身には何も起きていないってこと? 二ヶ月近い間一度も鳴り止むことなく脳内で響き続けるこの声も、姿見に映った黒い影も、さっき車窓越しに見えた白い何かも。全部が嘘、全部が虚像、ただの幻聴と幻覚で、全てわたしの脳みそが捻り出した妄想にすぎないってこと。それこそ嘘だ、ありえない。
だって今も、彼女の背後に「それ」は視えているのに。
簾のように垂れ下がる、濡れた黒髪の隙間から、真紅に染まる瞳がこちらを見ている。三日月に裂けた唇から黄ばんだ乱杭歯が覗き、粘ついた唾液が滴り落ちる。酸化した血で黒ずんだ爪が彼女の肩を強く握りしめ、この世のものとは思えぬほどにその肌は白く、今にも透けてしまいそうだった。この化け物がわたしの脳みそが作り出した幻影であるなど、どうして信じられようか。
悪意と害意をたっぷり込めた、とびきり厭な笑みを浮かべたそいつは、己の存在に気づいているわたしへ向けて繰り返しのたまう。今すぐ立ち去れ、さもなくばこの女を殺す、と。だけどインチキとわかった今、もうその脅しはなんの意味も持たない。わたしにとって、こいつがどうなろうと、もうどうでもいいのだから。
「本当に、インチキ霊媒師なんですね、あなた」
「ごめんね、騙して。ついでにバラすと偽物ってのも嘘だよ。あの日会議室に来たのもアタシ。知り合いの術師から呪物のテスターになってくれないかって依頼が来たんだけど、一目でヤバい代物ってわかったから誰かに押しつけたくって。色々とちょうどよかったの、あなたが」
「全部、全て、何もかも嘘だったってこと……? じゃあ本当のことって、なんなんですか。先生は一体、何なら真実なんですか」
「真実ぅ? 面白いこと言うね、そんなのどうだってよくない? 別に、何が嘘で何が本当かなんて、あなたに何も関係ないでしょ。アタシはただ、対価としてエンターテインメントを提供してるだけ」
ペリペリと顔面の半分を醜く覆っていた、ケロイド状の傷跡を精巧に再現した特殊マスクを彼女はひっぺがした。現れるのは、額から顎先へと走る刀傷の痕。何もかもが薄っぺらな虚構でできた先生の、たぶん唯一の「本当」が、あの傷跡なのだろう。でも、もうそんなの興味はない。何が本当なのか何が嘘なのか、彼女が言うように、ことここへ至っては明らかにすべき理由なんてない。
「……あなたがわたしを助けてくれないことはもう充分理解りました。だから、終わりにしましょう」
「あら、そう。アタシも金にならない案件にこれ以上時間を割くのは面倒だから助かるけど。最後に一つ、あの魔導符がどうなったかだけでも教えてもわないと」
「バラバラになりましたよ。纏さんが壊しちゃいましたから。……でも」
わたしは上着のポケットに入れっぱなしにしていた「それ」を掲げた。本体は残念ながら回収できなかった。曲輪さんが浄化してから処分するといってどこかへ持っていってしまったから。でも遺骸を包んでいた御守り袋はそのままだったから、こっそり持ってきていた。何かに使えるかも、という勘が働いたからでもあったし、もし偽物に出くわしたら、ちょうどいいからこっそり押しつけてやろうと企んでもいた。
彼女にとっては見覚えのありすぎるであろう、真ん中から真っ二つに裂けた薄汚れた袋を見つめ、先生はさっと顔色を変えた。やはりわたしの勘は正しかった。想像通り、これだけでも威力は充分見込めるのだ。おそらく人間一人を呪殺する程度なら余裕といえるほどには。先生の背後でケラケラと嗤うそいつは嬉しそうに楽しそうに、実に無邪気に、そして無慈悲に真っ黒な爪の先を頸動脈へと抉り込ませた。
「ぅ、ぐ……何、これ、痛、ぃぎ、痛い痛い痛い痛い痛、いやっ……死にたくない死にたくない死にたくない、助けっ……ぁ、あ! っ! !! ──!」
鋭く尖った乱杭歯が女の首を噛み砕き、噴出する鮮血が着ていた服を赤く濡らす。化け物が人間の血管や喉の筋肉を齧り、咀嚼する聞くに耐えない音が無音の森にこだました。滴った返り血が足元の土へ吸い込まれ、ついに自力で立っていられなくなった彼女は膝から崩れ落ちた。絶叫を轟かせることすらできず、女は白目を剥いて絶命する。ただの斬首ではなく、頚椎ごと首自体を食い尽くされて殺される苦痛はいかばかりか。
たった今人間一人を食い殺したその化け物は、チラリとわたしを見やると興味をなくしたように森の奥へと消えてゆく。人を呪わば穴二つ、なんて聞くけれど、なんだ、ただのことわざだったんだ。わたしは賭けに勝った。わたしを馬鹿にして、貶めて、カモにしようとした人間を殺してやった。ああ、そういえば呪殺って合法なんだっけ? ってことはわたしが殺したことにもならないわけだ、法的には。つまり悪くない。わたしは何も悪くない。間違っているかもしれないけれど、少なくとも悪じゃない。
死体をどうしようか一頻り悩んで、下手に隠蔽なんかして疑われる材料をつくるより放置した方がいいか、とそのままにして下山を決める。これからどうやって生きていこうか、期待に胸がふくらんだ。今までの生活に愛着なんてなかったんだって、家族も友人もどうだってよくて眼中になかったんだって、気づいたことでやっとまともに息ができるようになった。そうだ、今まで苦しかった。ずっと苦しかったんだ、わたしは。
勉強して授業を受けて友達とくだらないお喋りをして母親の顔色をうかがって面倒な家事を手伝って休日にはたまに遊んで。そんな日常が、癪に障って仕方なかった。それはわたしが欲しかったものじゃない。しょうもない、くだらない、どうでもいい、要らない。何も要らない。そんなのちっとも欲しくない。ああ、解放された、わたしは自由だ。要らないもの全てを捨てられた、わたしは今、人生で一番満たされている。
山を下って先生の借りてきたレンタカーまで戻ると、助手席には撮影機材やら着替えを詰めたバッグやら色々な荷物が置きっぱなしにされていた。その中にはタブレットやノートPCもある。あんまり期待せずにスリープモードを解除すると、不用心なことにパスワードがかけられていなかった。人から恨みを買うような真似をしておいて、個人情報の塊みたいな精密機器の扱いが雑なんてちょっと笑える。こっちは助かるからいいけど。
案の定クラウドに保存されているデータも覗き放題だった。スマホとパソコンを同じアカウントを連携させている関係上、クラウド経由でスマホ内のメモ帳や写真フォルダの中身も見れてしまう。ブラウザのパスワードマネージャーを開せば、どのサイトのどのアカウントを何のパスワードでログインしているかまで確認できてしまった。クレジットカードの暗証番号をメモ帳に残してあるなんて、不用心を通り越してただの馬鹿なんじゃないだろうか。まあ、普通は自分が殺された上に成り代わられるなんて思いつきもしないか。
ほとんど服のサイズが同じなので着替えを拝借し、空っぽのバッグに財布とPCとタブレットだけしまってレンタカーを出る。どうせ運転できないし、事故を起こすよりはここから電車かバスを乗り継いで移動する方がいい。さあこれからどこへ行こう、何をしよう。選択肢が無限にあるってとても素敵だ。鼻歌でも歌いたい気持ちで歩くリズムも軽やかに、来た道を戻っていく。でも、そんな人生最高の気分を台無しにする人間が現れた。
「……逃がすかよ」
「しつこい男って嫌われるよ、針間勇次郎くん」
肩にかかる無造作に伸びきった黒髪に、猛禽の瞳。額から伝う汗の雫すら美貌を飾るオプションにしかなり得ないのだから、イケメンというのは何もかもが得にできているものだとつい感心してしまうほど。生まれからして恵まれている彼のような生き物に、わたしの苦しみなんてはなから理解できるわけもないだろう。
「お前、殺したな、あの女を」
「……人聞きの悪いこと言わないでくれる? あの人が勝手に死んだだけだよ。わたしが好き好んで人を呪い殺すような人間にみえる?」
「人間殺すのさえ他人任せにするような、怠惰な他力本願女には見えるけどな」
「だから、殺してないってば。ありもしない罪をでっち上げないで」
「でも死んだんだろう。視りゃわかるんだよ。お前の言う通り直接手にかけなかったにしろ、少なくとも殺す気はあった。殺意がなかったとは言わせねえ。でなければ、お前の後ろに『そいつ』がいるわけがねえだろ」
「……まさか、いるの? 先生が、わたしの傍に」
「ああ、居るぞ。視せてやろうか?」
口角をつり上げ、彼は強引にわたしの手を取った。握手というより互いの手のひらを密着させるという方が正しいような、わたしの手を折り砕かんばかりの力を加えられ、思わず痛みに顔を顰める。体温とも違う熱が皮膚越しに伝わり、視界はより鮮明になる。瞬間、ぞく、と背筋に厭な寒気が走った。振り返りたくない、いやだ、見たくない、だけど操られたみたいにわたしは背後を「見た」──いる、彼女が、笑って、わたしのうしろに。
首元のほとんどが噛みちぎられて残ってない、文字通り首の皮一枚だけでかろうじて繋がっているような、悲惨で見苦しい死体のなりをして。ニタニタと嗤うその顔はただおぞましく、ついさっきまで生きてわたしと会話していたとは微塵も思えない。なんて化け物に成り下がってしまったのか、あるいはわたしが彼女を醜悪な怪物に仕立ててしまったのか。
明石照日なる名前を持っていた、元は同じ人間だったはずの異形を視ても、もう心は凪のように何も感じられなくなっていた。恐怖も、罪悪感も、何も。哀れだとすら思えない。ただ、こんな姿になってまで、わたしにまとわりつく彼女が、たとえようもなく愚かで醜いな、としか。
「本当、馬鹿ですね。先生。わたしを呪ったって、恨んだって意味ないのに。遅かれ早かれあなたはそのうち殺されてた。殺されても仕方ないことしたんだから、甘んじて受け入れなよ。わたしを逆恨みするなんて筋違いだよ。だって、わたし、なんにも悪くないんだもん」
青年の手を無理やり振りほどき、荷物を肩に担いで再び歩き出す。もう彼に用はない。この女がわたしに取り憑いているとしとも、それすら些事でしかない。どうせこいつは何もできない。死んでも死にきれなくて化け物になったって、わたしを殺すことなんか。ああ、いや、使い道なら他にもあるか。纏さんに曲輪さんがいるみたいに。
「おい! 待てよ……っ、一ノ瀬奏音!」
「覚えててくれたんだ。わたしの名前。でもそれ、もう使わないからきみにあげる。どうせ要らないだろうけど。今からはわたしは──明石照日だ」
背後から悔しそうな唸り声が聞こえている。わたしの首にかかる手が肌を引っ掻こうとしている。けれど、その爪はわたしに直接触れられない。殺してやりたい相手を殺せず、ただ付きまとうことしかできないその口惜しさはどんなものだろう。想像してみるだけで笑えてしょうがなかった。ユーレイになっても無力だなんて、本当に可哀想だ。
途中でコンビニに寄って封筒とボールペンを買う。なんとなく持ったままになっていた魔導符とやらの袋を詰めてレジで切手を購入し貼り付けると、宛名と住所にミスがないことを確認してから、近くのポストに投函する。明日かそれとも明後日か、いずれは自宅にあれが届くだろう。楽しみだ、お母さんだった人に災いが降りかかるのが。なんの罪もない郵便屋さんまで巻き込んじゃうのは、ほんのちょっとしのびないけど。
さて、次は何をしよう。何をやろう。わたしの人生はたった今、始まったばっかりなんだから。