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くらやみの眸④
あらすじ
やんごとなき事情から、とある「アルバイト」をクビになってしまった少年、七種翠はある日、同級生の針間勇次郎から頼まれ事を持ちかけられる。それは、翠のアルバイトに携わってもいた謎の人物「センパイ」を捜すのに協力してほしい、というものだった。報酬目当てに二つ返事で引き受けた彼だったが、予想もしない恐ろしい出来事へと次第に巻き込まれていく。
本文
夏休みというのは貧乏人にとって唯一といっていい稼ぎ時だ。学校がないというだけで使える時間が大幅に増えるんだから、その間をバイトに回さないのは損ってもんだ。隣町の金持ち進学校に親金で通ってるようなボンボンのガキどもにはわからんだろうが、おぜぜが無けりゃ人間は生きていけねえ。本当は高校だって別に行きたくなかったし、行くにしても定時か単位制を希望していた。
余計な気を回した中学時代の担任が、全日制の方南へ願書を出すよう強引に勧めてきたので仕方なく入試を受けた。あそこは名前さえ書ければどんなバカでも入れる都内最底辺なので、おおかた受け持ちのガキを定時やフリースクール行きにして評価を下げたくない、教員連中のための受け皿ってやつなんだろう。よく知らないけど。そんなわけで嫌々通うことになった高校だったが、最初の頃はまともに出席していなかった。
というのもその頃は「センパイ」のツテでありつけたバイトが忙しくて授業を受けるどころじゃなかったからだ。シンプルにノルマがキツイし下調べとか事前準備にも時間も手間もかかる。それでも万引きやカツアゲよりは稼げるし、何よりアシがつきにくいというのは魅力的だ。金は欲しいが前科は要らない。これが放火や殺人なら箔もつくが特殊詐欺の受け子なんかムショでもただの世間知らずのマヌケとしてナメられるのがオチだ。
けど、割のいいバイトだったその仕事はなくなった。あれ以来「センパイ」とも連絡がつかなくなったので詳細は何も知らない。ただ何か良くないことが起きたのは明らかだった。今更コンビニやファミレスでチマチマ稼ぐのも性にあわないし、そもそも方南のガキというだけで大抵の職場は受け入れてくれない。暇を持て余し、最近は真面目に学校へ行くようになった。
──針間勇次郎とは、その頃に知り合った。同じクラスだから前から顔は見知っていたが、まるで雰囲気が違っていたので、しばらくはそいつが針間だと気づかなかったのだ。入学当初から、そいつは同学年の間で目立っていた。だってみんな一応、初めのうちは空気読んで髪を黒染めしてたりとまだそんなにヤンチャはしないものだろう。でも針間は根元から毛先まで真っ金金のド金髪で、制服じゃなくて堂々と私服で出席していた。
うわあとんでもないヤカラが来たな、って誰もがヒソヒソしていたのを覚えている。一年のくせに上背は既にかなりあって、態度もデカけりゃ身体もデカイんだから、そりゃ怖がられるし敬遠される。しかも本人はちっとも気にしてないみたいだった。偶然針間と同中だったっていうやつがいて、そいつ曰く隣町の進学校を元々志望していた秀才君だって話じゃねえか。行き場がなくてここへ追いやられた俺らと違う生き物ってわけだ。
なんで勉強のできるちゃんとした家のやつがこんなとこへわざわざ入学したのか分からなくて、みんな遠巻きに眺めているだけだった。たぶんアイツとまともに絡みがあるのは、隣のクラスの女子生徒二人組だけだと思う。まあ片割れは相方にくっついてるだけで、実際に針間とやり取りしているのはもう片方の女子だけだけど。かく言う俺だって最初はアイツと全く関わるつもりはなかったんだけどな。事情が変わったのは、前述の通り「センパイ」経由で回ってきてたバイトが立ち消えになったからだった。
やることもないし暇だししょうがなく学校へちゃんと通うようになったとはいえ正直勉強する気なんかないし、もっぱら授業をサボって体育館裏で昼寝するか、学生食堂で同じクラスのやつと駄弁るかだった。元々出席率なんかあってないようなもんだし、大半のクラスメイトは学校にすら来てない有様なので、俺らが校内でバカ騒ぎしていてもいちいち咎めるやつはいない。担任のババア教師なんか外で生徒がタバコ買っていようが万引きしてようが見て見ぬふりするタイプだしな。
そこへ声をかけてきたのがアイツ、針間勇次郎だった。ド派手な金髪はもうやめていて、ちゃんと髪の毛は黒くなってたから、話しかけられた時点ではそいつが針間って気づかなかったけど。目つき悪いからイケメンって思われてないけど顔は悪くないし、制服着てたから尚更フツーの高校生にみえた。少なくとも同じ学校の人間には見えない。
「お前、七種っていったよな。確か」
「そうだけど……俺になんか用?」
「仕事の依頼をしに来た。今から時間は空いてるか」
「仕事ォ? なんの? てかなんで俺?」
「お前の『センパイ』絡みだよ、詳しくはここじゃ話せねえから後で説明する。これオレの連絡先」
渡されたのは手書きでメールアドレスを記した付箋だった。LINEとかやってねえの、と尋ねると、お前は客先にいちいち個人的な連絡先を求めるのか、と胡乱げな眼差しで訊き返されたので、それ以上突っ込むのも面倒でやめた。実際、別に針間とプライベートで話したいこともなかったからな。
メールでどうやって連絡すればいいかわかんなかったからやり方を針間に教えてもらい、ついでに俺の連絡先も教えてやるとアイツはさっさと立ち去っていった。マジで俺と連絡先を交換するためだけにわざわざ来たらしい。さっそく届いたメールの本文には、日時と待ち合わせ場所だけ書かれており、肝心の仕事内容は伏せられていた。
一連のやり取りを見てたクラスメイトから矢継ぎ早に質問が飛んでくる。入学式に金髪私服で参加した奴って針間は有名人だったし、俺はバイトで学校に居なかったから知らなかったけど、聞けばアイツはかなり派手に暴れており同級生どころか先輩や他校のやつとも喧嘩しまくっていたらしい──とかなんとか。あれだ、不良とかヤンキーってやつだ。こわ。てか今どきそんなやついるのか。とっくに絶滅したかと思ってたよ。
でもまともに会話したの初めてだし、質問に答えられることなんかほぼなかった。するとみんな針間の話題に飽きてきて話の流れは好みの女とか猥談になっていった。ぶっちゃけそういう話に興味ないし、針間との約束もあったから、下校時間はまだ先だったけど先に帰ることにした。というのも針間からは追加でメールが来ており、待ち合わせ場所で待ってるって連絡を受けていたからだ。
商談場所として指定されたのは、学校から歩いて程近いアーケード街の中にある喫茶店だった。昔ながらの純喫茶ってやつで、この辺りに住んでるジジババ共のたまり場になっている。値段も手頃だし味も美味いけど、あんまり学生が利用している様子はなかった。だが、たった今その理由がわかった。針間の縄張りだからだ。こぢんまりした店内はガランとしていて、やけに古い時代のジャズが流れている。店主の趣味だろうか。
先に来ていた針間は奥のボックス席に腰掛けていて、卓上には既に二人分の飲み物が置かれている。アイツの分はアイスコーヒーで俺のはカフェオレだった。いい年こいてブラック飲めないなんて恥ずかしいから誰にも言ったことないのに、よく気づいてたな。
向かいの席につき、メニュー表を持ってきた八十過ぎくらいのばあさんに追加注文する。自分で金払うなら絶対追加なんか頼まないけどどうせ人の金だ、せっかくだし夕飯要らないくらい腹いっぱい詰め込んでやろうっていう算段だ。しばらくして、オーダーしたカツサンドとナポリタンが運ばれてきたタイミングで針間が口を開いた。
「お前、つい最近バイト一件飛ばれたろ」
「……なんでそれを関係ないテメーが知ってんだよ」
「その件に関わってんのがオレの身内だからだ。針間纏、聞いたことないか?」
「……ああ。確かブラックリストに入ってるやつじゃね? 『センパイ』が気をつけろって言ってたな、仕事の邪魔んなるから出くわしたら最優先で消せって」
「うーわ、その『センパイ』ってやつ、すげえ無茶ぶりするじゃねえか。素人にあいつが殺れるかよ。うちの業界であのクソ野郎に太刀打ちできるのなんか、同じ針間にも居ねえのによ」
「……なんかよく知らんけどヤバいやつなんだな、お前の兄ちゃん」
「オレ今、あいつのこと兄貴って言ったっけ?」
「言われんでも口調でわかるわ。事情は知らないけど仲悪いんだろ。でなきゃそんな他人行儀な物言いするかよ。で、そのおにーさんがどうしたんだ?」
話は少し戻るが、俺が今まで受けていたバイトっていうのは、とあるサンプルを配って回るって内容だった。サンプルってひと口に言っても様々だし、それに街中でピンサロとかのチラシが入ったポケットティッシュみたいに、無差別にばらまいていいわけでもない。いくつか条件があって、全て満たした相手にだけサンプルを配布していいことになっている。そして捌けた数でノルマが決まり、達成できれば基本給にプラスしてインセンティブが発生するって仕組みだ。
サンプルとやらの具体的な詳細とか、配布していい相手の条件は毎回違うんだけど、回数をこなしていくと大体パターンが見えてくるからノルマを達成するのは難しくなかった。受け取りを拒否されるケースなんて俺が担当した時は一度もなかったし。じゃあそのサンプルがなんなのかっていうのは、ぶっちゃけ説明されてもよくわかんなかった。あんまり気にしてなかったしな。
まあよくある開運をもたらすナントカみたいな胡散臭いアイテムだった。見た目は。大抵は御守りとか天然石のブレスレットみたいなアクセサリーとか古い金貨とか、ごく稀に食いもんもあった。値段も百円とか千円みたいなガキでも買える安物がほとんどで、何万もする代物は滅多にない。まあバイトが勝手にくすねる可能性もあるから、わざと高価なやつは預けなかったんだろうけど。
サンプルを渡せる相手の条件もまちまちなんだが、これも前述の通りパターンがある。ブレスレットなら若い女、食いもんなら独居老人、指輪とかネックレスみたいなサンプルにしちゃちょっといい値段するやつは未婚の男。年齢以外にも性別とか職業とか年収とか色々基準があって、全てクリアしないと渡してはいけないルールになっている。そうなるともう面倒だし、事前に下調べしたり他のバイトくんと情報交換したりして独自に条件別顧客リストを作ったりしてた。
とはいえモノによっちゃ配布先リストみたいなものがあったりもする。要するにお得意さんにしか卸せない特別アイテムってやつだ。これはちょっと厄介だった。普段は前の仕事で知り合った顔なじみとか自前の顧客リストを見て営業をかけられるけど、お得意さんの場合はいちいち相手のとこにアポ取って会いに行かなきゃいけないからだ。最後の仕事がまさにそれだった。
あのときは、珍しく俺らバイト連中に高額サンプルが配布リストと一緒に自宅まで送られてきたので、よく覚えている。それぞれ一つずつ厳重に梱包されていたから中身までは知らない。こういうのもそんなに珍しいことじゃなくて、たまに袋詰めされていたり箱入りだったり、外から見えないよう工夫された品物はある。でもそれは、なんかさすがに厳重すぎないか、と疑問に思うくらい一つ一つが丁寧にパッケージングされていた。
というのも高いお菓子みたいな厚紙の箱じゃなくて、指輪とかアクセサリーをしまっとくやつみたいな、いかにも高いですよって感じの綺麗な箱に収まっていたからだ。アクセサリー系は基本むき出しだから、あれはもしかして材質もプラスチックとかじゃない、本物の宝石で出来ていたのかも。この場合、いついつ誰がどこにサンプルを持って行きますよって先方に連絡がいってることがほとんどだから、こっそりくすねようとは思わなかった。
万が一傷をつけてクレーム騒ぎになっても困るし、テキトーに安いキャリーバッグを買って中に詰めてからリスト先のお得意さんのところへ配って回った。ほとんどが大企業の重役とか政治家とか芸能人とか、金持ちの偉いおじさん連中で、指定された送り先も本人所有のマンションや滞在中のホテルばっかりだった。交通費も出るし、面倒だからタクシーを乗り回して一軒ずつ巡っていったけど、それでもまあまあ大変だったと記憶している。
……それで終わり。次の日給料とタクシー代がまとめて振り込まれてきて、それ以来仕事の連絡は一切来ないまんまだ。物品を配り歩くだけの簡単な、それなりに割のいいバイトだったから無くなったのは残念だけど、特殊詐欺の受け子みたいな誰が見ても地雷ってわかるようなやつじゃないとはいえ──もしかしたら「ヤバい」仕事だったのかもしれない。針間の様子からして。
「そんで俺に頼みたい仕事ってなんだよ。条件によっちゃ受けてやってもいいけどさ」
「お前、まだその『センパイ』と連絡取れるか?」
「……いいや。何度か電話とかかけてみたんだけどさあ、ああいうのってどうせ飛ばしだろ? 不通のまんまだよ。まあ今頃なんも知らないフツーのやつに同じ番号が割り当てられてっかもしんねーけどな」
「そっか、まあ期待はすんなって言われてたけど、そうなると手がかりゼロだな……まあいい、お前にやってもらいてえのは、その『センパイ』の捜索だ」
「はあ? なんで。つーか俺、あの人のことなんかなんも知らねえよ? やり取りも基本メッセだし、入れろって言われたアプリも履歴とか一切残んないやつだし、てか顔も見たことねえし」
「……顔を見たことがない? じゃあ対面したことは一度もないのか」
「ねえよ。どこ住みとか性別とか、なんも知らん。番号を教えてもらった時に一回だけ口利いたけど、ボイチェンかなんか噛ませてんのか、声じゃ全然男か女か若いか年いってんのかも判別つかなかったな」
そもそも「センパイ」っていうのもただのニックネームっていうか、仕事の連絡用に入れさせられたアプリ上で確認できるハンドルネームみたいなやつで、別に本人が「センパイ」を自称していたわけでもない。俺が勝手にセンパイって呼んでただけだ。
配布先が多くて手分けしなきゃいけないときとか、たまたま配布条件が被ったりして手伝ってもらったりして、仲良くなった同じバイトくんは数人いるけど、たぶんあいつらも「センパイ」のことは何も知らない気がする。それに「センパイ」との繋がりが切れた時点で、他のバイト連中とも関係はとっくに解消済みだ。
結局は金目当てに寄せ集められただけなので、横の繋がりも何もないのだ。自分達は何か危ないことに首を突っ込んでいるのかも、という自覚がなかったわけじゃない。でも普通に働いたんじゃ稼げない額の金に目がくらんで、前科者になるかもってリスクから目を逸らした。いるかもしれない被害者を見て見ぬふりした。全部、想像だ。何も危ないことのない、合法でクリーンなバイトだったらいいとは思う。けど、そしたら針間はわざわざ絡みのない俺のところに声なんかかけてこないだろ。
俺は別に被害者じゃない。でも、きっと加害者ではあるんだと思う。だから騙されたとか、負の感情はあまり湧いてこない。世間知らずの馬鹿なガキが、狡猾でズル賢い大人に言いように使われたってだけだ。まあ、よくあることだ。俺がただ愚か者だったってだけの。だったらツケは支払わないといけないだろう。それくらいはどんなアホでもさすがに理解できる。
「……わかった。受けるよ。別に報酬もなくていい。どうせバイトなくなってヒマしてたとこだし」
「ずいぶんしおらしいな? 同じクラスのやつから、素行不良の短気なやつだから気ィつけろよって忠告されてたし、最悪拳で言うこと聞かすしかねえかなって覚悟してたんだけど」
「え、それ俺のセリフなんだけど。むしろ怖がられてんのお前じゃね? 他校のやつとかうちの先輩連中とかシメたんだって? あれってガチなの?」
「ガセに決まってんだろ。なんで素人相手に本気でボコらなきゃいけないんだよ。それより、いくらお前本人からの申し出とはいえ無報酬ってのはオレの信条に悖る。元はといえばあのバカが原因なんだし、新しいバイト先くらいは紹介してやる。それで手打ちってことでいいか」
「まー別にそんでもいいけど。で、なんで『センパイ』を捜してんの? あの人の何をそんな知りたいわけ? なんかされたとか?」
「……まあ、個人的な確執がないとは言えない。が、これも一応オレの仕事の範疇というか。気は進まないが、あいつのところに、その『センパイ』とやらを連れて行かなきゃならねえんだよ」
針間の言う「あいつ」とやらはおそらく、あまり仲が良くないらしい兄貴とかいうやつのことだろうか。百匹くらいまとめて苦虫を噛み潰したような顔をしているところを見るに、心底兄貴が嫌いなんだろう。俺は一人っ子なので兄弟がいるやつの気持ちなんて分からないけど、相性の悪い人間が身内にいるって大変そうだなと他人事ながらちょっと同情した。
針間は針間で何かしら仕事をしているらしい。それがどういう類のものかは分からないが、「センパイ」の捕獲が目的ならそう悪いものでもないんだろう。俺が請け負っていたバイトよりは遥かにマシそうだ。半グレ連中と付き合いのあった俺なんかが言えることではないが、何やら危険そうだが針間みたいな普通のやつが首を突っ込んでも大丈夫なんだろうか。
「引き受けたからにゃ仕事はちゃんとやるけどさあ、まじでオレあの人の個人情報とかなーんも知らないんだよね。捜すったって、ヒントもなんもないんじゃなあ……なあ、なんか知ってそうなやつに心当たりとかねえの?」
「あったらお前に声かけてねえよ。ていうかお前なら知ってるかもって踏んで話を持ちかけてんだこっちは。とんだ誤算だ。あー、いや、一人だけ居ないこともない、けど。オレと取引してくれるか怪しいんだよな」
「ふーん。ダメ元でもいいからお願いしてみれば? そういうのって条件次第だろ。金とか情報とか、差し出せるものがあれば案外話は聞いてくれるんじゃねえか?」
「……わかった。ちょっと待ってろ」
言いつつ針間は自分のスマートフォンで誰かにメッセージを送ったみたいだった。しばらくして返事が届いたらしく、難しい顔をして画面とにらめっこしている。行儀悪いけど内容が気になり、身を乗り出して覗いてみた。長ったらしい緑色のフキダシの下に、簡素な文面が続いている。キッパリ断られてしまったみたいで、交渉ごとのヘタクソさについ含み笑いがもれた。
「なんだよ。覗き見はマナー違反だぞ」
「だってよお、そんなつっけんどんな物言いじゃ、そりゃ断られるって。お前交渉下手だな。俺相手にもやけに偉そうだったしさ、あんなんじゃ誰ともやってけねーぞ」
「う。しょうがねえだろ、この仕事始めてまだ二ヶ月とかだぞ。新米に無茶言うな」
「……仕事って、そういやなんの仕事してんの? どうせフツーのバイトじゃねえんだろ? あ、わかった。ヤクザの使いっ走りとか?」
「ンなわけあるか! ……あんま外で口にすんなよ。すげー簡単に言えばバケモン退治だ。オバケとかユーレイとか、そういう人じゃないモノをどうにかすんのがオレらの仕事。あいつ──纏も同じ仕事してる。だから『センパイ』とかいうのをあいつのとこに持ってかなきゃならない」
「バケモン退治ィ? ……妄想とか、そういう設定ってのじゃなく?」
「……これだから視えない人間にこっち側の事情を詳しく話したくねえんだよ。どうせ信じてもらえないから。別に嘘だと思いたきゃそれでいい。訂正してやる義理もない。けど、幻覚幻聴じゃなくて『そういうの』は確かに、間違いなく、疑いようもなくこの世に『いる』ってのだけは言っとく」
針間の言う「バケモン退治の仕事」を頭からまるきり信じ込んだわけじゃないが、かといい難癖つけて論破したいつもりもないのでそこは適当にわかったよ、といなした。不機嫌になられても宥めるのが面倒だから、というのが大きかったが、とりあえずはそれでよしとしたようだ。針間は話を続ける。
「つまり『センパイ』はそっちの業界でなんかやらかした目をつけられてる、って認識でいいわけ?」
「まあそんなとこ。お前らバイトが配ってたモン、あるだろ。あれが原因。あのサンプルな、ある手順で使うと人を呪い殺す凶器になるんだ。もちろん全部が全部『そう』ってんじゃないが、やけにパケの厳重なやつ、あったろ。箱入りとかの。あれが特にヤバい呪物で、グラム単価で何百万って価格だ。とにかく効果がハンパじゃねえ。だから高値で取引される。お前らを雇ってた『センパイ』は、呪物を一般人に卸す売人だ」
……それで全ての疑問が解けた。実は、サンプルと称したそれら物品にはそれぞれ扱い方が指定されており、徹底するよう指示されていた。特に保管方法はかなりうるさく言われていた。たとえば同じ場所にまとめて置かず、一つ一つ仕切りを作っておくとか。アクセサリー系なら雑に置かないで専用のケースにしまうとか。
まあ傷とか汚れがついたらいけないしな、と思って指示自体には納得していたが、中には変な指定もあった。保管場所に自分の髪の毛や爪など、身体の一部が少しでもあってはいけないというものだ。他にも物品を運び出す際は、その前に必ずシャワーを浴びて全身をくまなく洗い終えたあと水浴びしなけりゃならないとか。
必要経費は請求すれば後でもらえるから、わざわざ貸倉庫やトランクルームをレンタルして送られてきたサンプルは全て保存していた。その場合も、同じ場所に複数の物品をまとめ置くのは厳禁なのでモノごとにバラして保管したりとか、結構扱いには苦労させられた覚えがある。人間を呪い殺すための道具というなら、妙な指示にも頷ける。あれはアシをつきにくいように、無関係な人間を巻き込まないための対策だった。
でも、そもそもなんでそんな呪物とかいうのを安値で配る必要があったんだろうか。世の中、誰のことも憎くない嫌ってないやつなんていない。みんな人間関係に悩んで、苦しんで、嫌いな人間に対して鬱憤をためて、時には殺意を抱いているものだ。でも大抵は生活があって、家族や職場や学校みたいに居場所があって、殺しをためらうような理由やセーフティがある。あるいは単に捕まったあとのことを考えてやらないだけだ。
でもそういうストッパーが何もない人間だっている。どこにも思い入れも未練もない、誰のことも大切じゃない、守りたいものなんか何もない、ないない尽くしの人間。つまり俺だ。俗にいう無敵の人ってやつ。誰かを殺す上で、なんの障壁も持たない、人を殺したくならない気持ちなんてない人間ってのはいる。怖くないんだ、生まれつき。だってなんにも大事じゃない、どうでもいいから。
どうでもいい。そう、ただ本当にどうでもいいだけ。親がいきなり泡吹いて死んだとしても、家が火事で消し炭になったとしても、学校を退学になっても、捕まってムショになっても。そういう、身に起こる全てに興味がなくて、考えが及ばなくて、関心が持てないような。ああいや、捕まるのだけはやっぱり嫌だな。知らないやつと共同生活なんか想像しただけで虫唾が走る。
ともかく、俺は空っぽの人間だ。何かを好きになったり夢中になったりした経験なんかない。強いて言えば金は大好きだ。世の中、金があると大概の無茶は利く。無理が押し通せる。金ってのは力だ。俺は力が欲しかった。力を得て何かがしたい、っていうほどじゃない。単純に無力でいることに嫌気が差しただけ。けど、そういうのはこいつみたいな綺麗な世界に生きてきた人間からすりゃ、ちっとも「まとも」じゃないんだろ。
じゃあ「まとも」でいることの、俺に対するメリットはなんだ? 俺が「まとも」でないことで、俺にとってのデメリットなんか何もないだろ。普通の人間が喜ぶような、利口なガキでいることになんの意味がある。俺が更生しようがそのまま惨めにくたばろうが、誰も関心なんか持たないくせに。俺が誰のことも大切じゃないように、俺が大切なやつなんていない。だったら好きに生きていく方がなんぼかマシってもんだろう。
被害者になりたくなかった。被害者ってのは無力な人間のアイコンだ。惨めで情けなくて何もできない被害者にされるくらいなら、加害者になることを選ぶ。そうやって今まで生きてきた。今更生き方を変えられるとも思わない。だけど人を傷つけて、苦しめることを喜べるような、そんな強い人間にもなれなかった。優しくはなれない。俺に優しさはない。だけど強くもない。
「ところで、お前は『センパイ』を捕まえてどうすんだ? 殺すのか?」
「バカ。そんな物騒な真似するか。裁定すんのはオレの兄だ。この件はあいつが仕切ってるからな、身内つってもペーペーの下っ端だから、こんなパシリみたいな仕事しか回ってこねえわけ。あーあ、早く偉くなってあいつを見下せるようになりたいよ」
「なんだ、殺さないのか。つーか、その兄ちゃんだっけ、そいつが本来捜索すべきなんじゃねえの?」
「だよなー!? 普通そう思うだろ!? ところが術師界隈ってのは強いやつが一番偉いの。あいつが一番強い以上、一番偉いのもあいつ。だからあのクソバカ兄の言うことに従わないといけないんだよ、じゃなきゃ干されるし最悪消される」
よっぽど針間は纏とかいうあんちゃんのことが嫌いでたまらないらしい。一体何されたんだか。ただ反骨心が強そうなこいつが嫌いな兄の命令には一応素直に従うのも謎だ。何か弱味でも握られているんだろうか。でも怯えているふうには見えないし、兄本人のいないところとはいえ盛大に本音をぶちまけているあたり、確執とかいうのも実は大したことはないのかも。
まあ、とりあえず針間兄弟のめんどくさそうな関係はさておき、問題はどうやって「センパイ」の居所を探り当てるかだ。売人とやらについて詳しい人間がいるというなら、そいつに訊くのが手っ取り早い。針間本人のメッセージじゃすげなく断られたみたいなので、端末を横から奪って俺が考えた文面を作成し、再度送信する。すると今度はいくつか日程が提示され、いつなら打ち合わせできるかと質問が返ってきた。
思ったよりは話の通じそうな相手にホッとしつつ、針間から空いているスケジュールを聞き出し、最初の打ち合わせ日時を抑える。向こうも慌てて時間を作ったとみえ、最も近い日付は三日後の休日午後という時間帯だった。針間が直接やり取りするより遥かに反応がいい先方の様子に、携帯を奪われたままの本人は目を白黒させている。
「……あの人、気難しいので有名なのに。どんな手使ったんだ? お前すげーな」
「あー? あれくらいフツーだろ、フツー。それより当日は時間空けとけよ、俺も同席してやるから」
「おお、頼む……っと、悪い、幼なじみから連絡きてた。今から顔見に行かないといけないから、すまんが今日はこれで解散だ」
「はいよ。じゃあここの支払いよろしくな、俺もう先行くから」
「え? いつの間にオレが奢ることになってんの? まあいいけど」
釈然としない様子の針間を放置し、先に席を立つ。思っていたより長居しすぎたらしく、外はもう夕暮れだった。日が落ちるとここらは一気に人通りが減って物騒になる。喧嘩の心得があるならまだマシだが、そうじゃないならカツアゲやら何やらの被害に遭いやすくなるので、とっとと退散しないとまずい。
だが、こういう時に限って面倒なものを見つける羽目になるのが人生のままならなさってやつだろうか。アーケードの隅で明らかに男子高校生っぽい集団に絡まれている二人組の女子生徒が視界に入り込む。俺達は頭が悪いですって看板でもぶら下げてんのか、と思うくらい治安の悪いファッションに身を包み、数人で取り囲んで逃げ場をなくしている。
男らの輪の中にいる彼女達には見覚えがあった。たまにクラスへ遊びに来ている、というか針間のやつにちょっかいをかけている女子とその相方だ。肩にも届かないくらい短い黒髪に野暮ったい丸眼鏡をかけ、うちの学校のやつにしては珍しいくらいきちんと制服を着こなしている。化粧っ気のない素朴な顔立ちはすっかり青ざめていた。
一方で、彼女の隣にいる女の子はカーディガンのポケットに手を突っ込んで平然としている。緩くウェーブのかかった肩までの金髪に派手なメイク、パンツが見えるんじゃないかというくらい短いスカート、極めつけは蹴り一つで並の男ならノックダウンさせられそうな、凶悪なデザインの厚底ブーツ。ビビり上がっている黒髪と違い、かったるそうな顔をしていた。
別にほっといてこのまま通り過ぎてもいいけど、ここで二人を助けて針間に恩を売るのも悪くないな、とひらめく。問題はどうやって助けるかだ。生憎と俺はお世辞にも体格が恵まれているとは言えないし、バックにヤクザとかボス格の不良がついてもいない。純粋な暴力も、傘に着られる権力もないならどうするか。
答えは単純で、脚力と走力にものを言わせるしかなかった。二人の腕を強引に引いて後ろへ下がらせ、そのまま反対の方向へ向かって猛ダッシュする。呆気に取られて対応がワンテンポ遅れる連中をどうにか出し抜き、必死に走った。向こうもわざわざ追いかけようとまでは思わなかったのか、特に追っ手がくる様子もない。
数分ほど細い路地を駆け抜けて、ようやく最寄り駅に着いた。俺も黒髪の子も全力疾走したせいで完全にバテて息が上がっているというのに、汗一つかかずケロッとした顔で膝をガクガクさせている俺らを見下ろしている。もしかして余計なお世話だったんじゃないか? ほっといてもどうにかなったのでは?
お人好しの真似なんかするんじゃなかったな、と若干後悔していると、ふいに金髪ちゃんは近くの自動販売機へ向かい、缶のジュースを二本買って俺と黒髪の子にそれぞれ手渡した。お礼ってことか。無表情ぎみだし何を考えているか分かりにくいけど、そんなに悪いやつじゃないのかもしれない。
「助けてくれてありがと。あたしは四角美咲。そっちでへばってんのは姉の渚。……あんたは?」
「七種翠……あんたら、よく針間のとこに会いに来てるだろ。だから顔、覚えてた」
「へえー、あいつと仲良いんだ? まさかあのバカに構ってくれる奇特な人間がいるなんて思ってなかったよ。よかったら、これからも仲良くしてやってくれると嬉しいね」
やけに親しげな物言いに引っかかるものがあった。黒髪の子、渚ちゃんは比較的よく針間に話しかけている(会話が弾んでいるところは見覚えがない)が、金髪の方、美咲ちゃんは彼女にくっついて一緒にいるだけで、針間に話しかけてすらいないように見えた。それとも俺の見てないところであいつと交流があるんだろうか。
「仲は別に良くはないかなあ……まともに話したの、今日が初めてだし。俺、最初の頃あんま学校来てなかったからさ。美咲ちゃんはあいつと絡みあるんだ?」
「絡みがあるっていうか……まあ、体質上、色々とね。渚は純粋にあいつに興味があるからなんだろうけど。ほら、いつまで地面と仲良くしてるつもり? そろそろ帰るよ」
「やだああぁっ、まだ帰らない! みーちゃんは自分一人の時は遅くまで夜遊びしてるくせに、わたしと一緒のときはいっつもわたしに冷たくする……」
「そりゃアンタをああいう馬鹿な連中とか変なモノに巻き込むわけにはいかないんだから、仕方ないでしょ。もー、ボサッとしてないでさっさと立つ! 帰るよ!」
「チッ……すいくん、っていったっけえ? 助けてくれてあんがと。また明日学校で会おうねえ」
よっこいしょ、とやけにおっさんくさい仕草で立ち上がった渚ちゃんは美咲ちゃんの手を引いて去っていく。一度も会話したことがないはずの彼女がなぜ俺の下の名前を読みまで含めて把握していたのかが気にかかるが、尋ね返す間もなく二人は駅の方向へと姿を消してしまった。俺自身も後を追うようにして駅に入り、帰路に着く。今から帰宅するのが、とてつもなく億劫で仕方なかった。
◆◆◆
自分の家、というものに俺はあまり良い思い出がない。多くの人にとって自宅あるいは実家というのは、心の落ち着くところであり魂の帰る場所とでも言うべき、まさに「ホーム」ってやつなんだろう。だが俺にとってはなるべく長居したくない空間だった。
物心ついた頃には、母親は家を出ていた。今どこで何をしているかは知らないし、名前も顔もわからない。うちには全員で映っている家族写真が一枚もなかった。母親は俺を生んですぐ行方をくらませたという。その後、記入済みの離婚届が送られてきて、父親がそれにサインしたことで母親は母親じゃなくなった。
子は鎹だなんてよく言うが、我が家にそれは当てはまらなかったということだ。こうして生まれながらに父親にとっての「お荷物」となった俺は、当然だが我が子として可愛がられた記憶はほとんどない。別にネグレクトとか虐待とか、わかりやすい仕打ちを受けたわけじゃない。だけど周りの同世代の子供みたいに、休日はどこそこへ出かけたとか家族で何をしたとか、そういう「思い出」と呼べるものは何もなかった。
単純に、父親は仕事で忙しかったのだ。当時、全国各地をあちこち飛び回るような仕事をしていた彼は、ほとんど家に居なかった。常に多忙で滅多に自宅へ戻ってこなかったので、身の回りの世話は雇われのシッターが全て任せられていた。ある程度成長して俺が自分のことは自分でできるようになると、留守を預かるのは俺の役目になった。男手一つで俺を育てるために、というと響きはかっこよさげだが、父親は要するに逃げたのだと思う。家庭から、家族から──俺から。
悪い人間ではないのだろう。ただ、絶望的なまでに子供とか家庭といったものと相性が悪かった。もっといえば、父親は独りが向きすぎる人間だった。恋人、家族、子供、配偶者、友人、そうした名前のある関係性そのものが重荷や負担になってしまう、他の人と歩調を合わせて歩くことができない人間。生きる上で他者を必要としない、ある意味究極の自己中心的な人だった。
ネグレクトされたり、暴力を振るわれたり、暴言を吐かれたり、学費や必要な金を出してくれなかったり、そういう目に見えた被害をこうむったわけではない。ただ一切関わってこなかっただけ。全部業者に任せきりで、俺という人間と全く話も何もしなかった、それだけ。俺にとってもあいつにとっても、お互い他人でしかなかった。家族なのに、家族じゃなかった。
だから俺は、親の愛というものを知らない。血縁でありながら他人でもある人間との二人暮らしは、ひどく息苦しくて、絶え間ない苦痛をもたらした。こんな家、一刻も早く出てしまいたかった。いや出なければ。家を出て、そして一人で。たった独りで生きていくんだ。そのためには金が必要だ。金がなければ何も始まらない。そのためにはなんだってやってやるさ。俺を止める者も、踏みとどまらせる者も、はじめから何もないんだから。
駅から歩いて数分の、マンションというには古びた建物が自宅だ。新しく建てられた他のマンション群に比べると外観もボロっちいし階数も少ないので、最上階でさえろくに日が差さない。カーテンが閉め切られたままのリビングは暗く、つけっぱなしのテレビだけが、賑やかなバラエティ番組を虚ろに垂れ流している。
室内は荒れ放題で散らかりまくっていた。人間が生活すれば当然ゴミは出るし埃や汚れもたまるわけだが、家内の誰も掃除や片付けをする気がないのでこの有様だ。卓上には表面の脂が冷えて固まった残り汁がそのままのカップラーメン、吸殻で満杯になった灰皿、生ゴミがパンパンに詰め込まれたゴミ袋は廊下に積み上がり、脱ぎ散らかした衣服があちこちに山を作っている。
夏場でも高層階だからさほど虫が沸いていないとはいえ、洗い物が溜まりに溜まったキッチンのシンクやリビングからは酷い悪臭が漂っている。ご近所からクレームが来るのも時間の問題かもしれない。常時運転しっぱなしのエアコンを切って窓を開け、とりあえずゴミだけでも全てまとめて捨てることにした。室内の清掃はもう業者に頼むしかないだろう。ここまで汚れが酷いとさすがに自力じゃどうにもならない。
今までは「センパイ」から回ってくる仕事をこなせば快適なホテル暮らしが送れた。でもこれからは、少なくとも引越し費用が貯まるまでの間は、ここで暮らさなくてはならない。まったく嫌になる。父親は昔からこうだ。やりたくないことは是が非でもやらない。だから今までろくに家事というものを自らやった試しがない。
俺が小さい頃は業者を雇って家事の一切を任せていたからまだよかったが、ある程度俺が大きくなってからは全て任せきりだ。息子というよりタダで雇える家政婦くらいにしか思ってなかったんだろう。それが嫌だから俺は逃げ出した。親子の情なんて欠片もないくせに、愛情なんか寄越した試しがないのに、家のことは全て俺がやって当たり前だろうという顔をして何もかも押しつけてくる。
せめて感謝のひとつも貰えていたら、笑顔で引き受けていたかもしれない。確かな愛情を感じられていたら。たらればだ。あいつは俺に関心も、興味も、何一つない。だったらなんで作った。なぜ堕ろさなかった。世間体ってやつのせいか。それとももっと別な理由があったのか。どうせ面倒を見るつもりもないなら、先に逃げた母親に押しつけたってよかっただろう。それすら怠けたのか。
もしも母親が俺に僅かなりとも愛情があったとしたら、そもそも俺を置いて出ていったりしなかっただろう。俺はどちらの親にとっても要らない存在だった。作るだけ作って、やっぱりいらないなんて、そんな道理が通るものか。だったら作らなければいい。生まれたくて生まれてきたんじゃない。どうせ責任なんて取れないのに、端から負う気もないくせに、なんで作った。なぜ生んだ。
いっそ分かりやすく虐げられていたら、あるいは捨ててくれたら、俺の方こそ遠慮なくお返ししてやれただろう。でも。いつかは、いつかきっと。ありえない、そんなの絶対にない、そう知っているのに。
廊下に放置されていたものも含め、全てのゴミ出しを終えた頃には既にだいぶ夜も遅くなっていた。これをやらかした張本人はまだ帰宅してこない。どこかで飲み歩いているのか、それとも仕事に追われているかは定かではない。明日には業者に清掃を依頼しようと決め、ほぼ手付かずになっている自室に篭もる。
ホテル暮らしの間に必要最低限の私物以外は、あらかた処分するか売り払ってしまったので、室内は殺風景なもんだった。残してあるのは私服が数着と日用品くらいなもので、学習机やベッドなどの家具もない。かろうじて客用の布団一式はクローゼットにしまってあるが、それだけだ。元は家に帰らないつもりだったので仕方ないとはいえ、これでは生活しづらい。買い直すのも手間だし金もかかるしどうしたもんか。
──あ、そうだ。アテがあるにはあるんだった。ちょうど都合よく一人暮らし中のやつが。
「……だからってなんでお前を泊めてやんなきゃなんないんだよ。そんな義理ないだろ」
「まあそう言わずに。しょーがないじゃん、お前の兄ちゃんが俺の仕事潰したから計画ご破算になっちまったんだしさあ」
「それを持ち出されるとこっちも困る……っていうか、そもそも闇バイト紛いの仕事なんかしなきゃいいだけの話だろ!?」
「一応法には触れてないし。騙されただけだし、むしろ俺って被害者だと思わねえ?」
「そうかな……そうかも……」
難しい顔をした針間だったが、語るも涙な俺の半生を話して聞かせてやると諦めたように部屋へ通してくれた。半年程度なら住まわせてくれるということになり、バイト代からいくらか家賃と生活費を出すことで折り合いがついた。といってもほとんどタダみたいな額だ。これなら半年を待たずに早く金を貯めて独立できそう。
夕食は済ませたか訊かれ、正直にまだだと答えるとあからさまにでかいため息をついた針間がキッチンへ立った。綺麗に掃除が行き届いている室内からして家事は手馴れているんだろうと予想はしていたが、自炊もできるらしい。なんとなく育ちが良いんだろうと想像はついていたが、やはり実家できっちり家事を仕込まれたそうだ。誰も教えてくれないので我流で覚えた俺とは違う。
ものの数分で針間はおかず二品と白飯と味噌汁という献立を用意してくれた。残り物で悪いな、と謝られたが、アポイントもなしにいきなり押しかけた人間にメシを振る舞ってくれるだけ上等ってもんだ。普通にお人好しの部類だと思う。これで温厚な態度だったら相当モテたに違いないが、針間が家庭的な人間であると知っているやつなんてほぼいないだろう。
当然だが客間などないので、今日のところはひとまずリビングに雑魚寝させてもらうことにした。客用の布団など一人暮らしの高校生が持っているわけもないので、後日自宅から運び出すか安いものをネット通販で買うしかない。寝巻き代わりに予備のジャージを貸してもらったはいいが、針間の方がタッパがでかいので袖が余るのはちょっとムカつくが、まあ仕方ない。
シャワーを済ませて部屋に戻ると、その針間は部屋着から外出用の私服に着替えていた。無造作に伸びた髪をハーフアップにまとめてキャップを被り、黒いオーバーサイズの上着に同じく黒のデニムと、夏場にしてはやけに着込んでいる。ちょっとそこまでスタイルではなく完全に今から出かけますって格好だ。
「……こんな時間にどこ行くん?」
「仕事。『センパイ』の件だけじゃなくて他にも色々案件を任せられてんだよ。忙しいんだこれでも」
「へえ。それ俺も行っちゃダメか?」
「は? なんで? てか何しに?」
「えー、純粋に気になる。なんか面白そーじゃん、妖怪退治って!」
「遊びに行くんじゃねーんだぞ。だいたいお前なんか連れてっても役に立たねえし」
「あっ、ひでーなー、すぐそうやって決めつけんのよくねーよ?」
「お前と遊んでる暇はねーんだよ。パンピは大人しくうちでネンネしてろ」
「やぁだ。もう決めたし、着いていくし」
持参してきた私服──といっても半袖のパーカーに同じデニムの組み合わせだが、急いでそれに着替え直して先に行こうとする針間を追いかける。なかなか俊足だが、足の速さでは大して差がないせいで追いつくのは簡単だった。とびっきり嫌そうな顔をしているが、今更振り切るのは無理と判断したのか、針間は渋々といった様子で一枚のペラいコピー用紙を渡す。
ビジネス文書の定型文をそのまま真似たみたいな書式で簡潔に書かれているのは、都内某所にある廃ビルに出る霊を除霊してほしい、みたいな感じの内容だった。他にも細々とオバケの特徴とか除霊にあたっての注意や条件について記載してあるが、特に目を引くのは料金体系だ。日当五千円とかいう正気を疑う額が載っている。こういう仕事の相場がどんなものかなんて知らないけど、それにしたっていくらなんでも安すぎだろう。
「え? 依頼料? あー……この業界の暗黙の了解ってやつで、見習いは金取っちゃいけないことになってんの。俺は半人前だから本来料金は発生しないけど、先方の好意でお小遣いとしていくらかは貰えるってだけ」
「ええー? 普通はどんだけ使えない新人バイトやインターンだって賃金は発生するだろ。どんだけ大変かは知らねえが、対価はちゃんと支払われるべきだろ。お前ら頭おかしいんじゃないの?」
「それ言われると耳が痛いな……あ、もちろんデビューすれば料金は請求できるぞ。まあ新人のうちは鼻くそみたいな額だけど。売れっ子なんかは一回につき数百万とかになるからな」
「へえ、稼げなくはないのか……俺も妖怪退治屋さんになろっかな」
「やめとけよ。能力かコネか家柄のいずれかがないと無理だぞ、そもそもが新規参入の見込めない業界だし、売れてるやつは売れてるやつで何かと苦労も多いし。まあ万年人手不足だからオレとしちゃ助かるけどさ」
「ふーん。だったらなんで針間はこの仕事してるんだ?」
こちらとしてはなんの気なしに尋ねてみただけなのだが針間は苦渋の表情で言葉を詰まらせた。あまり突っつかれたくないことだったのかもしれない。慌てて話題を逸らそうとしたが、その前に彼は眉間に皺を寄せたまま重たい口を開いた。
「……クソ兄貴に、目に物見せてやるって決めたからだ。あいつはオレに術師なんか無理だってハナから決めつけてやがる。だから見返したいんだよ、オレにだってやれるって、無駄な足掻きなんかじゃないって」
「兄ちゃんに? でもお前って、確かそいつのこと嫌ってるんだろ。なら何言われたって雑音みたいなもんだろ、聞き流しちまえばいいじゃん。なんでそんなムキになってんの?」
「それができたら苦労しねえよ。それに、あいつにばっか無茶なんかさせられるか」
「無茶……?」
「……昔さ、オレ病弱でしょっちゅう熱出して寝込んでたんだ。学校にもしばらくまともに通えない時期が続いてた。でもある時、急に体調がすっかり良くなって、病気どころか風邪ひとつ引かなくなった。成長したからかな、とか体質が変わったのかも、とか思ってた。ずっと。でも違った。全部、あいつがやったんだ」
──針間は、これまで自分はずっとたくさんの人間に呪われていたと明かした。なんでも針間の実家は業界でも有名な家系で、特に本家筋の人間は何かと商売敵の家やライバルから狙われやすいらしい。特に最も幼く、身を守る術を持たない子供は何度も命の危険に晒されてしまう。針間がまさにその一人で、幼少期はあちこちで呪いをかけられて幾度となく死にかけたそうだ。
しかし当人は成長して大きくなるまでその事実を知らされなかった。オバケやユーレイを感知する能力が長いこと封印されたままだったのと、実家の稼業が何かも教えられていなかったせいで、ずっと蚊帳の外だった。ある事件がきっかけで力に目覚めてしまうまで、針間は何も知らずに普通の人間と同じように生きてきた。だが。
「……昔、もう死ぬんじゃないかって目にあったことがある。身体中の穴という穴から血がたくさん出て、高熱で魘されて、全身どこもかしこも痛くてたまらなくて、いっそ殺してくれってくらい苦しかった。あとで、死ななかったのが奇跡だ、って聞かされた。でもそれは突然ピタリと止んだ。オレを呪った人間が死んだからだ。殺したのはクソ兄貴だった。アイツが、全員、殺した」
あいつは身内に手を出された挙句、弟を害されて黙っているような人間ではなかった、と針間は語った。当時まだ幼かった彼自身が直接目にしたわけではないため、あくまで又聞きでしかないそうだが、現場は凄惨という言葉すら生ぬるく見えるほど酷いものだったらしい。何十人もの人間が惨殺された。幼い針間を呪い殺そうとしたやつらは、たった一人の人間に鏖殺された。
報復を行ったのは針間の兄だった。単騎で敵の本拠地に乗り込み、次から次へと片っ端から殺して回った。敵の中には当時の針間と同世代くらいの子供や若い女性なども含まれていたらしいが、それらも全てただ一人の例外なく皆殺しにされたという。一人の生存者も残らなかった。遺体が悪用されないよう、殺害後に徹底的に損壊する念の入れっぷりに、彼──針間纏の名は業界全体に知れ渡ったという。もちろん悪い意味で。
以来、針間への攻撃や呪いは完全に止まった。針間纏の弟は、彼にとって明確な「地雷」そのものはであると周知されたからだ。病弱で家の外へ出ることすら難しかった弟が健康を取り戻し、元気になったのはそういう裏事情がある。しかし本人には長年、秘匿され続けていた。それはなぜか、きっと針間本人には分からないだろう。
邪推でしかないが、なんとなくこいつの兄ちゃんの心境は推し量れる。ただ単純に、大事な弟を巻き込みたくはなかったんだろう。呪いで苦しむ弟の姿を見たくなかった。生きていてほしかった。元気でいてくれさえすれば、それだけでよかった。だから、手にかけた。呪いに蝕まれた家族を助けるために、大事な家族に手を出したやつらを葬るために。
一人でも残せばそこからまた復讐の連鎖が起きるかもしれない。ゆえに手加減も、容赦もできなかった。残さず殺しきるしかなかった。二度と弟に手を出されないために。「あの」針間纏の弟だと強く印象づけることで、誰も針間勇次郎へ何かしようと企むことはなくなるだろう。見えている地雷を踏みたがる者などいない。これから先も守りきるために、選んだ苦肉の策が、最も残虐でおぞましい殺戮だった。
もっともそれらは先程も前置きしたように、全て外野の俺による邪推でしかない。単なる妄想の産物だ。ただ、そうと想像できるというだけで。でもこういうことは当事者ほど気づけないものだ。相手が自身の本心や真意を隠しているなら尚更。渦中にいるからこそ思いつかないということは往々にしてよくあるものだ。
苦しい時に傍にいてくれなかったけれど、それは決して自分を見捨てたわけではなかったこと。死の淵にいた自分を助けてくれたこと。けれど、結果として家族が手を汚すきっかけになってしまったこと。彼を──兄をもう陽のあたる場所へ戻れないところまで追いやってしまったのは、他ならぬ自身の弱さであること。
ゆえに同じ道へ進むと決めた、と針間は自嘲まじりに笑って、話を締めくくった。針間纏が二度と後戻りできないというなら、逃げ場をつくってやれるのは弟である自分しかいないからと。強さゆえに様々なものを背負って立つ兄を一人の人間に戻すのは、他ならぬ自分の役目であるはずだからと。
「なぁんだ。兄ちゃんのことすっげえ嫌ってるっぽかったけど、案外そーでもないんじゃん。仲直りすれば? 纏さんって人とは直接知り合ったことないからよく知らねえけどさあ、向こうもたぶん同じ気持ちなんじゃねーの? 意地張んのやめなよ」
「……今更どうやって関係修復しろってんだよ。それに、あいつはオレがこうして術師目指してんのもいい顔してない。再三やめろやめろってうるさく言われてんだ、どうせ喧嘩になるのは目に見えてんだし現状維持でいい」
「あっそ。でも辞める気はねえんだろ」
「当たり前だろ。ここまで来てやっぱり普通の人間に戻りますなんて小っ恥ずかしいこと言えるか。オレの目標に巻き込んでるやつもいんのによ」
「……ふぅん。そりゃ大変だ、一刻も早く一人前になってやんなきゃな」
時間も時間なので電車もバスもとっくに終便が出てしまっているため、現場までは徒歩移動だ。と言っても歩いて三十分もしないくらいなのでかなり近い。都内だというのに周囲は雑草が生い茂った空き地ばかりで、更にその周りにある住宅地やビジネス街と隣接しているため、余計に空虚さが目立つ。夜闇にそこだけぽっかりと口を開けたように、手つかずの地面が広がっている。
現場というのは、空き地の中央にぽつねんと放置されている建設途中の廃ビルだった。地上二十階、地下三階のオフィスビルとして大手企業の支社など、いくつものテナントが入る手筈になっていた。ところが、どういうわけか建築計画が途中で放棄され、完成間際に関わらず解体もされず放棄されてしまった。この辺り一体は再開発事業の予定地になっており、ゆくゆくは商業施設やら何やらがたくさん建てられることになっているという。あのビルもそのうちの一つだ。
しかし再開発計画はビルの建築ストップと同時期に廃止されてしまい、土地そのものがこうして宙に浮いた状態になっている。今のところ、他の企業や自治体が新たに計画を立てているという話もなく、その上当初の計画に当たって立ち退きさせられた住民からの苦情等も特にないというから不気味だ。なお土地の買収を行った企業は最近倒産してしまったとか。ホラー小説の導入かよ。
肝心のビルは放棄が決定してからそんなに経ってないため、さほど荒廃もしておらず外観自体は綺麗なままだ。オシャレで洗練された現代的なデザインで、いかにもオバケが出そうといった雰囲気はない。ただ、それがかえって気持ち悪さを催させる。日本橋や丸の内あたりなら空気のように溶け込めるだろうに、周辺は広大な空き地なのだ。違和感のすごさといったらない。
自分の腰近くまで生長した草きれを掻き分けて進み、どうにかエントランスまで辿り着いた時には、いつの間に蚊に刺されていたのか露出した肌にいくつも赤い腫れがてきていた。行きがけに薬局に寄って虫除けスプレーくらい買っとくべきだったな、と舌打ちしつつ内部に踏み込む。当然だが電気が通ってないので屋内は非常に暗く、スマートフォンのバックライトをつけ、足元を照らしながら探索を開始した。
これから計二十三階分ものフロアをひたすら移動する羽目になるのかと思うとゾッとする。なんせエレベーターが使えないので、ひたすら階段を昇り降りするしかないからだ。一階エントランスにはオープン前のコンビニが入っており、店内ポップなどが撤去もされずそのままになっている。ただ、さすがに商品棚は空っぽだった。他にもインフォメーションや入居者向けコワーキングスペース等が整備されている。
施主へ明け渡す直前で事業がストップしたためか、館内マップには入る予定だった各テナントが記されているのがなんだか裏寂しい。ほとんどのフロアはテレビコマーシャルでおなじみの大企業やその子会社のオフィスが入る予定だったよう。ワンフロアぶち抜きのところもあれば、一部屋だけの小さな事務所もある。地下は駐輪場や物置として使われることになっていたようだ。
「……地下だな」
「どうしてそう思うんだ? ラスボスって普通は一番上にいるもんだろ」
「よく見ろ、最下階だけなんも書かれてない。空欄だ。こんなとこにテナントを入れるとは考えにくいし、このビルは近くに立体駐車場がある。なんの用途も決まってないんだ、地下三階だけ」
「そこにお前がなんとかしなきゃなんないオバケがいるってことか。……もしかして、その地下のやつのせいで、このビルは開業できなくなったのか?」
「たぶんな。オレに依頼してきたのは施主だ。お前に見せたあの仕様書からは削られてるけど、依頼メールにはもっと細かい情報が書いてあった。色々と事情というか、曰くがあったみてえだな」
「……事情って?」
「埋まってたんだと、人が。この地下に」
「──は?」
それは、あれか。いわゆる死体遺棄的な意味か。
かつんかつんとリノリウムの床に二人分の足音がこだまする。埃っぽい非常階段を下っていきながら、針間はコトのあらましを改めて説明した。別にここら一帯が処刑場跡とか古戦場跡みたいな血なまぐさい歴史を持っているわけではないらしい。だが、どうにも人の居着かない土地ではあったようだ。
この辺りは元々、家を建てるには地盤が軟すぎて向かなかったようなのだが、土壌のせいか水はけも悪くて作付もしづらかったという。おまけに何度も大火や戦災等に見舞われてしまい、余計に人が住まなくなった。稀によくある不毛の土地ってやつである。長年活用されず放置されていたが戦後の人口爆発により都心部に人が溢れかえり、こんな場所でも需要が生まれた。
一時期は宅地として利用されていたが、少子高齢化により人口が落ち込むにつれ、地代の安い郊外やより利便性の高い中心部へ人が離れてしまうと再び不毛の土地へ戻ってしまう。立ち退きが進んで更地になる前は空き家ばかりが目立っていたようだ。そこで自治体主導で再開発事業が計画されるも、結果はこのザマである。誰も住まない、居着かない、死の土地だ。
そこで話は少し戻る。建物を建てるに当たってもちろん土地の発掘調査は実施されるわけだが、その時は特に何も異常や問題は見つからなかったそうだ。つまり着工前には埋められた人間など発見されなかった。「それ」が見つかったのは、無事にビルが完成しオーナーへ引き渡される、まさにその時だったという。
施主が現場責任者と一緒に各フロアを巡回し、最下階へと降りたとき「それ」はあった。ご丁寧にも木棺に収められた状態の、人が。
「……うっそだあ。常識で考えてみろよ、なんでそんなもんが急に湧いて出てくるんだよ。タチの悪い悪戯かなんかだろ。事前調査でなんも見つからないなら、人なんか埋まってるわけねーじゃん。しかも、地下って言ってもビルの中なのに」
だいたいそれは「人が埋まっていた」といえるのか。どちらかといえば「人が置かれていた」というべきじゃないのか。ていうか死んでんだから、人というのもおかしい。死体だろう、普通は。仮に本物の人間だったとしても、ビルの真下から掘り起こしたわけじゃなくて、こっそり外部から運んできて安置したと考える方が筋が通っている。
「なんで埋まってたと言えるかって? 生きてたんだよ、そいつ。しかも木棺の表面は土で汚れていた。土は、この土地の地質と同様だと検査して明らかになった。まあ、お前の言う通り嫌がらせの線が消えたわけじゃない。ここと同じ地質の土をわざわざ使って汚した可能性もある。問題は、そこまで手の込んだ欺瞞なんかする理由はなんなんだってことだけど」
「確かに……って、生きてた? 中の人が? 埋められてたのに?」
「ああ。生きてたんだよ、現場責任者と施主が確認した時点では。だけど間もなく息を引き取った。まるで見つけてもらうのを待ち構えてたみたいに、な」
「あの……その見つかったっていう死体、いや、人はどうなっちゃったんだよ。まさかまだ地下に置きっぱなしってわけじゃないよな」
「さすがにそれはないと思うが、ちゃんと供養されたとかそういう話は聞かないな……そういえば。ただこの事件があったせいでビルは完成直前に放棄されることになった。加えて再開発事業自体もストップした。オーナーと自治体は恐れたんだ。これ以上の『穢れ』が広まるのを」
話している間に階段は終わっていた。最下階は他のフロアと違って完全封鎖され、外部の人間が簡単に出入りできないようになっている。針間が依頼主から預かっている物理キーでしか解放できないという。やけに複雑な形状をした鍵をカチャカチャ回しているうちにようやく解錠され、クソ重たい鉄の扉を開く。勝手に閉じないよう備えつけのドアロックで固定し、ついに中へと足を進める。
「……なんだこりゃ、空っぽだ。元はなんの空間だったんだ?」
「倉庫……ではないな。なんだこれは」
非常用の電源がオンになっているのか、手探りで照明のスイッチを押すと点灯した。等間隔に並ぶ無機質な蛍光灯の白っぽい光に照らされた室内は、打ちっぱなしのコンクリートで覆われている。他のフロアより天井が低いせいで床面積は広いのに狭苦しい。空間を用意したはいいが活用方法がなく放置された、という雰囲気だ。それにしては、ここだけ電気が来ているのも電灯が設置されているのも不自然な話ではあるが。
お互い、なんとなく一歩も動けず立ち尽くしていると、背後で軋んだおとがして、勝手にドアが閉じられてしまった。やばい、閉じ込められた。でもドアロックしていたのに、なんで閉まったんだ? 慌てて開こうとノブに手をかけるがビクともしない。押しても引いてもダメだ。鍵は針間の手元にあるし、内側からロックできないようになっているのに。
「……おい、どうすんだよ。このままじゃ出られねえぞ」
「落ち着け。何か条件があるんだ、おそらくは。それをクリアすれば解放される……と、思う。たぶん」
「なんでそんな自信なさげなの。断言してくれよ……」
「オレにも分かんねえよ! クソ、ぱぱっと祓うだけの簡単な仕事かと思ったのに……とんだ地雷案件じゃねえか、引き受けるんじゃなかった」
「いや割とやばそうな現場って分かるだろ、さすがに」
外部に助けを求めようにも、誂えたようにスマートフォンは圏外を表示している。電話もメールもSNSもダメ、もちろん位置情報も完全に死んでいる。地図アプリを開くと一面グレーになっていた。電池はまだ充分に余裕があるとはいえ、あまり無駄遣いしたくない。スリープモードに切り替え、ポケットにしまう。
頭を抱えてその場にしゃがみこむ針間の野郎は、でっかいため息をついていた。本人にとってこの状況は予想外らしい。じっとしていても事態が好転するとも思えないので役立たずは無視して、なんとなく室内を歩き回ってみた。すると想定より早く一周できてしまった。なんとなく手狭に感じていたのは本来の総床面積よりもほんの少し狭いせいだ。どこかに隠し部屋でもあるのか。
「なあ、おい、針間! いつまでそうしてるつもりだよ。オラ、とっとと出るぞこんなとこ。お前、ここの間取りかなんか持ってないか?」
「……間取りィ? なんでそんなもん要るんだよ」
「妙だ。なんか変に狭いんだよ、この部屋」
「そうかぁ? 普通に広くね?」
「いや。この規模のビルなら、柱や壁で遮られてないなら室内はもっとゆとりがあるはずだろ。それにしちゃ狭く感じるんだ、どっかに小部屋かなんか隠されてるとしか思えねえ」
「ホラー映画の見すぎじゃねえの。どこにあんの、隠し扉なんか」
「隠されてんだから一瞥して分かるわけねえだろ。手当り次第に壁を叩いて空洞があるか確認するしかないな」
ダルそうに立ち上がった針間は、きょろきょろと周囲を見渡す。眇められた猛禽類を彷彿とさせる瞳は、すぐに何かを捉えたようだった。視線が向いているのはドアからみて北東の方角だ。そこへ一直線に向かい、針間はつま先で壁の根元を軽く蹴る。一見するとなんの変哲もない、ただのコンクリートはがらがらと音を立てて崩れ、木製で両開きの扉が中から現れる。
「……何これ。てかどうやって見つけたの、お前」
「何って、普通に……視て? こりゃ仏壇か? 作り付けっぽいな、引っ張り出すのは無理か……」
「ハア? なんでそんなもんがビルの地下に隠してあんだよ、事故でも起きて作業員が死んだりしたのか?」
「さあな。詳しくは知らん。隠し部屋の入り口ってやつじゃねえの、七種の言葉を借りんなら」
「……仏壇が? それこそホラー映画かよ」
「さーな。てかこれ狭っ、ちっさ。大人が出入りすんのは無理そうだな」
「……隠し部屋ではない、ってことか?」
ホラーゲームの探索パートというにはヒントが無さすぎる。現実で起きていることなのだから当たり前だが。木目の美しい、飴色の観音開きの扉には錆びついた金属の取っ手が取り付けられている。針間がそれを壊さぬようそっと静かに引いてみると、確かにそれは仏壇のようだった。おりん、高坏、香炉など仏壇と聞いて思いつく飾りが配置されている。
ただ、遺影がない。位牌も。これでは誰のための仏壇なのかわからない。コンクリート風に偽装していたのだから当然だが清掃など行き届いているはずもなく、うっすら埃が堆積していた。そのせいで形跡がはっきり視認できた。飾られていた遺影と位牌は、誰かに持ち去られてしまったあとなのだと。
「……もしかしてこの仏壇、元々は隠されてなんかいなかったんじゃないか? 偽装そのものは完璧な仕上がりだったけど」
「あ、なるほど。これを持ち去った誰かが後からコンクリで壁の一部を塞いで仏壇を隠したってことか。無関係な人間が盗みに気づくことがないように」
「結構古そうだもんな、この仏壇。見た目は綺麗だけどさ、よく見たら傷とか日焼けとかあちこちにあるし。長年どっかの家で使われてたのをわざわざここに持ち運んだのか? でもなんで?」
「さあ……けど、これで隠し部屋は他にもあると判明したな。こんな狭い空間だけじゃねえだろ、どっかにデッドスペースがないとなると、地下三階だけ手狭な説明がつかない」
「間取りかあ……そんなもん受け取ったかなあ……事前に送付された資料の中にゃ、そんなもんなかったと思う、覚えてる限りでは」
「……設計図とかも?」
「うん。もらったのはお前に見せたあのペラい仕様書一枚と、その前に送られてきた依頼メールだけ。あ、そういえば端末にダウンロードしといたからオフラインでも読めたかも」
言いつつ手元のスマートフォンを操作し、針間はやたら長文のメールを見せてきた。要約するのもめんどくさい。全文をきっちり読んでいる暇はないので、重要そうな部分だけ目を通す。
(前略)
……この土地は穢れている、といつだったか着工前に地鎮祭を執り行ってくださった神職の方に指摘を受けたことを今更になって思い出しております。ここには、決して暴いてはならぬ恐ろしき一柱がおわし、長らく醒めない夢についていらっしゃるのだとか。その方が眠っている間はつかの間の平穏が与えられるが、もしも目覚めてしまえば、とんでもないことになるとか。
あのとき一笑に付したことをこの先一生後悔することになるだろう。神なるものは決して人に対し善いものであるとは限らない。何もしないことこそご利益である、という居てもらっては困るようなものも、それもまた神であるという。この地に住まうのはまさに、そういう存在だ。穢れをもたらす神、穢れている神、穢れの神──「えやみ様」は、我々を見ている。天から、地から、この世の全て、あらゆるところから。
ああ、許してくれ。どうか許してほしい。一体なんてことを己はしてしまったのか。呪われるのも祟られるのも当然だ、だが。それでも、たった一人の「あの子」だけは、どうか連れて行かないでほしい。もうあの子しか、ここには残っていないのだから。自分が悪いとわかっている。この身に染みて理解している。しかし、子供には、まだなんの罪もないはずだろう?
(後略)
「……えやみ様?」
「漢字で書くと『疫』だな。いかにもホラー映画とか小説に出てくる土着信仰っぽいな、問題はここが東京のド真ん中で別に因習村とかじゃないってことだけど」
「うげ、なんかヤバそう。やっぱり俺ら手ぇ引いた方がいいんじゃね?」
「そうしてえのはやまやまだけど、帰れないんだよな……出入口閉じられちゃってるしさ」
「そういやそうだった……どうやって脱出しような。ていうか元々はこのビルに出るバケモン退治じゃなかったのかよ。なんで話がこんなデカくなってきてんだ?」
「この仕事じゃ結構あるあるだぞー。軽い祓いかと思って引き受けた案件が実はとんでもない地雷だったっていうの。つまり今の状況のことなんだけど……うう、こんなときこそ龍樹がいてくれたらなあ」
「……誰? うちのクラスメイトじゃないよな」
「え、ああ幼馴染。あいつは霊力おばけだから、デカい仕事のときは必ず連れ回してんの。オレが水溜まりだとしたら、あいつはちょっとしたダム並の容量あるし。クソッ、龍樹さえ居ればスタミナ切れってことはないのに……そしたらパワーでゴリ押し余裕なのにさあ」
再び頭を抱えて落ち込んでしまった針間のことはほっといて、他に出入りできそうな隠し扉的な何かがないかな、と探して回る。確信した、こいつは非常時にアテにできないタイプだ。臨機応変な対応ってやつが向いてない、何一つ頼りにならない野郎である。こんなのと付き合っている人間がいたとしたら同情する。彼女か彼氏かは知らんが、いるのかどうかも聞いたことはないけど。
「ていうかさあ、そもそもの話──その仏壇の持ち主? 故人? ってのがここに埋められてたやつで、俺らが退治することになってるバケモンだとしてさあ、そいつはここで何したワケ? なんもしてねえなら別に退治とかしなくてもいいんじゃねえの」
「……それを決めるのはオレ達じゃねえよ。あくまでクライアントだ。本職から見て無害って判断できたものでも、依頼主にとってはそうじゃないなら駆除しなくちゃならない。虫と一緒だ、人間の都合で益虫だ害虫だと勝手に振り分けられるだろ。相手のことはガン無視で。クワガタやカブトムシなら良くてゴキブリやシロアリならノー、たとえそいつらが特に悪さしてなかったとしてもだ。オレらはただの業者だ、対価が発生した以上は向こうの言い分を呑まなきゃならない……ってこった」
怠そうに起立した男はポリポリと首の付け根を掻きながら吐き捨てる。猛禽のように鋭い眼光を放つ眼はいつになく淀み、濁った色をしていた。俺には到底想像もつかないような、厭なものを色々と目にしてきたのかもしれない。見習いには代金を払わなくていいと聞いたとき、なんてブラックな業界なんだとドン引きしたけれど、きっと逆なんだろう。正式なプロとして対価を頂かないなら責任も発生しない。
それは未来ある若手を守るためだ。彼らを取り巻く理不尽から。未熟な者に責任を背負わせることなく、命や尊厳を捨てずに済むように。もしも代価を受け取ってしまえば仕事として全うせざるを得ない。逃げられなくなる。そして依頼主共々、理不尽と心中しなけりゃならない。いざというときクライアントを生贄にしてでも、本当の恐怖から逃がし、守るための「無給」だったのだ。
先方はあくまで好意として、子供の小遣い程度の、ささやかな日当を用意した。だがその安っぽい紙切れ一枚のせいで針間も、そしてついでに俺もこの現場から逃げ出せなくなっている。あーあ、しょうもない好奇心のせいでこんな激ヤバ現場に巻き込まれちまうなんて、まったくツイてない。仕事に出かけるこいつを見送って、そのまま寛いでいればよかった。今頃は冷房の効いた部屋で映画でも見てのんびりしてられたっていうのに。……冷房?
「針間あ。なあ、さっきから妙じゃねえか? なんでこの部屋、こんな涼しいんだ?」
「……非常用の電源が動いてるからじゃねえの?」
「だとしても空調つけっぱなしってことある? 無駄じゃん。電気だって俺らが今つけてるから光ってんだろ、なのに空調は最初っからついてたよな。なんか変じゃね?」
「そういやそうだな……むしろ冷房効きすぎて寒いくらいなんだけど。今日って最高何度だっけ」
「さあ、猛暑日にはなってなかったと思うけど。今はもう深夜だし、こんな冷房ガンガン回すほど暑かったか?」
「ちょっと蒸し暑いなーってくらいで、今日はまだ扇風機ありゃ充分、って感じかな……」
「……ていうか、空調のスイッチってどこだよ。見た感じ、蛍光灯のボタンしかないけど」
「空調を常にぶん回すために、ここだけわざわざ電気を通してるってことか。それも非常用の電源を使って。普通に電力会社に頼めばいいのにそれをしなかったのは、外部の人間をここに連れてきたくなかった。見つかったら困るものが置いてあるから。事情を知る人間以外には、絶対に見られたくないモノ……」
「……なあ、それ、一つしか思いつかないんだけど」
「奇遇だな。オレもだよ」
二人で手分けしてコンコンとしつこく壁を叩いて回り、やがて仏壇からちょうど正反対の方向に、それはあった。他と明らかに音の質感が異なる箇所。さっきと同様に蹴り壊してしまえば実にあっさりと、隠し扉はコンクリート風の偽装から姿を現した。大の大人がすんなり出入りできるくらいのサイズはある、内開きのドア。そう、またドアだ。脳内によぎったのは、ついさっき閉じ込められた瞬間のこと。
互いに目配せし、意を決して内部へ足を踏み入れる。どうせここで起きる問題を解決しなければ地上に戻れないのだから、閉じ込められるのなんて今更だ。しかし今度はドアロックなんてしなくても開きっぱなしのままだ。ようやく俺達は賭けに勝ち、正解を引き当てたってことか。オレンジ色の豆電球が薄ぼんやりと照らす縦長の空間に、木棺とやらは安置されていた。
長いこと土の下に埋まっていたとは考えにくい、ついさっき完成したばかりと言われても信じてしまえるほど、表面はピカピカで真新しい。薄暗くて分かりにくいけど、色合いや木目の様子からして仏壇と同じ木を用いているかもしれない。木棺も仏壇も、想像よりだいぶ小さく作られているのだ。同じ木から切り出して作る関係上、あまりサイズを大きくできなかったのだろう。子供用といってもいいかもしれない。
「子供……なあこれ、三歳とか四歳くらいなら、全然普通にしまえちゃいそうだよな」
「その子の体格や身長にもよるが、六歳頃までなら入棺できそうじゃないか? 七歳以降は厳しそうだけど」
「そっかあ……じゃあ、もしかして子供だったのかな。ここに出るっていうオバケの正体って」
「……依頼メールにも『あの子』ってワードが何度か出てきてたし、今回は子供が重要な鍵を握る存在なのかもしれないな。子供は七つまでは神の子というし、最近じゃ創作だってんで否定されつつある言説だが」
あまりピンと来ず、どういう意味だか訊ねると、針間はちょっと嫌な顔をして答えた。現在ほど飯が豊富にあるわけでもない昔、しょっちゅう凶作や飢饉やら何やらで深刻な食料不足に陥る度、人間は食い扶持を確保するため口減らしを行ってきたという。真っ先に狙われるのは身寄りのない年寄りや座敷牢に繋がれた者だが、それでも足りなければ生産階級ではない子供がその対象になる。
子流し、子返し、間引き。様々に呼ばれるが結局のところ全て意味は弱者に対する殺人だ。だが我が子の代わりに己が犠牲となる道を選んだとて、幼い子供らだけで農村の暮らしや共同体の維持管理など行えるはずもない。もう労働者階級ではない老人や障害者にしても同じだ。若く健康な人間が多数いて初めて過酷な仕事と厳しい生活を乗り越えることができるのだ。
言わば必要悪なのだろう。恵まれた現代の価値観で簡単に裁いてしまえるような事柄などではない。今ほど医療の整っていなかった当時、出産とは命を賭して行うものであり多大な危険を伴った。無事生まれても死産であったり、母体の肥立ちが悪くそのまま死ぬことだってあった。そんな状況下で、文字通り腹を痛め死を覚悟して産み落とした子供をこの手で流すことが、どれほど苦痛と悲しみを母親にもたらすか。
もちろん言い訳にはならない。それでも小さな命を摘み取る罪であること、人道に悖る行いてもあることは変わらない。どれほど親が悩み苦しみ悔いたとて、そんなものは決して贖罪にはなり得ない。だが間引きをしなくなって済んだ時代の人間が、間引きをせずには生きてゆけなかった時代の人間を安易に責め立てることだってまた、自分の罪を棚上げすることに他ならないだろう。
話を戻そう。
通常よりやけに小さな木棺や仏壇が、幼い子供のためのものだったとするなら。今は閉じられている棺の蓋の下には、小さな子供の亡骸が納められていたことになる。この部屋が遺体の安置目的で設計されたものだと仮定すると、腐敗をできるだけ遅らせるために冷房を常に運転させているのだろう。おそらく中にはドライアイスなども詰めてあったのだろうが、それにしたって夏場にどれほど保つというのか。葬儀を執り行うにしろ、火葬し納骨するにしろ、いずれは遺体を適切に処理する必要がある──法的に何も問題なく亡くなった人間であるとするなら。
もし、もしも、ここから持ち去られた死体が想像通り子供だったとして。その子が病気や事故などで幼くして天命を全うし親に見守られ安らかに旅立ったのではなく。無惨に、理不尽に、悪意の元に身勝手にその命を摘まれたのだとしたら。間引きの要らない時代にも関わらず、間引かれて命を落とした、殺されたのだとしたら。だからこそ決して見つからないよう、こんな狭苦しい場所に押し込められいたとするならば。
「……この棺、蓋開けてもいいか」
「別に好きにすればいいけど、なんで? どうせ中身なんてないと思うけど、異臭もしないし」
「それでも確かめたいんだ。俺の想像が全部ただの妄想に過ぎなくて、杞憂でしかないんだって」
「……考えすぎなんじゃねえの。ほら反対側持ってやるからそっち持って。いくぞ、せえのっ」
二人でタイミングを合わせて蓋を持ち上げ、外す。針間の言う通り確かに内部は空っぽで、白絹の布がくっきりと横たわる人間の形跡を残しているだけだ。さすがに蛆や蝿に集られたグロいものを目にするとは思っていなかったとはいえ、それでも空であることに安心してしまう。元通り蓋を閉め直し、嘆息した。死体はなかった。しかし懸念は事実となってしまった。
内部の敷布に残った跡からして、納められていた人間はひどく小さかったのは間違いない。手足を折り畳んで無理に詰めたのではなく、それに合わせて棺が作られたことを示すかのように、まっすぐ手足を伸ばして寝かされていたとわかる。遺体が小人症等の大人ではないとするなら、やはり死んだのは子供なのだろう。今はここにない位牌や遺影も、消えた死体と同じ名前や顔を持っていたと考えるのが自然だ。
では一体、死体はどこへ消えたのか。埋葬や供養を目的としているならいい。だが、ここに人間がいたことが不都合な事実であるがゆえに持ち去ったとしたら。誰が、どこへ、そして「なぜ」遺体の存在はその者にとって不都合なのか。単純に考えればビルを建てた者だろう、つまり施主だ。しかし、それならどうして針間に依頼を出したのだろうか。遅かれ早かれいずれは判明してしまうことだ。それともこの仕掛けに気づくわけがないとタカをくくっていたのか。
もう一つ重要な疑問がある。なぜ再開発事業はストップせざるを得なくなったのか、という点だ。ビルがほぼ完成してしまった手前、正直なところ「遺体の一つや二つが発見されたからといって」莫大な予算や人員が動いている自治体主導のプロジェクトをわざわざ凍結しなければならないとは思えない。隠蔽により後で騒動になるのを避けたにしても、事実の公表の仕方次第で継続することは充分可能だっただろう。
施主にとって見つかった子供の死体はそれだけ重大な意味を持っていた。霊障が起きているからそれを解決してくれと嘘の依頼を出すくらいには。そう、全てが嘘で欺瞞であると考えた方が手っ取り早いのだ。オバケなんか出てないし出てこない。そんなものはおらず、あったのは死体だけ。しかしその死体にまつわる謎が、俺達をここに足留めしている。施主にとっても、巨額の負債を抱えてでも計画を中断しなければならないと決定するほどに。
なーんて俺が頭も良くないくせに推理小説ごっこを脳内で繰り広げているうちに、針間は元通り蓋を閉め、両手を合わせて瞑目していた。長いサイドヘアが彼の横顔を隠してしまっているため、こいつが一体どんな表情をしているか、俺の立ち位置からでは窺い知れない。ただ、綺麗に揃えられた指先が小刻みに震えている様子から、クールな美貌の裏に隠された激情を察することはできる。
「見つかった子供は当初、生きていた。だが発見されたと同時に死んだ……そういう話だった。依頼が来た時点では。違った、全部嘘だった。オレは──オレ達は騙されていたんだ。生きていたのをわざわざ殺して、埋めて、さも完成直前に『偶然』発見されたと見せかけて、そして持ち去った。ろくな供養も何もせず」
「……なんで。なんのために、そんな手の込んだ惨いことをする必要があるんだ」
「呪物を作るためだ。一番簡単で効率がいいんだ。憎しみ恨み怒りや未練を抱いて理不尽に死んだ人間の亡骸が。負の感情でいっぱいになった、魂の抜けた空っぽの器は触媒としてこれ以上ない最高の材質になる。どんな呪詛を仕込むかで効果は変わるけど、総じて強力だ。場合によっては街一つを呑み込んでしまうくらいに」
「は……? 何言ってんだよ、そんな少年漫画みたいな馬鹿な話があるかよ。何かの冗談だろ?」
「そうだったらどんなにいいだろうな。別に、目に見えて危険とわかる異常が発生するわけじゃない。そういう物理的に作用する呪詛はないこともないが、狙った通りに効果を発生させるには代償が大きすぎる。それに範囲もそんなに広くできないから被害数もせいぜい一人か二人程度で済むケースが多い。大勢巻き込む呪いってのは、土地やそこに暮らす人間の性質を歪めていくんだ。怒りっぽい人がますます攻撃的になって、凶悪事件が起こりやすくなって、病気に罹る人が増えて、健康な人優しい人善人子供女性老人、それ以外の当たり前に日々を生きている人間がどんどん死んで減って消えていく。やがて街には死が満ちる。残るのは、どうしようもないほど穢れきった、手遅れの土地だけ」
穢れていく。穢れが満ちる。穢れに冒される。やがて土地も人も病んでいって、膿んで腐って壊れていく。まるで病巣のように、少しずつ時間をかけじわじわと進行していき、ついには「おしまい」になる。そういう人の住めなくなった場所というのがこの国に、世界中のあちこちに存在するという。俗に忌み地と呼称され、大抵はほっとかれることが多いらしい。いかな実力ある術師といえども手に負えないからだ。忌み地となってしまえばもう手の施しようがない。それは何かに符合している気がした。たとえば、今俺達がいるところとか。
もし、ここで見つかった死体──本当にただ亡くなっただけなのか、それとも針間の言うように惨殺されてしまったのかは不明だが、それが呪物として作り変えられたのだとしたら。果たしてどこでどのように使われるのだろう。元々人が住み着かず、災害に見舞われやすい不毛の土地。都市の繁栄に伴い地べたが足りなくなったことで一時的に増えた人口も、再開発による立ち退きで再びごっそり消えた。まさに同じだ。
とはいえ矛盾はある。まず順番がおかしい。仮に死体が呪物へ加工されたとしたら、ここら一帯が忌み地と化すのはもっと後になるはずだろう。最初から不毛な土地と言われている区域を更に忌み地に変える必要がどこにある。人を寄せつけたくないだけなら、そもそも再開発など計画しなければいいだけの話だ。少子高齢化著しい昨今、緩やかに人口は減少に転じつつあるのだから、黙ってても人はいなくなっていく。それを待てば済むことだ。動機がない。合理的な必要性も。
手が込みすぎている。その上で杜撰でもある。このことに針間が辿り着くわけがない、と舐めているような。あるいは見破られたとしても構わないのかもしれない。どうせこいつに何もできないと見抜いている。実際、閉じ込めに遭ってろくな対策が打てないこいつは、術師としては二流もいいところだろう。この業界における平均レベルなんか知る由もないが、針間が未熟なのは素人にだってわかる。
「……これからどうすんの? もうここでやることはなくなったろ、いい加減外に出ないと。いつまでもこんなとこに居たくないしさあ」
「そうだな……帰ろう。消えた呪物の捜索もしなくちゃいけないし、お前のことも巻き込んじまったからな、本当にごめん」
「別にいいけど。着いてきたのは俺の方だし。それよりどうやってここから出る気でいるんだ?」
「たぶん、もう開いていると思う。向こうがオレ達にやってもらいたいことってのが、この木棺や仏壇の隠し場所を見つけることだったらの話だけどな」
針間の言葉は事実だった。さっきまでどんなに押しても引いてもまるで開く気配の見せなかったドアが何事もなくあっさりと開いたのだ。空調が効いている快適な室温から一転、むっと押し寄せてくる湿った暑苦しい空気にじわりと汗が噴き出す。煌々と蛍光灯が灯っている地下と違い、深夜の空きビルは暗すぎて自分の足元さえ不確かだった。
それでも解放された喜びの方が大きかった。ずっと圏外だった携帯の電波も復活し、いつも通り通知が届くのも嬉しい。たとえ送られてくるのが企業のダイレクトメールやゲームのスタミナ回復を知らせるものだったとしてもだ。長時間あの場所にいた気がしていたが、スマートフォンの時間表示を信じるなら、実際にはほんの数分しか経っていない。なんぼなんでも怪談やホラー小説あるあるすぎて、あまりのベタさに笑えてしまう。
針間の自宅アパートまでの道のりを引き返しながら、隣を歩く彼は依頼主へ電話で現状報告しているようだった。そんなもん明るくなってから適当にメールやメッセージアプリで簡単に伝えればいいと思うのだが、存外にもこいつは仕事に対して真面目らしい。日当五千円とかいう足元を見まくった金額でも引き受けたからにはきっちり真っ当したいと考えているんだろう。プロ意識は結構なことだが、現実はこのザマだ。
丁寧なんだか雑なんだかわからん、やや砕けた敬語で潜入後から脱出までの流れを説明していた針間だったが、ふと顔色を変えた。夜間にも関わらずジメジメした蒸し暑さの中、紙のように白くなる横顔はすっかり血の気が引いている。まんまるに見開かれた瞳が、充血する白目の中で忙しなく泳いでいた。
二、三しきりにウンウン頷くと針間は通話を切り、乱雑にスマートフォンを上着のポケットに押し込む。形のいい眉を顰め、唇を引き結んでいる。どうやら「オレはものすごく不機嫌です」と無言でアピールしているつもりのようだが、こいつのメンタルをケアしてやる義理もないし、先方に何をほざかれたんだか気になるので質問してみることにした。俺の問いに、こいつマジかというような顔をしながらも、針間は素直に答えてくれる。
「打ち切りだって。日当を倍額で払うから、この件からは完全に手を引けとか言ってきやがった。クソが、ナメやがって……ッ!」
「ああ、まあそうだろうな、先方にとっては見られたくないもんを俺らは見てるわけだし……あれ? もしかして口封じに消されちゃう?」
「漫画の読みすぎだろ。だいたい、死体そのものはもうどこにもないんだ、通報したところでまともに相手してもらえるとも思えないし。あー疲れた、明日も学校あるとか考えたくねえ……」
「ふーん。いっそサボれば? 俺も明日はバイト探しするつもりだし。お前どうせ成績いいんだから、少しくらいサボったって別に大したことないだろ」
元々こいつは隣町の進学校を志望していたほど頭がいいらしいと聞いている。いつだったか、こいつの実家を見たというやつがいて、数奇屋風のとんでもなく立派な豪邸だったとのたまっていた。そんな金持ちのおぼっちゃんが、なんでわざわざウチに入学したんだか、知る者はいない。しかし針間は、俺の勧めに対して首を横に振った。あまり真剣に授業を受けているようには見えないが、かといいサボタージュする気もないらしい。
やっとこさ針間宅に到着し、交代で風呂に入ることにした。出かける前にシャワーは浴びたとはいえ、出先で変な汗をかく羽目になったし、ゆっくり湯船に浸かって休みたい。こいつのアパートがそこそこ広めのユニットバスがあるタイプの間取りで良かったとつくづく思う。ジャンケンで順番を決め、運良く勝ったので一番風呂をもらった。まあ風呂掃除のおまけつきだが。
湯を張り、ちょうど人肌より少し熱めくらいのお湯に全身を沈める。もうこのまま寝ちまいてえな、と緊張が解れたからか途端に襲ってきた睡魔に抗いつつぼんやりしていると、とんとんと風呂場のパーテーションが控えめにノックされる。半透明の扉には何者かのシルエットが映り込んでいるが、そいつは針間より身長が低かった。咄嗟に自身の口を手で抑える。応えてはいけない。返事をしたら、その時点で終わりだ。そう、予感がした。
『もしもし』『もォしもし、ゆうじろうさんはいますかぁ』『もし、そこにいるんでしょう』『ゆうじろうさん』『まといさん』『ゆうさん』『つむぎさん』『どこにいるの』『ここにいるでしょ』『ゆゥじろぉ……サん』『いないの?』『いるよ』『どこに?』『ここに』『ォまえは、だァレ?』
──気づかれている。男のものとも女のものとも、子供か大人か老人かも判断がつかない、中性的かつ特徴を捉えにくい声。ところどころノイズがかかったような、聞こえ方が歪な音声が響いて耳障りだった。「あれ」は針間のことを捜している。だがひどく目が悪いのか、リビングで俺が上がってくるのを待っているあいつに気づいていない。だから風呂場にいる俺を針間と間違えているのだ。
どうする、このまま風呂から上がってしまうか。だがドア一枚隔てたその向こうにいる「何か」と鉢合わせるのは避けたい。相手に害意がないならそれでいい、しかし何か危害を加えるつもりの場合、俺が巻き込まれてしまう。何よりシンプルに怖かった。仕事中のあいつにくっついてみたくせに、実のところ本気でバケモノの実在を信じていたわけじゃなかった。まるきり嘘だと決めつける気はなかったけれど、どこかで虚構であると疑っていた。
でも。いる。いるのだ、そういうものは──確かに、この現実に。そして今、まざまざ俺はその事実に打ちのめされ、恐怖でおののく羽目になっている。もわもわと湯船からたちのぼる湯気が曇らせる視界に、そいつの影ははっきりとこの目に視えていた。アスファルトのような濁った灰色をした皮膚と、浴衣のような白い着物。剃っているのか元から生えてないのか、頭頂部には髪の毛らしきものは何もない。
明らかにヒトではない、人影は絶えず針間の本名を口にし続けている。おそらくは身内であろう、俺の知らない人の名前も。敵意は感じられないのに、だからこそそれが、おそろしくて不気味でたまらなかった。だって今、本来なら視えないはずのものを俺の目は捉えている。あれは見てはいけないものだ。見えてはならないものを見ているということは、もうこの目は普通ではないんだろうか。もう今までの平凡な自分ではいられなくなったに等しい。でも、どうして。なんで、俺が。
自問する間にも影は、ゆうじろう、ゆうじろうとその名を呼び続けている。悲痛さを伴う、狂おしいまでの呼び声にこちらの頭がおかしくなりそうだ。いっそ、うるさいと叱りつけてしまえたらよかった。だが応えたら最後、狙われるのはきっと俺の方だ。助けて、誰か、なんでもいい、誰でもいいから──誰か、助けて。
そのときだった。リビングの方から、呑気な「そろそろ上がんねーとのぼせるぞ」という針間の声が聞こえてきたのは。瞬間、影が雲散霧消し跡形もなく消え去ったのを確認して、慌てて上がる。様子を見にきたらしい針間と脱衣所でかち合ってしまったが、まあこの際仕方ない。全裸の俺を見ても動じず、風邪ひくからさっさと服着ろよと言い捨てて戻っていったあいつはたぶん大物になる気がする。
手早く身体を拭き、寝間着に袖を通した俺の肩にひやりと冷たい何かが触れた。なんだ、今のは。まるでひとの手のひらの、ような。
『またねえ』
きゃらきゃらと、からかうような笑い声が鼓膜を引っ掻いた。慌てて背後を振り返る──何もいない。なんだったんだ、一体。さっきの人影か。あいつは祓い屋見習いなんてやってるくせに、自宅という安全地帯にすら沸いている身近なバケモノにすらまるで反応できないというのか。もしかしてとんでもないポンコツ野郎なのか。
安易に居候先に選んでしまったものの、最悪の事故物件(住人含む)を引いてしまったかも、と今更になって後悔の念が湧き起こってくるがもう既に遅い。背もたれ部分を倒すことで簡易ベッドになるというソファを貸してもらい、タオルケットと枕代わりのクッションを借りてようやく横になった。壁掛け時計はちょうど午前三時を指している。
照明を消すと、真っ暗になるかと思えばカーテンを透かして入り込む外の灯りがうっすら室内を照らすので、案外そこまで暗くなかった。日の出はまだ先だが、自分の手のひらすら視認できないほどの暗闇に怯えなくて済む。暗いところはなんだか苦手だ。別に何かトラウマがあるわけでも、納戸や押し入れみたいなところに閉じ込められたことがあるわけでもないのに、なぜだか昔から狭くて光の差さない空間は嫌いだった。今日の現場も電気が通ってなかったら発狂していたことだろう。
瞼を下ろし、なんとか眠りにつこうとするがなかなか眠れない。もう指を動かすのも怠いほど疲労しているのに、入浴中はあれほど眠くてたまらなかったはずなのに、昂ったままの精神が邪魔をしてうまく寝付けない。ごろごろと寝返りを打ちながら、なんとはなしに充電中のスマートフォンに手を伸ばす。興味のない分野の動画か、ヒーリングミュージックでも再生すれば少しは気持ちも落ち着くだろうか、と動画アプリをぼんやり眺めていると──ある動画に辿り着く。
それは、怪しげな格好をした霊媒師らしき人物が除霊ライブしている生配信だった。顔面をサングラスとマスクで覆われており、夏場だというのに長袖で皮膚の露出はほとんどない。甲高い声から女性であると察せられはするが、何しろ体型が服で隠されているせいで性差が判別不明なので確証は持てない。おどろおどろしいフォントで「霊媒師・明石照日が現代の闇を切り払う! 突発除霊生配信〜N県の御堂に潜む悪霊〜」というタイトルが動画サムネイルいっぱいに踊っている。
何かと政情不安定な世の中だからか、こういうオカルトブームみたいなものは世間で流行りつつあった。間取りがテーマのホラー映画も最近話題になっていたし、友達もわざわざ映画館まで観に行っては出来映えに怒って帰ってきたっけな、と思い出す。俺自身はあまり心霊ホラーは好きじゃないけど、話のタネにたまにその手の動画は見てみたりもする、という程度。なんでこれがレコメンドされたかはわからないが、まあ評価は高いんだろう。
たった今怖い思いをしたばかりだからか、つい興味本位で再生してみることにした。夜に怖いものを見たり読んだりすると「寄ってくる」というが、果たして除霊動画はどうなのか。あわよくばさっきのオバケもついでに除霊されてくれないかな、と淡い期待をしつつ見入る。コメントチャットは深夜どころかそろそろ夜明けにも関わらず賑わっており、考察やら絶叫コメントやら、様々なリアクションで溢れかえっていた。
今回の生配信は、正体不明の謎の霊媒師、明石照日が某県某所へ赴き悪霊が出るという噂のある心霊スポットで除霊を敢行するという筋立てらしい。配信がスタートしたのはつい一時間ほど前で、俺達が現場から帰宅してきたまさにそのタイミングだ。嫌な符合だなあ、と不吉なものを感じたがとりあえず閲覧を続ける。
除霊は神棚を豪華にして雛壇と掛け合わせてみました、みたいな感じの飾りの前で、霊媒師の人がひたすら呪文らしきものを唱えつつ踊り狂うというものだ。一種のトランスに入っているのか、独特の韻律で紡がれる呪文は歌のようで美しいのだが、長い髪を振り乱しながら勢いよく床板を踏みつけて暴れる様はちょっと怖い。除霊には本人だけではなくスタッフらしき人間も複数参加しており、和太鼓を叩いたり龍笛を吹いたり三線をかき鳴らしたりと呪文に合わせてサポートしている。
活況なコメントチャット欄には、おそらく本当に視えているのだろう人間による、悪霊がもがき苦しんでいるとの報告が上がってきていた。他にも伴奏する楽器にはこれこれこういう意味があるのだとかいう有識者による解説、野次馬のしょうもない下ネタや上手いこと言ったつもりのおサムいギャグ、荒らしのものと思われる意味不明な文字列の連投など、なかなかのカオスである。まあ時間帯が時間帯なので、穏やかな雰囲気にならないのは当然といえば当然かもしれない。
チャット欄は次第に、明石照日は果たして本物かどうかというテーマで盛り上がり始めた。もはや配信内容などそっちのけだ。すっかり信じ込んでいるらしい、俗にいう信者と呼ばれていそうなファン達があれこれ理論武装を並べ立てるものの、片っ端から否定派に論破されているので軍配がどちらに上がるかは明らかだった。その間にも明石照日の除霊はどんどんヒートアップしていき、ついに護摩焚きが始まる。廃墟とはいえ屋内で火を扱ったりして大丈夫なんだろうか。どうやらお決まりのパターンなのか、視聴者が心配するコメントを打つ様子はない。
詠唱が祝詞からお経に切り替わり、いよいよ総仕上げに入る。論戦に興じていたチャット欄もクライマックスに沸き始め、有識者による解説や考察で溢れかえっていた。他にも明石照日を応援するコメントが、目で追い切れないくらい次々と打ち込まれていく。
その中に、気になる名前があった。おそらく本名名義のアカウントで閲覧しているのだろう、アイコンに表示された「四角」という苗字。つい最近、同じ名前の人間と知り合ったはずだ。そう、針間とよく話している同級生の姉妹。この時間に彼女達のどちらかは起きていて、同じ配信を見ている。気づけばそいつのコメントに返信していた。ややあって俺のリプライに気づいたのか、更に返信が返ってくる。それで確証を得た。この霊媒師は、「なにか」がおかしいということに。
◆◆◆
翌日。朝っぱらから朝食の用意や洗濯など家事に追われる針間に叩き起こされて目が覚めた。ビジネスホテルを点々としていた頃はチェックアウトの時間に合わせて起床すればよかったので、こんな健康的な生活なんてずいぶん久しぶりだった。針間は見かけによらず甘党らしく、朝ごはんにフレンチトーストとフルーツヨーグルト、カフェオレというメニューである。
前日から濃いめに仕込んだ卵液に漬け込み、バターをたっぷり使ってこってり焼き上げたフレンチトーストは、なかなかヘビーなカロリーだがさすがにおいしい。付け合わせも大きめにカットした生のフルーツを数種類、無糖のヨーグルトに浸して果物の甘さを溶け込ませているという手の込んだもので、こいつはもしやその辺の女子より女子力が高いんじゃなかろうか。ちなみに昼食も毎回手作り弁当を持ってきているらしい。いい嫁さんになりそう。
針間謹製豪華朝食を楽しみ、俺は午前中をバイト探しに当てて午後から登校することにした。稼げるが危険の多い闇バイト系ではなく、多少時給が低くてもまともな職場を探せと針間に厳命されてしまい、しょうがなく面接先に選んだのは隣町にあるチェーンのカフェである。外面の良さには自信があるのと、ちょうどバイトが一人辞めてしまい人手不足で困っていたところらしく、その場で即採用された。ちょろいもんだ。
深夜手当がつく時間帯までには店を閉めてしまうので思ったほどには稼げないけど、針間に言われた通り「まともな」仕事だ。ほくほく顔で重役登校すると、せっかく受かったことを報告しようと思ったのに肝心の針間は昼休み前に早退していた。朝の時点ではフケると聞いてなかったので、何か緊急事態でも起きたのだろうか。俺も抜けた方がいいのかと慌ててメッセージを送ってみるものの、なかなか既読がつかない。もしかして通知をチェックする暇もないのだろうか。
さすがに昨日の今日なので合鍵など受け取っていない以上、本人が帰宅してくれなければ俺は家に帰れない。参ったなあ、とこれからどうしようか考えあぐねていると、先日路地裏で絡まれていたところに遭遇した双子の姉妹──四角渚と美咲のコンビと出くわした。渚ちゃんの方は学校指定の制服であるセーラー服の上にカーディガンを羽織っており、美咲ちゃんは私服であろうブレザータイプのなんちゃって制服を着こなしている。
二人の姿を見たことで、ほとんど脳内から消えかけていた昨夜のやり取りを思い出す。例の胡散臭い霊媒師による除霊動画。チャット欄に書き込まれたコメントの一つに、四角という苗字のユーザーがいた。あれは一体、姉と妹、どちらの手によるものだったのだろう。
「よお。遅かったじゃん。なんかあった?」
「あー……バイトの面接行ってて。それより昨日は大丈夫だった?」
「へーきへーき。あんなんよくあることだし。あたしら二人でいると目立つから、しょっちゅう絡まれるんだよね。だから渚とはなるべく別行動するようにはしてるんだけどさ」
「もー! そうやってわたしをハブるのやだっていっつも言ってるじゃん! みーちゃんのいけず!」
「まともに自衛できるようになってからほざけ、馬鹿渚。……ごめんね、こいつったら未だに甘ったれでさあ。もう、まったくしっかりしなよね。姉はあんたの方でしょ」
「……仲良いんだな、あんたら。俺は一人っ子だから、ちょっと羨ましいかも」
「喧嘩ばっかりだよ。歳も近いし、ってか双子だから同じ歳なんだけどね。そういや、あいつは?」
「針間のこと? 今日は早退したんだってさ」
「そっか……相談したいことがあったんだけどな。ごめんね、急に話しかけちゃって。また今度ゆっくり話そ。行くよ渚、いつまで机にしがみついてんの」
「やーだー! せっかくすいくんと仲良くなったんだしもうちょっと話そうよー!」
「いい加減にしろ。相手にだって用事があんだから迷惑かけちゃダメでしょ。ほら、早く教室戻るよ」
「……あの! そのことなんだけどさ、今日ってこのあと時間ある? 放課後もし空いてたら、その……」
クラスではどうしても人目についてしまう。あの件について訊ねるなら場所を移すしかない。姉の方はピンときてないのか頭にクエスチョンマークを浮かべているようだったが、幸い妹の方は心当たりがあるらしく、分かったとすぐに了承してくれた。連絡先を交換し、放課後また教室で落ち合うことにして別れる。
短い休憩時間が終わり、本日最後の授業になるが相変わらずこのクラスの連中にやる気はない。担任の八雲とかいうおばさん教師も熱意に欠けているのは同じで、寝ている生徒や内職中の生徒、堂々とスマートフォンを弄っているやつがいても見て見ぬふりだ。いつものこととはいえ、根は真面目なタチである針間があまり教室に居たがらないのもちょっと頷ける。
だらけきった空気の中、授業が終わるとホームルームにそのまま移行するがこれはスルーし、昨日針間と待ち合わせをしたあの喫茶店で待っていることを姉妹に伝えて学校を出る。一応、針間にも帰りは遅くなる旨をメッセージで送ってみたが、返信が来る様子はない。それどころか最初のメッセージも読まれずじまいだった。一体どこで何をしているのやら。
この前と同じ席を選んで腰を下ろし、先にドリンクを注文する。アイスコーヒーかアイスラテで迷って、結局冷たいカフェラテに決める。腰の曲がったおばあちゃん店主がおっかなびっくりメニューを運んでくるのと、四角姉妹が来店してくるのはほぼ同時だった。
グラスが目の前に置かれたタイミングで追加をオーダーし、姉の方はホットのミルクティー、妹は水出しのアイスコーヒーをそれぞれチョイスした。全員分の飲み物が無事揃ったところで、さっそく本題に入る。
「……昨日の、あのコメントってお前らのうち、どっちが送ったんだ?」
「コメントぉ? 何それ。みーちゃん知ってる?」
「ああそれ、あたし。やっぱりあの返信って七種だったんだ。知らないやつのはずなのに、なんかデジャビュったからおかしいなーとは思ったんだよね」
「やっぱりか……四角なんて珍しい苗字だから、まさかなーって思ってたんだけどさ。お前らも気づいてたのか? あの動画のヤバさに」
「えーなになに、昨日は疲れて帰ってソッコー寝てたからわかんない。みーちゃんあとで見してよお」
「はいはい、あとでね。あんたも察知してたんだ……ってことは、もしかして視える側の人間?」
「今はな。視えるようになったのは、つい最近だ」
「そっか。だから勇次郎と一緒にいるんだね」
何やら一人で納得がいった様子でうんうんと頷いている美咲ちゃんだが、俺も渚ちゃんもさっぱりわけが分からず互いに顔を見合わせる羽目になった。事情をイマイチ把握できていない俺らに、彼女は手短に自分達のことを明かしてくれた。
「あたしらは双子なんだけど、双子って普通のきょうだいより魂の結びつきが強いんだって。すると片方が持ってる素質が相手にも移っちゃうことがあるんだってさ。うちらの場合、生まれつき力があったのはあたしの方。同じお腹の中にいた渚にも力が移ってしまった可能性が高い……って昔、ある人に言われた」
「今のところ、わたしは特になーんも視えないんだけどね。みーちゃんが羨ましいよう、逆だったらよかったのになあ。そしたらみーちゃんは怖いものなんか全然見なくて済んで、わたしだけが好きなだけいっぱい、あいつらのことを見れたのに」
「そしたらどっちみちあんたの力があたしに移ることになるんだから同じでしょ、バカ渚」
「む。そんなことないもん。今の時点でわたしがなんともないってことは、いつか視えるようになるとは限らないじゃん。それにそうと決まったわけじゃないでしょ、これからどうなってくかはわかんないって、あの人にもはっきり言われたでしょ?」
「……あの人? 誰そいつ、俺の知ってる人か?」
「ゆーくんのおにーさん。まといさんっていうの。もうね、すんごい人なんだよー! 視えるだけじゃなくて、なんと祓いもできちゃうんだ! 見鬼持ちの人間ってだけなら意外と珍しくないんだけど、祓いまで可能な人って滅多にいないんだ」
「あたしらが纏さんと会ったのは一度きりだけどね。そんとき勇次郎を紹介されたの。もし何か困り事や不安なことがあったら相談してみるといいって。あいつも体質に苦労してるというか、まあ仲間意識もあるし」
「これ、言うかどうか少し迷ったんだけど、きっとすいくんは知ってた方がいいと思うから。一応、念のために教えとくね。今ゆーくんとルームシェアしてるってゆーくん本人から聞いたから。……あのね、あの子には力があるの。すごく強くて、ゆーくん一人だけではどうにもならないくらい。それは……一緒にいる人の目を変えてしまう、っていうものなの。心当たり、たぶんあるでしょ?」
そう、まさにそれこそが四角姉妹への用件だった。前のバイトができなくなって仕方なく登校するようになってから、時折変なものを見る瞬間が増えた。それは大抵、あまり人っぽくない形をしている。目玉がいくつもあったり、逆に目玉がないか一つだけだったり、手足が何本か欠けていたり、むしろ余計に多かったり、肌がまだらの青紫や緑色をしていたり。
厄介なのは生きている人間にそっくりな、ほとんど差異を見つけられないものもいることだった。それがとっくに生きてないと気づかず、何度か普通に話しかけてしまったこともある。普段は必死に見ないふりをしているからさほど問題はないけど、ごく稀に化け物に目をつけられかけたこともあった。あいつらは視線に敏感で、視られることを酷く嫌うらしい。
そうなった原因が分からず悩んでいたが、まさかそれが隣席の針間のせいだったとは。もしや風呂場で目にしたものも、あいつと距離が近づいたのが理由なのだろうか。正直ルームシェアを解消したくなってきたが、とはいえ他に行き場がない以上、同居を続けるしかない。金もない未成年が居着ける場所など限られている。家出してきた同世代のやつらと共同でホテルでも借りられればいいが、最近のホテルは未成年の長期滞在を拒否しがちだ。まあ針間んちの居心地の良さも理由の一つではあるけど。
「ゆーくんはねえ、わたしら視える人間の中でも一際よく視えるの。視えすぎてむしろ見なくていいものまで見てしまうし、ゆーくんの近くにいる人間も余波を受けて視えるようになっちゃう。軽度ならゆーくんから離れちゃえばすぐおさまるけど、すいくんみたいにもう染み付いちゃった子は……」
「……残念だけど、あんたの場合はどうにもならない。長く近くに居すぎたせいだと思う。席が隣になったくらいじゃさほどでもないけど、一緒に住んでるんじゃ手遅れってとこかな。あの人なら、何か方法を知ってるかもしれないけど」
「んー、でもまといさん、ちゃんと依頼してこない人の案件は受けないって言ってたよ? もしかしたら、ゆーくん経由なら会ってくれるかも!」
「ってことだから、何か困り事があれば纏さんに連絡したらいいと思う。あたしらが勝手に連絡先を教えるわけにはいかないから、頑張って勇次郎から聞き出してね。そんじゃそろそろ帰るわ、ほら行くよー渚」
「待ってよみーちゃんッ、まだ飲み終わってないー!」
美咲ちゃんに首根っこ掴まれてずるずる引きずられていく渚ちゃんが、退店前にえいっと投げて寄越したのは、二人の名前が記載された名刺だった。なかなか凝ったデザインで、SNSのアカウントと電話番号がそれぞれ添えられている。
「それねー、気に入った子にしか渡さないことにしてるの。名乗り忘れたけど、わたしは見習いエクソシストの四角渚ですっ、悪魔に取り憑かれたらいつでも言って! できる範囲で祓うから!」
……なるほど。名刺の肩書きにもしっかり「祓魔師(見習い)」とある。が、妹の方──美咲ちゃんの役職欄は空欄のままだった。そのことについて訊ねる間もなく二人は店からいなくなってしまい、俺一人だけが残っている。支払いを済ませ、帰宅すると、既に玄関の鍵が開いていた。相変わらず既読はつかないままだが、いつの間にか先に帰ってきていたらしい。
部屋着でリビングに寝っ転がっていた針間がだるそうに起き上がる。シャワーでも浴びていたのか、まだ乾ききらない濡れ髪が南に面した採光窓から差す西日を受け、ぎらついてみえる。ラグに水滴が染み込むのも嫌なのでタオルを投げて渡すと、素直に受け取って髪を拭き始めた。
「おかえり。四角姉妹に会ってきたんだって?」
「そうだけど……お前に話したことあったっけ?」
「あいつらが今日お前と会うんだって帰り際自慢してきた。あー疲れた、朝から東北の山ん中駆けずり回る羽目になってさ、携帯の電波死んでて誰とも連絡つかないし」
「見習いってそんなとこまで行かされるのか?」
「暑くなってくるとなー、繁忙期なんだよ。人が足りねえの。そりゃもう猫の手も借りたいほどというか、オレみたいな半人前でも戦力に数えられる程度には、な」
「へえ、大変そう……あのさあ、ちょっと相談があるんだけど」
喫茶店での会話をそっくりそのまま針間に伝えてやると、彼は百匹くらいまとめて苦虫を噛み潰したような顔でその場に崩れ落ちた。スーパーでお菓子を買ってもらえなかった子供みたいに、床の上を転がり回らないだけマシかもしれない、というほどの嫌がりっぷりだ。何がそんなに嫌なのか分からず困惑していると、ようやく復活したらしい針間がとてつもなく嫌そうに説明する。
「あの二人が言った通り、纏は馴染みの客や知り合いが仲介した人間か、正当な手続きを踏んだ人間しか依頼を受け付けねえ。正当な手続きっていうのは、オレらみたいな術師に直接依頼するんじゃなくて、各術師の専属としてついてるバイヤーを介する方法だ。表の世界に堂々と顔や広告を出してるバイヤーなんてほとんどいねえし、素人にゃまずもって無理だな。となると結局は纏の常連客や顔見知りに間に立ってもらうしかない」
「その纏って人とあの姉妹は関わりがあるんだろ。なら、あいつらを経由してもよかったんじゃねえのか? なんであいつら、お前に頼めって言ってきたんだろうな」
「あいつらが纏側の人間だからだよちくしょう! どうせ纏がオレとの関係修復を望んでるとでも早合点して、仲直りさせようとでも企んでるんだろ、クソが余計なお世話なんだよ! ……あいつがオレなんかを贔屓するわけねえのに」
最後の言葉はどこか苦みを含んだものだった。針間らしくもない自嘲というか、自分への卑下がある気がして内心首を傾げる。まともに関わるようになってそんなに日が経ってないが、こいつは基本的に自信満々で強気で勝気で生意気なやつだと思う。少なくとも俺にはそうみえる。だが今の針間は、いつになく苦しんでいるようだった。
よほどその纏とかいう兄貴との間に、根深い確執があるんだろう。まあその兄という人は弟を助けるためにたくさんの人間を手にかけた過去を持つというから、兄にそんなことをさせたと気に病むのもわかるはわかるが。俺にきょうだいはいないから想像にはなるけど、針間がそうして自己嫌悪しているのと同じように、兄側も色んなものを抱えていそうだ。
「……なあ、俺、その纏ってひとにやっぱり会ってみようかなって思う」
「なんで……元はといえばオレが原因でもあるんだし、あいつの力に頼らなくたって、なんとかしてやるさ。無関係な人間を巻き込んだんだ、責任を取るのは当然だ。……それとも、オレじゃ頼りないっていうのか」
「そういうわけじゃないけど。いやまあ、この前の件みたいなことはもうコリゴリだけどさ。そうじゃなくて、俺もその……姉妹に賛成、みたいな。やっぱりお前ら、仲直りした方がいいって」
「……今更、もうどうでもいいよ。あいつになんて思われてようが、別に」
「なんでそう投げやりになんのかね。ていうか嫌われてること前提なんだ? それってありえなくね? だって好きでもないのに、たくさんの人間を手にかけてでもお前を守ると思う? なわけねーじゃん、俺なら見捨ててるって。そうじゃないってことは──」
「まさか。あいつはオレが大事だからオレを守ったんじゃない。そんな、わけ、ない……」
「そっかなー。まあいいや、とりあえずお前が仲介してくれよ。その辺のことも含めて一回ちゃんと話し合ったらいいんじゃないか? 俺もベテランのひとに診てもらえて助かるし」
「……そうかよ。仕方ねえな……」
言いつつさっそくスマートフォンでどこにか電話をかけ始めた針間は、通話相手と長々と話し込みはじめた。珍しく敬語なので兄本人ではない、別な人間に持ちかけているらしい。数分経ち、通話を切った彼はぶっきらぼうに、三日後の夕方なら時間が取れるってさ、と吐き捨てた。
「三日後かあ。多忙って聞いてたから、もっと先になっちゃうもんかと。意外と直近なんだなあ」
「あいつのスケジュールはいつでも分刻みだ。あのクソ忙しい纏がわざわざ予定変更してまで時間作ったってことだろ。……別に、そこまでしなくてもいいのに」
「まあまあ。お前も一緒に行ってくれるんだろ?」
「はあ!? なんでオレが! ……わかったよ、行けばいいんだろ、行けば。そんな子犬みてーな目で縋るように見つめてくんなよ……」
やれやれとでも言いたげな態度を前面に出しているが、その実嬉しそうなのは見ていてわかる。なんだかんだ言ってこいつは本気で兄貴を嫌ってるわけじゃない。ただ、どう接していいか測りかねているうちに互いの距離がどんどん開いてしまったんだろう。もしも、兄か弟、どちらかが二度と会えないような事態になったら。取り返しがつかなくなる。一度もまともに会って話せないうちにお別れなんて、そんなのあんまりだ。そうなる前に関係修復を急いだ姉妹はきっと正しい。
自分でもなんでこんなに針間と針間の兄貴との関係を心配しているのか分からないけど、ただ、なんとなくこいつには哀しみの涙を流してほしくなかった。ルームシェア相手が悲惨なことになっちまったんじゃ寝覚めが悪い、というのもあるにはあるが。友情ってやつがどんなもんか、まともに親友と呼べる間柄のやつなんていたことがないからよく知らないけど──こいつと友達になるっていうのは、なんだかあんまり悪くない気がした。
◆◆◆
約束通り、三日後の夕方。といっても夏場だから空はまだだいぶ明るい。眠らない街なんて呼ばれる都内最大の歓楽街も、この時間帯はまだ賑わいだす前で、客引きやスカウトの群れもさほどではない。忙しそうにせかせか働く黒服連中や歩道のあちこちにたむろする若者達を尻目に、向かった先は古めかしい商業ビルだ。年季の入った佇まいながら、バーやらキャバクラやらホストクラブやら、夜のお店がいくつもテナントに入っている。
一応これでも未成年なので、その手のお店のお世話になるような年齢ではない。ついつい物珍しさからキョロキョロ見回していると、不機嫌そうに眉間に皺を寄せた針間に脇腹を小突かれた。エントランスを抜け、ビルの奥にある非常階段から下へと降りて行くと、曇りガラスの嵌め込まれた木製のドアに手製と思しき看板がぶら下がっている。「針間霊障相談所」……なんだこりゃ、うさんくさいな。
「言われた通り連れてきた。纏、本当にこいつの眼を元に戻せるんだろうな」
ノックもなしにドアを開けるなり、怒鳴り散らす勢いで針間のやつは言い放った。ギョッとした俺が慌ててとりなそうとしたそのとき、だらしなくソファに横たわっていた男がむくりと上体を起こす。ひどくだるそうで、青白い肌からは血の気が感じられない。おばけ退治の業者というより、この人の方がよっぽどおばけみたいだ。
床面積自体は広いのに調度品が多いせいで狭苦しい室内は、異様な散らかり方をしていた。荒れ放題なのに生活感がない。山ほどの書類や本が積み上がったデスクといい、古文書らしき和綴じの本や辞書みたいに分厚い本が隙間なく詰め込まれた本棚やキャビネットといい、日頃から実用されているというよりドラマのセットのようなのだ。針間からはここが纏という人の事務所兼自宅だと事前に聞かされていたが、とても実際に住んでいるようには見えない。
「うるさ……そんなデケェ声出すんじゃねえよ。隣の客人が驚くだろうが。……あー、まあ座れ、二人とも。勇次郎お前もだ、逃げんなよ」
「……誰がッ、逃げるものか!」
「ど、どうも……あの、俺、七種翠っていいます……今はこいつのアパートに世話んなってて、それで、あの、本当に……おばけ、見えなくできるんすか」
「んー……どうだろうな、人によりけり、かもね」
しどろもどろに挨拶と自己紹介を兼ね、現状を説明すると、眠いのか据わった目をした彼はじい、と俺の両目に焦点を当て、まっすぐに見つめてきた。針間もだけど、この人も不思議な目をしている。根元まで白い、色のないまつ毛に縁取られた瞳もまた、色素を極限まで削ぎ落とされていた。あいつが猛禽類だとしたら、この人の目はネコ科の猛獣のようだ。
女子ならともかく同性の美醜にはさして興味がない俺でさえ、恐ろしいほど顔が整っているなと思う。鬼気迫る美人とはこういう人間をいうのだろう。ただし目立つタイプの美形ではないので、髪を黒染めしてその辺の若造と似たようなファッションをしたら、すぐには見つけられないかもしれない。
下ろしたままの長い髪を背中に垂らし、ワイシャツに黒いネクタイを引っかけ、同じく黒いスラックスから素足を晒している青年は、パッと見では俺らよりずいぶん年上の同性だと判別できない。どうみても学生にしか思えないほど若々しいアラサーなんかいてたまるか。居心地の悪さを覚えつつ、正面からガン見してくるのに耐えていると、ようやく満足したのか解放してくれた。
「それで……あの、どうなんでしょう? 俺、元に戻れるんすか?」
「一応聞くけど、元に戻るってのは、完全に見えなくしちゃうってことでいいの?」
「そ、そうです! 昨夜も風呂はいってるとき変なもん見たし、あんなんゴリゴリっすよ、怖いし不気味だし取り憑かれたらシャレんなんねーし」
「ふーん……でもさ、お前が視えるようになったきっかけ作ったのはそこの馬鹿かもだけど、案外自業自得かもよ。だって、配ったろ。アレを」
「アレ……って」
「呪物。コインやらアクセやらお守りやらに偽装したやつ。ま、もう今は関わってねえみたいだけど、匂いはしつこくこびりついたまんまなんだよね。いやあ、悪いことってのはするもんじゃねえよなあ。とっくに足洗ったつもりでも、どこかで綻びってのは出てくるんだから。なあ、気づいてないとでも思ったか? お前らクソガキがなんも知らねえでバラマキまくったあれを全て回収して処理したのは、私ら術師だよ」
──バレてる。全部。今までの悪事の全て、何もかもが。背中を冷や汗でびっしょり濡らしたままの俺へ、纏は更に畳みかけた。
「呪物が世に出回れば、それらは厄を招く。元来、私のような人間以外は触れてはいけないものだ。それを知識のない人間が我欲のみで扱えばとうなるか、もう分かるだろう。だから根こそぎ回収した。一つ残らずだ。お前ら下っ端に干渉しなかったのは、使い捨てだと分かっていたからだ。どうせ首謀者の情報など何一つ取れないと判断したからにすぎない。実際、お前はお前を雇用した『センパイ』とやらについても無知だろう」
「そ、そのことは……ごめんなさい、謝ります。俺、なんも知らなくて……呪物ってことも、呪物がどんだけヤバい代物なのかも。針間……勇次郎に教えてもらわなかったら、ずっと自分が何をしでかしたか、わかんないまんまだったかもしれない。でも! そのことは、ちゃんと償います。俺にできるかもわかんねえし、もしかしたらできないかもだけど……でも、がんばります。許してくれとは、言えねえけど、いつか許してもらえるまで」
単に金が欲しいだけだった。金を欲しがる切実な理由があった。そのためならば、どんな手段を使うことになったっていいと投げやりになっていた。たとえば自分が誰かの健康や、人生や、命を損なうことになるかもしれないだなんて、考えているようでちっとも考えてなんかなかった。それがどれだけ重いことで、自分一人でどうにかなるようなものじゃないって、ちっとも分かっていなかった。否、分かろうともしなかった。
力が、金という名の力が欲しいあまりに、俺は一度、絶対に外れちゃいけない道から外れた。強制的に裏道を絶たれたから元の道に戻れただけで、本当ならそのまま真っ逆さまに落ちていくはずだった。運が良かっただけなんだ。だけど俺が行くかもしれなかったルートに、先に行ってしまった人はたくさんいるんだろう。もしかしたら俺のせいで追い落とされて向かっていった人だって。その人達全員に謝るのも償うのも、きっと無理だ。無理だけど、やらなくちゃいけない。そういう場所に今、俺はいる。
「……ふーん、おもしれーやつ。なあ勇次郎、お前のダチしばらく借りんぞ」
「はあ? 意味わかんねえ、どういうことだよ」
「大丈夫だって。別に監禁とかそういう意味じゃなくて、ちょっと仕事を手伝ってもらおうかなって。それで依頼料はチャラにしてやる。なかなか肝の太いやつだし、うちの仕事も多少は務まるだろー」
「無茶言うな! そもそもカタギをこっちの世界に巻き込むのはご法度だろうが! こいつはオレのせいで見なくていいもん視えるようになっちまってんだ、だったらそれを先に解決すんのが筋だろ!?」
「馬鹿を言え。ただの人間が、お前と数日一緒にいた程度ですぐに視えるようになると本気で思ってんのか? こいつは自ら呪物に関わっていた。その時点で回路はとっくに開きかけていた。お前は、こいつの眼が完全に開くためのトリガーでしかない」
「だとしても……ッ、オレは反対だ。いくら視えるっていったって、祓う力もないんじゃ邪魔になるだけだろ。七種を危険に晒すのも、七種を庇ってお前が……っ」
「──見くびるなよ。小童が」
纏はひどく冷ややかに弟を睨めつけた。なんの感情もない、怒りも侮蔑も嘲りも、その全てを混ぜて溶かして均したらきっとこんな色になるんだろう、というような、いやに乾いた眼をしていた。兄が弟を見ているんじゃない、神様が人間を見下ろしている、そんな風に映った。
「いつから私に意見できる立場になった? まともに祓う力を持たないくせに、くだらない意地を張って術師になるなど戯言をほざいたのはどこの誰だ。相棒といえば聞こえはいいが、無二の幼なじみに負担をかけるだけかけて大した対価も支払えない、おんぶにだっこのお前がずいぶんとデカい口を利くようになったな。お前が成すべきことは、針間の名を汚さぬよう修練し己を磨くことだろう。一丁前に私を心配するなどというつまらん戯言を吐く前に、少しは祓いを自力で行えるようになったらどうだ」
ぐうの音も出ないってのはこのことを言うんだろうな、というくらい針間は見たことがないくらい顔をぐしゃぐしゃに歪めていた。せっかくの隠れイケメンなのに、とちょっと思ったがもちろん口には出さない。今にも泣き出してしまいそうな、決壊寸前の目は、それでも逸らすことなく兄をまっすぐに見据えている。奇しくもその目の光は、さっきまで纏が俺へと向けていたものと、よく似ていた。
「弟が……兄貴を心配しちゃいけねえってのかよ。昔っからあんたはいつもそうだ、強いからって自分でなんでも背負っちまいやがる! ああそうかい、そんなにオレは頼りないか。だったらいい。好きにしろ、オレはオレで勝手にやってやる」
「えっ、あの、待っ──……行っちまった。どうすんだこれ。このあと俺はどこで寝泊まりすりゃいいってんだよ。まったく」
「んー……うちには客人を泊められるような部屋なんかないからなあ。ま、あとで連絡入れれば部屋に上げてくれるさ。あいつは生意気だし強情だし意地っ張りだけど、一度懐に入れた人間には甘いからなあ」
弟が足音高く事務所を出ていった瞬間、さっきまでの冷淡な表情をコロッと変え、にこにこと笑う纏は鼻歌混じりにインスタントながらコーヒーを淹れてくれた。が、どんだけ粉をぶち込めばこんなに苦く仕上がるのか、というくらい濃ゆい。牛乳はなかったがかろうじて砂糖は戸棚の奥に隠れていたのでお借りして、大量に投入する。今度は入れすぎたのか、逆にコーヒーななのかコーヒー風味の砂糖水なのか判断しづらいほど甘ったるくなってしまったが、苦いよりはまだいい。あとこの人、鼻歌下手くそだな。
「と、コーヒーブレイクも済んだことだし、そろそろ仕事の話をしよう。お前が過去、雇われていたという人間──『センパイ』を捜し出す。そして呪物の供給源を断つ。お前にはそれに協力してもらうぞ、言っとくが返事はイエスかハイのどちらかだけだ」