見出し画像

くらやみの眸⑤【完結】

 あくる日、俺は同級生のお兄さんというほぼ他人と言って差し支えない相手と共に、以前彼の弟である針間勇次郎と訪れたことのある廃ビルへ来ていた。だだっ広い、一面の更地の真ん中にぽつんと建つ洒落たデザインのビルディングは何度見ても異様だ。現在時刻が昼日中なのが唯一の安心材料かもしれない。前みたいに草木も眠る丑三つ時に連れてこられていたら泣いて嫌がった自信がある。その同行者、針間纏はやはり平然としていた。さして美味くもなさそうに煙草を咥えていて、眉間に皺を寄せたしかめっ面をさらしている。

「……あのクソガキ、中途半端に放り投げやがって」
「あんとき、依頼人ってひとから電話かかってきて、もうこの件に関わるなって忠告されたそうっすよ」
「あ、そう。それで放置したんだ。だったら信頼できそうな同業に引き継ぐとかしろよ。……あのバカに現場任せるなんてまだ早い、どうせ後始末するのは私の仕事になるのは決まってんのに」

 舌打ちする彼は俺より年嵩のはずだが、頭一つ分低い位置に頭がある。学ランでも着せたら中学生と言い張ることだってできそう。それくらい若々しくみえた。照りつける真夏の日差しをものともせず、色白の肌は汗ひとつかいていない。こんな時期に喪服みたいな真っ黒いスーツで、しかもネクタイまで黒だなんて、まるで霊媒師というより死神みたいだ。寒気を催すほど冷たく整った美貌は不機嫌そうな無表情で、体格では俺の方が勝るはずなのにとてつもないプレッシャーを横にいても感じる。
 吸い終わった煙草を携帯灰皿に押しつけて火を消した纏は、俺に未開封のミネラルウォーターのペットボトルを押しつけると、堂々と正面玄関から侵入した。慌ててついていくが、身長の割にコンパスが広いのか、なかなか追いつけない。相手は歩いているのにこちらは走って追いかける羽目になった。既に見取り図は頭に入っているんだろう、足取りに迷いはなく、彼はまっすぐ非常階段を降りて下へ下へと下っていく。

「あのぉ、俺なんも聞いてないんですけど、なんでまたここに? 別に変な感じはしないけど」
「……ああ、今のお前は勇次郎のせいで擬似見鬼なんだったか。忘れるところだった。別に、ここに仕事しに来たわけじゃない。祓いの対象となるものはもうない。成仏、って言い方はあまり好きじゃないが、分かりやすく説明するなら、おそらくそうなっているだろう。行くべきところへ既に行った。だから悪さするものは、ここにはいない」
「……じゃあ、なんで?」
「見たと言ったろう。お前達が。位牌と遺影のない仏壇、そして空っぽの木棺を」
「確かに見ましたけど……それが何か?」
「必要のない間引きを行い、死者の恨みつらみを利用して子供の遺骸を呪物とする蠱物は、近年ではあまり見られなくなったが確かに存在する。ああいうのは、適切に対処しなければ無関係な人間にも害を及ぼす。死者の数、殺され方、造り手の怨念、そういったものが複合的に作用することで威力は想定を超えて凄まじいものになる場合も多い。そうなるともう誰にも手がつけられない」
「……まさかと思いますけど、勇次郎に手を引けって依頼人がわざわざ連絡してきたのは」
「十中八九そうだろうな。勇次郎には荷が重いと判断した。逃がさざるを得なかった。なぜだかわかるか。あいつが紛れもない針間直系の子供であり、この私の実弟だからだ。……不幸中の幸いってやつだが、私の悪名はこの業界の端の端まで轟いている。どんな悪童も報復を恐れて無闇と私の係累に手を出すことはない。あの子は命拾いをした。その幸運が続くのも、私がくたばるか、あるいは私がただの人間に成り下がるまでの間に限られるが」

 力持ちであるようには見えないのに、重たい鉄扉を軽々と開け放った纏は、ドアストッパーで簡単に閉じないようロックする。俺と勇次郎が一緒に来た時は勝手に閉まったくせに、今回は大人しく纏に従うようで、ドアロックが外れる様子はない。生身の人間だけでなく、ここに巣食うものにも怯えられているってことだろう。このひとは過去に何をしでかしたんだろうか。
 一瞬で偽装を見破り、隠し仏壇を見つけ出した纏はじっくり検分したのち、今度は隠し部屋の木棺も即座に発見した。躊躇なく蓋を開け、中身ががらんどうなのを確かめる。どちらもあの日見たものと全く同じだ。何か違和感があるようには思えない。それとも歴戦の猛者である纏にしか分からないことでもあるんだろうか、と怖々見守っていると、突然纏は棺をひっくり返した。
 ばさばさと棺の中に敷かれていた白絹の布と共に中身が入ったままだと思われる封筒が落っこちてくる。糊付けされているそれを纏はなんの躊躇いもなく開封した。かわいらしいデザインの封筒に収められていたのは、丸っこい筆跡で書かれた手紙と一枚の写真だ。カメラに向かってピースする、小さな男の子と彼を抱き上げている女性。顔立ちがよく似ているのできっと親子だろう。
 手紙の方は、母親が幼くして死んだ息子へ宛てて書いたものと思われた。生まれた瞬間から死ぬ直前に至るまでの思い出話に始まり、切々と息子への愛情と死の哀しみについて書き記されている。まともな情緒を持つ人なら釣られて涙しただろうが、ここには人間らしい感情をドブに捨ててきた冷血野郎しかいないので、一読してもふーんというたった三文字しか思い浮かばない。
 問題は、文面中に死んだ息子の名前と死因が記載されていることだ。便箋三枚分もの文章をそのまま読むのは長いし面倒なので簡単に要約すると、死んだのは圭一という名前の小学生の男児で、直接の死因は事故のようだ。登校中に制限速度を無視して走行していた自動車に撥ねられ、ほぼ即死という痛ましいものだが、直近五年間に遡ってそれらしき新聞記事やネットニュースを検索してみるものの、それっぽいトピックはなかなかヒットしない。苗字が文章内に出てこないのでフルネームで検索できず、むしろ当たり判定がでかいというのもあるが。

「……纏さん、なんかわかったっすか? 試しにネットで調べても全然出てこないんだけど……ほんとにこのガキって事故で死んだんか?」
「さあな。何かしらの術でそう思い込ませれている可能性はある。とはいえ、その魂は先ほども言ったが行くべきところへ辿り着いている。問題は残った器だ」
「死体ってこと? 普通に考えてとっくに火葬されてんじゃねえの。いつ死んだかは知らねえけど、死体って腐るじゃん。そんな何ヶ月もそのまま保存とか無理っしょ。あ、でもミイラにすればいける?」
「子供というのはあちらの世界との繋がりが強い。呪物として加工するにはうってつけの素材だ。火葬の直前に偽物とすり替え、親には我が子と信じ込ませたまま本物を持ち帰り、エンバーミングを施す。そこへ恨みつらみを抱いて死んだ者の魂を移し、仮名を与えて使役する……まあよくある方法だ。こちらではあまり見ないが、大陸の方じゃかなりポピュラーだったりするな」
「圭一くんって子はミイラにされちまったんか……今はどうなってんだろ」
「まさかミイラそのものを連れ歩くわけないだろう。ものすごく目立つし、物質としてそこにあるわけだから一般人にも普通に見えてしまう。無論、外に持ち出せば映像や画像で証拠も残る。だからバラした。呪物に作り替えた人間と、それを腑分けして量産した人間、そしてそれを卸し、ばらまいた者達……後者に関してはお前が請け負っていた闇バイトがそれに当たるが」

 嫌な予感はずっとしていた。この人にも、勇次郎にも何度も指摘されていたから。だけど改めて突きつけられる。金欲しさにリスクを承知で引き受けた仕事の裏に、被害者は確かにいて、更に多くの被害者を生むんだってこと。わかっていたし、痛感したつもりでいた。でもつもりなだけだった。俺は何度、同じ後悔を繰り返せばいいんだろう。

「……どうすれば、この子に償える?」
「無理だろ。こんなビジネス、表じゃ存在してないことになっている。法の下に裁くにしたって、どんな罪状を当てはめるというんだ? 簡単に贖罪が叶うなどと思い上がるなよ。そもそもお前は何も知らず知らされず、ただ言われるがまま何も考えず売り捌いただけだ。原因を作ったのは違う人間だ。呪物の作成を依頼した人物──そいつを捕まえなければ」
「捕まえてどうすんだ。殺すのか」
「使う。力ある人間は呪具を作るのにちょうどいい素材になるからな、骨でも皮膚でも内臓でも、なんなら血液でもいい。高値で買ってくれる人間もいる」
「それって呪物作ったやつと大して変わんないんじゃねーの? あんた、それわかって……」
「当たり前だろう。この業界に後暗くない人間なんているものか。全員、同じ穴の狢にすぎない。死後、自分をオモチャにされたくなきゃ、術師になんかならなきゃいい。まあ愚弟はそんなクソッタレな現実なんて知らないから、夢を見てられるんだろうがな」

 木棺を元に戻し、出るぞ、と促す纏について地上へ引き返す。途端、ひりつくような日差しがまともに肌へと突き刺さってきた。呼吸さえおぼつかなくなるような、濃密な熱気と湿気が皮膚にまといつく。陸にいるのに溺れてしまいそうだった。雲ひとつないカンカン照りの空は目に痛いくらいの深い青で、いっそゲリラ豪雨でもなんでもいいから一雨降ってくれやしないものかと願ってしまう。もはや暑すぎて蝉の音も聞こえない。
 自分の身長と変わらない草丈の雑草をかき分けて進み、ようやくアスファルトまで戻ってくるが、今度は照り返しが顔面目掛けて飛んできた。こうなると熱いというよりもう痛い。早く冷房の効いた部屋に帰りたい。こんな状況でも平然とした態度を崩さない、この酷暑をちっとも感じてなさそうな纏はたぶん人間じゃない。なんで汗すらかいてないんだよこいつ、化け物か?

「纏さーん……どっか休憩、休憩しましょ、つーか休みたい、早く涼みたい! こんなんじゃ干からびちまう!」
「ピーピーうっせえ、喚くな。オラ乗れ、次の現場行くぞ」
「まだどっか行くん……? てか、よく考えたらなんで俺まで一緒に行かされてんの?」
「したいんだろう、償いとやらを。だったら私の仕事を手伝え。式神はいるが、人間の助手はいなくてな。ちょうど使いっ走りを探してたとこだ」
「……これが償いになんの?」
「さあ? でもお前はくだらない罪悪感を発散できる上に小遣い稼ぎもできて嫌いな実家も出られる。私は体よくお前をパシってラクができる。ウィンウィンじゃないか。なんか文句でも?」
「ないけど……で、俺らどこに向かってんの?」
「持ち去られた死体を回収しに行く。大方加工されて各地に散らばっているが、唯一バラせず保管するしかない部位がある。それを見つけて、破壊する。それで他の呪物は機能を止める」

 纏の運転する四人乗りのセダンは軽快に都内の血管みたいな道路をすいすい走り抜け、やがて首都高へと入る。夏休み期間だからか下道よりもだいぶ混んではいるが、渋滞という程ではない。意外と堅実かつ丁寧な安全運転を心がけているらしい纏はスピードを出しすぎるということもなく、助手席で揺られているとつい寝落ちしてしまいそうだった。眠気を堪えていると、ハンドルを片手持ちしてもう片方の手で缶コーヒーを煽っていた纏が、鬱陶しげにいいから素直に寝てろ、と睨んだ。

「乗せてもらってんのに寝られるわけないじゃん……ってかマジで行先どこ? 東京から出るの?」
「横浜。あいつ大陸系だから大体長崎と神戸と横浜を行ったり来たりしてんだよ。夏場ならこっちに戻ってきてるはずだから事情聴取しに行く」
「その言い方的に、もしかして友達だったりすんの?」
「商売敵だよ。私に友人なんかいるわけないだろ」
「それ自分で言ってて悲しくなんない?」
「術師なんかみんなそんなもんだぞ。表で友人でも作ろうもんなら商売敵の仕掛けた呪詛に巻き込まれて死ぬか、最悪死ぬより惨い目に遭うからな。業界の人間としか基本的に関わらない。お前のような存在は珍しいから、連れていけばあいつも興味を示して私に会う気になるだろう」
「だから俺のこと引っ張ってったのか……」

 実は昨日から勇次郎のアパートを出て、纏の家に世話になっていた。しばらくしたら住民票も移す予定だ。家といっても以前案内してもらった歌舞伎町のど真ん中にある例のビルではなく、閑静な住宅街にある古い賃貸マンションの一室だった。纏は都内にいくつかセーフハウスを所有していて、そのうちの一つを使わせてもらえることになった。他の部屋は購入したはいいがほぼ手つかずで、人を住まわせるのは難しいらしい。
 ファミリータイプのマンションで風呂トイレ別、洋室がそれぞれ二つの2LDKで、片方は既に纏の自室として使用中なので、もう片方を自分の部屋として宛てがってもらった。自宅兼事務所だというあのビルの地下に生活感がないのも当たり前で、オフの日はここで暮らしているという。男性の一人暮らしにしては片付いているしインテリアも凝っていて綺麗だなと思えば、なんと仕事仲間がハウスキーピングもしてくれているとか。
 引っ越してきたその日もその仕事仲間とやらは手伝いに来てくれており、俺の家と勇次郎の部屋へそれぞれ置きっぱなしにしていた荷物を運び出すのを手助けしてくれた。纏専属で依頼の仲介をしている業者で、彼らのような仕事をしている人を俗に売人というらしい。丸っこい顔立ちの優しそうな中年のおじさんで、名前は鷺宮というらしい。その晩は鷺宮さんが夕食を振る舞ってくれて、元々食が細いわけではないけど自分でもびっくりするほど食べまくってしまった。逆に纏は食欲がないのか、あんまり手をつけてなかったけど。
 で、翌日(つまり今日)。夏休みなのをいいことに自室として貸し与えられた部屋でダラダラしてたら職場から突然帰宅してきた纏に引きずられる形であの廃ビルへ連れてこられ、今に至る。ちなみに俺の部屋はベッドとか机とか最低限の家具は備えつけられていたが、なんとなく意図は察してしまった。元は家を追い出された勇次郎を自宅に引き取る算段だったんだろう。本人が父親を頼って早々に独立してしまったためご破算になったが。
東京から横浜なんて目と鼻の先なので束の間のドライブはあっという間に終わり、中華街近くの駐車場に車を停めた纏は、俺を引っ張って表通りへ向かう。甘栗売りのおばちゃんやタピオカドリンクの屋台があちこちに点在し、煌びやか看板にミミズののたくったような書体で店名が掲げられた飲食店がずらりと立ち並ぶ。今よりガキの頃、何度か友達と遊びに来たことはあったかもしれない。あのときより格段に人は増えたし、なんか賑やかだ。
 でも用があるのはそこじゃない。観光客でごった返す様子をものともせず、纏は裏路地をいくつか抜け、居住区画へ入る。この辺りはさすがに静かで人気も少ない。みんな店がかきいれ時だから出払っているんだろう。古めかしいアパートがぎゅうぎゅうに押し込められ、表の喧噪とはまるで違う景色の中を纏は道案内でもされているかのように迷いのない足取りで進んでいく。
 やがて、狭苦しい街並みにぽつんと昭和のバラックを中華風にアレンジしたみたいな、ボロっちい小屋が見えてきた。今にも腐り落ちそうな小汚い看板には「のろい、まじない、うらない、なんでも承り〼『ほんらん』」とある。日本人男性の平均身長では到底入れなさそうな、建付けの悪い引き戸を蹴破る勢いで強引に開け、纏は大音声を響かせた。

「紅狼! いるんだろう! 居留守は使わせねえぞ、テメェが一枚噛んでんのは分かってんだ、大人しく白状しやがれ!」
「……ンモー、何ィ? 朝っぱらから煩いねェ、そんなだからキミ弟クンから嫌われるんだよォ」
「もう昼だが。いつまで寝腐ってんだ、毎日が夏休みってか、アァ? この半ニートが。いっちょまえに人間様を煽ろうとしてんじゃねえぞ」
「いちいち噛みつかないと会話もできないの? めんどくさいねェ、だいたいボクが何したっていうのさ、なーんもしてないよ? いつも通りお客様の言うことを聞いて汗水垂らして労働してるだけさ、それとも針間のおぼっちゃまは人様の健全な経済活動もダメと仰るってわけ?」
「健全じゃないから文句つけに来たんだろうが。いいから吐け、お前、この子に何をした?」

 言いつつ纏がスーツの胸ポケットから圭一という名の子供の写真を見せる。彼の手元からひったくった青年は、じいっとそれに見入っていたが、すぐに眉根を寄せて突っ返す。心当たりはないらしい。纏から紅狼と呼ばれた男は、漫画から抜け出てきたみたいに変な格好をしていた。屋内なのに色の濃いサングラスをかけ、おかっぱみたいな黒髪を肩口でぱっつんに切り揃えている。朱色と金を基調としたド派手なチャイナ服をまとっていて、ノースリーブから覗く鍛え上げられた両腕には、肩から手首にかけてビッシリと刺青が彫り込まれていた。奇矯な風貌が許される程度には顔面も整っていて、目元には紅を引いている。ゴージャスでうさんくさい男はニコニコと愛想良く笑っているけど、目は笑ってなかった。
 強引にお邪魔することになった紅狼のいる小屋の中はひどく狭苦しかった。木材を適当に繋ぎ合わせただけの風が吹けば飛んでいきそうな、ちゃっちいバラックには雑に板をくっつけただけの簡易カウンターテーブルがあって、ボロボロの丸椅子に腰かける男の背の裏には年号が平成のままの壁掛けカレンダーが捲られもせず壁板に下がっている。天井は二メートルもないだろう、これもトタンの板をとりあえず載せてあるといった感じで固定されているかも疑わしい。まだプレハブ小屋の方がマシというか、住めそうではある。九份なんかで見るような紅い灯篭など、ところどころ中華っぽく飾りつけているようだが、逆にチープに映った。

「名前は圭一。時期は不明だが、死後間もなく死体が呪物として作り替えられ、あちこちに出回っている。パーツごとにバラしたのは違う業者だろうが、元になる呪物を作成したのはお前だろう。ここいらで死霊術に精通した術師なんぞお前くらいしかいない。どこの誰から依頼を受けた? 洗いざらい全て吐け」
「無茶なこと言うねえ、無理に決まってるデショ。商売ってのは信用第一、つまり守秘義務とかいうやつは絶対遵守しなけりゃならないんだからさ、簡単にゲロっちまうような人間にゃ依頼なんて来なくなっちまうだろ。キミはボクに廃業しろって言うの?」
「お前なんかどうせ半ニートのホームレスなんだから今更仕事なんかなくなったところでどうもしないだろ。いっそケツの毛まで毟られてくたばれ」
「かっちーん。もうムカついたから何がなんでも黙秘してやる。あっそうだ、いいこと思いついた。キミの弟、ええっと勇次郎くんっていったっけ? あいつ何ヶ月か前ウチの末端として下請けの仕事してたよね! キミもご存知だろ? あの愚か者の身柄攫って地元のやつらに素材として売り飛ばしてやろうかな──あれれぇ? 嫌そーな顔してんねぇ! どうしたの、弟と仲悪いんじゃなかったの? なあ、そのクソみてえな態度を改めてくれんなら考え直してやってもいいよ」

 それって纏の地雷ワードじゃん命惜しくねえのかよ、と内心呆れていると、彼は深くため息を吐いて煙草に火を着けた。まさか土下座でもするのか、それともこの男を殺しにかかるのでは、と戦々恐々としつつも見守っていると、突如として火のついた煙草を自身の手の甲に押し付ける。じゅう、と皮膚の焼ける痛そうな音がした。ヤニの灰を被った、真新しい丸く焦げた火傷をこれでいいかとばかりに見せつける。

「ケジメはつけたぞ。次はお前の番だろ」
「ンフフ、やるねえ。まあ仕方ない、お前を怒らせて大陸にいるボクの家族や大家にまで手を出されちゃかなわんからね、しょうがないけど教えてやるよ」
「ちょ、纏さん! その傷……っ」
「あ? ほっとけ。そのうち治る」
「バカ、火傷甘く見んな! 早く冷やさねえと」
「すぐ治るつってんだろ。ほら」

 慌てて手の甲を覗き込むが、さっきの根性焼きが嘘みたいに綺麗に火傷の痕はなくなっていた。馬鹿な、いくらなんでも早すぎる。そんなすぐに傷が治るものか。たらりと首筋に嫌な汗が伝った。今日ずっと一緒に行動していて、妙だなと感じることは多々あった。でも、この茹だるような暑さをものともしていなかったのは、単に暑さに強いだけなのかとも思っていた。だけど違った。そんな甘いもんじゃない。こいつは正真正銘、化け物だ。人間じゃない。

「分かったか? だったら黙ってろ。商談の最中だ」
「話は済んだー? じゃあ教えるよ。ボクに依頼してきたのは『キャンディ・ポット』っつー呪詛屋だ。ボクだけじゃない、色んな術師と取引してて、呪詛だの呪物だのたくさん買い付けてる。この子供の死体を使って作った呪物もそいつがオーダーしたやつだ。ちょっと吹っかけてやったのにさ、あいつ値切りもしねえで言い値の五百万で買い取ってくれたよ。いやあ、ボロい商売だったなあ」
「……呪詛屋? って何? 祓い屋とは違うの?」
「呪い師、ともいうねえ。というかそっちの方がポピュラーかも。ボクら術師は色んな術を扱うけど、呪詛屋は特に人を傷つけたり、苦しめるような術を使うんだ。そこの正義の味方気取りみたいに、呪術を善き方向に使えば人を守ったりできるけど、悪しきことに用いれば簡単に人を殺せる。それも惨たらしく、より苦痛を伴う形でね。キャンディ・ポットはその典型みたいな呪詛屋だけど、あいつはたぶん……術師じゃない」
「……どういうことだ? 呪い師が術を使えないなんて聞いたことがない」
「だから珍しいんだよ。たぶん契約かなんかしてんじゃないかなあ。術の知識はあっても行使はできない。霊力を吸い取られてんのか、封じられてんのか……そこまでは判別できなかったけど。だから買い集めてるんだろうね。色んな術師のノウハウとか、呪物みたいな特定の呪詛に対応するアイテムを。キャンディ・ポットって通り名もそこから来てんのかもねえ」

 顎先に手をやって思案する素振りを見せた紅狼とかいう術師は、卓上にあるメモ用紙に何やら絵を描き始めた。どうもキャンディ・ポットとやらの似顔絵らしいが、下手なりに特徴はうまく掴んでいるように見える。黒っぽいパーカーにジーンズ、ボサボサの黒髪に無精髭の男性と変質者という言葉を図にしたらこうなるというような、典型的な不審者そのものといった風体だ。
 イラストの脇にぎこちない筆跡の日本語で凡その年齢、見た目の印象を書き添えていった。呪詛屋らしく陰気で無愛想、見た目は三十代後半くらい、標準語だったが語尾に訛りが見受けられたので出身はおそらく関西、などなど具体的な情報が次々に書き込まれていく。なんだか交番の掲示板にある指名手配犯のモンタージュみたいだな、とちょっと内心で笑ってしまった。

「ありゃ単独犯じゃない気がするんだよなー、呪詛屋って大概陰キャだし人間嫌いだからボッチなんだけどさ、どうも子飼いが他にいるっぽいんだよね。商談の最中も、しょっちゅう同じやつから電話かかってきてたし。なんかイライラしてる風だったなあ。よっぽど言うこと聞いてくんないのかもね。ボクが知ってんのはこんくらい。他に何か聞きたいことある?」
「呪い師に関して概ね把握したからもういい。それより勇次郎の件だ。あいつがお前の下で働いていたというのは本当か?」
「なんだそんなことか。え? ていうか現場押さえたのキミじゃん。あのとき尋問くらいしただろ? なんで知らないんだよ、むしろボクの方が聞きたいくらいなんだけど」
「……そんなもん知るかよ。あいつは昔から、私には何も話してくれない」
「ディスコミュニケーションもいい加減にしろ三十路。あ、まだギリギリ二十代だっけ。相変わらず仲悪いねー、キミら。昔はもうちょい打ち解けてたじゃん。一体何したらそんな拗れんの」

 向かいに座る紅狼が百九十近い長身なのも原因とはいえ、しょんぼりした様子で椅子の上に縮こまっている纏は、ただでさえ小柄なのに余計ちっちゃく見えた。勇次郎本人の前ではあんなに冷淡な態度を取っていたくせに、弟の反抗期に対し内心かなり気落ちしていたらしい。だったら強がるのやめたらいいのに。

「……私は何も聞かなかった。聞けるか、聞いたところでどうしようもないのに。知ってどうしろってんだよ」
「じゃあボクが話してやる必要もなくなーい?」
「それとこれとは別! いいからさっさと吐け!」
「わがままぼっちゃんだなあもう。そこの……ええと七種くんっていったっけ? キミと似たような仕事だよ。けどあの子、術師家系の生まれの割に物知らずというか、全然わかってないみたいで、自分がやってることまるで把握できてなかったみたいだよ。キミどういう教育してんの。それはまあともかく、任せてたのは忙しいボクの代わりにお客さんとこに行って御用聞きとか、まあ早い話が使いっ走り。キミが駆けつけた時は他のバイトくん連中と一緒に心霊スポットなりかけの場所があったから、ダメ押しで手を加えに向かってもらってたんだったかなあ。ま、もう対処は済ませてあんでしょ?」
「当たり前だろ。放置なんかしたら私の仕事が増えるじゃねえか」
「つまんなーい。迷惑系配信者とか馬鹿な大学生がうっかり障られて、泡食って駆け込んできたところに霊験あらたかな御札とかいって紙切れ高額で売りつける算段立ててたってのにさ。これだから祓い屋ってのはろくでもない。毎回商売の邪魔してくれちゃってさ!」

 親指を真っ逆さまにおっ立てるジェスチャーをしながらブーイングする紅狼は、だいぶ世の中にとって傍迷惑な仕事で生計を立てているらしい。こんな掘っ建て小屋みたいな仕事場なのも、さっさと取り壊して撤収するためと思われた。俺が「センパイ」に取り込まれていたのと同じく、勇次郎もこいつの毒牙にかかっていたと思うとさすがに許せない気持ちがなくもないが、結局のところ俺もあいつも同レベルの愚か者ってことだろう。
 そしてどちらも間接的か直接的かの違いはあれど、同じ人間に危ういところを救われた。ある意味似た者同士なのかもしれない、俺と勇次郎は。歳の割に意外としっかりしているように見えても、あいつも俺も所詮は世間知らずの高校生で、ただの子供だ。それでも勇次郎には信頼できる幼なじみとやらがいて、俺には何もない。誰もいない。どこで差がついたんだろう。考えても詮ないことなのに、ちゃんとわかっていてもつい脳裏にチラつくのは。

「でもあの子、別にお金に困ってるようにも、そこまでおバカちゃんにも見えなかったのに、なーんでうちにバイトしに来たんだろうなあ」
「……強くなりたかったんじゃないですか、いやほんとのところは本人に聞かなきゃわかんないけど。俺だったら、たぶん、そうかなって。俺の場合は単に金がほしくて、金さえ持てれば力も手に入るって考えたからだけど。あいつはもしかしたら、紅狼さんのことわかってて、あえてバイトになったんだと思う。弟子、とか……わからんけど、そうなるつもりでさ」
「なーにそれぇ、あっははは! やっべ、チョーウケる。そんな少年漫画じゃないんだからさあ! 強くなりてえって何それ、身体張ったギャグのつもり? だいたい強いっていったらそこの若作りが一番じゃん、こいつに師事する方がよっぽど安全だし確実デショ。わざわざボクなんかに頭下げる必要イズどこ?」
「一歩間違えたら死ぬような危険やリスクを覚悟してでも術師を目指すなんて……あいつ、なんでそこまでして」
「そら纏さんのためじゃね? あいつが強くなりたい動機なんか、そんなん一つしかねえじゃん」

 全く意味をわかってなさそうな、惚けた面を晒している纏はどうやら本当に何も気づいてないらしい。まさかと思うが、弟からものすごく想われていると、こいつは想定すらしていなかったのか。は? そんなことある? あんなにダダ漏れだったのに。実は鈍感属性だったりするのか。しかもラブコメ展開にはまるで無意味な、現実的に割とダメな方向で。最悪だ、そりゃ拗れるわけだ。え、じゃあこのちっともラブじゃない兄弟間のキューピッド役は俺ってこと? そんなことある??

「纏さん側は全ッ然気づいてねえし、勇次郎側も無自覚っぽいけど、あんたらめちゃくちゃ両想いだよ。言い方キメェけど」
「両、想い……? 私と勇次郎が……?」
「気にしてたよ、あいつ。あんたに手を汚させたこと。何年も前のことでも、まあトラウマってやつなんだろ。俺にはよくわかんないけど、大事な身内が自分のせいで人殺しになったなんて、普通は病むし傷ついて当然なんじゃね? 術師になるって言い出したのも、同じことを二度とあんたにさせたくないからだろ。そんくらい分かるだろ、兄貴なら、普通」
「……あいつ、そんなこと一言も言ってくれなかった」
「言いにくくて当たり前じゃん。俺ら高校生だよ? なかなか素直になれないし照れもあるって。小っ恥ずかしくて本音なんかぶっちゃけられるかよ。いや察してくれってのもだいぶ無茶苦茶だけど、あんたはさすがに察しなきゃダメだろ。家族なんだから」

 自分で言っておいてなんだが、あまりに空虚な響きに思わず乾いた笑いが漏れた。血縁による絆なんて一度だって信じたこともなければ求めたことさえないくせに、他人を説得するためならスルリと口にできてしまう自分が、果てしなく馬鹿馬鹿しく思えた。俺は親の気持ちなんて分かりっこないし別に理解したくもない。向こうだって息子の内心になんかまるで興味はないだろう。察するなんてどだい無理な話だ。
 そのくせ、勇次郎と纏がこのまま相互理解に至らず拗れたままなのは嫌だな、と理由もなく感じた。彼らとはほんの数日行動を共にしたくらいで、さしたる思い入れなんかないのに。きっと代償行為なのかもしれない。身近に、相手との関係に悩む家族がいたら、いたたまれなくて手を貸してしまいたくなる。そいつらが和解することで自分の中にあるモヤモヤも晴らせるんじゃないかと期待している。悩みといえるほどたいそうなもんじゃない、ただのモヤモヤだ。長年使い込んだ道具に、落とせないままこびり付いた汚れのような、取るに足らないもの。

「ボクに弟子入りしたところで、死体の操り方とか僵尸の作成方法とか反魂とか、教えられることといったらろくでもない術しかないのにねえ。それとも解放してやりたかったのかな、キミのこと」
「……どういうことっすか?」
「なぁんだ。なんにも知らないのか、ってか知らされてない感じ? まあ最近知り合った元一般人のガキに話してやるには重たい秘密だもんねえ。でも薄々気づいてたよね、そいつがもう人じゃないってこと」
「おい紅狼! それ以上は……っ」
「黙ってなよ化け物が。この子にはちゃあんと真実を明かしてやった方がいいでしょ? どの道、懐かれたら困るんだからさ、どんだけおぞましい存在か理解してもらう方がいいじゃん。キミには似合わないよお、化け物に寄り添ってくれる理解者なんてものはさ」

 ニタリと意地悪く笑う男は、二の句が継げず歯噛みする纏を見てこの上なく愉快そうな態度を隠さない。彼らはお互い商売敵であるという話だったが、双方の間にある確執はそんな簡単に言い表せるものではなさそうだった。紅狼は、纏を比喩表現ではなく客観的な事実として既に人外であると明かした。死なない、傷つかない、老いない、病に罹ることもない。契約を交わした神霊との間に結んだ縁が切れるまで続く、期間限定の不老不死。
 暑さ寒さを感じないのはいつでも神経をコントロールできるから。火のついた煙草を押しつけても火傷はたちどころに治るし、たとえ腹に穴を開けられようが胸を貫かれようが死にはしない。契約が成った高校生の頃から見た目が変わらないせいで異様な若さを未だに維持している。今は若作りで済むそれも、十年、二十年と経てば異常なものとして忌避されるだろう。
 だが、それも纏と契約している神霊が、いずれ道連れにするために恩寵として分け与えたものにすぎない。式神契約とやらを破棄しない限り、纏は時間の流れから取り残され続けるという。老いとは無縁で、死ぬこともない、まさに無敵の人間。結構なことじゃないか。

「……ふーん、それはそれでまあいいんじゃない? 俺からしたらそんなに悪くは思えねえけどな」
「バカだねー、キミは。十年二十年の話じゃない、生まれた赤子がジジババになって死んでまた生まれ変わってそして寿命を全うして死ぬまでの、それよりも長い時間をボッチで生きていかなきゃなんないんだよ。一人の人間が人生を何度かやり直すくらいの途方もなく長い年月を生きてくなんて、身も心も化け物になっちまわないと無理さ。だから勇次郎くんはボクに擦り寄ってでも、こいつを助ける方法を探してんでしょーが」
「へえ。長く生きてりゃ楽しいこととか面白いもんも色々あるだろうし、やってみたら意外におもしれーかもな。知り合いの生まれ変わりとか、どうなってんのか気になるし。不老不死ってそんな何をしてでもやめたくなるもんなの? 俺はなってみたいけどな」
「本当におバカちゃんだねキミ。常人が何百年って時間をひとりぼっちで過ごせるなんて絶対ありえないって。家族も仲間もみんな先に死んで、知ってるやつは全員いなくなって、たった一人で最愛の家族がいつか帰ってくる日を待つしかない──そんな人生、耐えられると思う?」
「んー、まあイケんじゃね? なんとかなるだろ、たぶん。知らんけど」
「……キミじゃなくてこの子が曲輪に見初められればよかったのにねえ。ま、キミは好き好んで不死身になった口だから、どっちかというとこの子と同類なのか」
「今更やめる気はねえよ。とっくに腹は括ってんだ、誰が死んだって生まれたって、いつだって私は一人だ。それでいい。あいつにも誰にも、隣にいてほしいだなんて求めるつもりはない。それで結局、教えたのか。あいつに、お前の持ってる秘法を」

 秘法ってなんじゃそらと首を傾げていると、紅狼は神殺しだよ、となんだか物騒なワードを口にした。信仰の対象となっていた祖霊が手のつけられない化け物へと転変してしまった場合に備え、神霊を殺すための術が過去に編み出されたんだとか。纏や紅狼みたいなごく一部の術師にだけノウハウが伝わっていて、基本的には秘密にされているという。神殺しの秘法を用いれば神霊は必ず死ぬ。ただし代償はある。術を行使する側はもちろん、本来の契約者──纏にも。
 そんな明らかに厄ネタとしか思えない物騒なもんをよくもまあ習得する気になったもんだ。勇次郎のやつは怖いもの知らずなんだな、と呆れるやら感心するやらである。それだけ纏の現状に対する憤りが根深いんだろう。自分の命を厭わないくらいに。俺には一生縁のない、きっとどうしたって理解の及ばない感情だ。誰に対しても本気になんてなれない。情けをかけるなんて無理だ。自分がそういう壊れた人間なんてことはわかっている、だからこそ彼ら兄弟には、壊れたまんまでいてほしくなかった。同病相憐む、じゃないけど。まあ、そんな感じ。

「……私のせい、なんだろうか。私が、あいつの運命を捻じ曲げてしまったんだろうか」
「ハア?」
「あの子は普通に生きてゆけるはずだった。忌まわしい見鬼さえなければ、針間なんかに生まれてこなけりゃ、せめて私の弟なんかでなかったら。真っ当な、ごく普通の、平凡だけどそれでも幸福な人生を送ってほしかったのに」
「何言ってんのキミ。それを弟クンが望んだの?」
「望むと望まざるとに関わらず、そうあるべきだろ。その資格がせっかくあるんだ、だったら享受すべきだ」
「うーわ、独善的ィ。こういうところが嫌で弟クンはキミのこと嫌ってたんだろうな」
「……じゃあ、やっぱり私が原因ってことになるじゃないか」
「落ち着けよ三十路。あ、アラサーだっけ、まあどっちでもいいけど。とにかくさあ、キミが一般的な人生を送ってこられなかったからって、その願望を弟クンに押しつけるのやめたら? てかキミのその人生観だいぶ古いし。今令和だよ? 何、可愛くて大人しい奥さん見つけて子供は三人こさえてデカい家で白い犬飼って家族仲良く暮らす、みたいな夢見ちゃってる系? ダッサ」
「そ、それの何が悪いってんだ!!」
「何もかもだよバカヤロー。だぁからそれ弟クンも求めてんならいいけど、あのガキそういう頭にカビ生えてる古くせー考えなんか持っちゃいないし、むしろ自分で幸せ見つけて勝手に満足しちゃえるタイプじゃん。キミみたいに過去に拘泥してグダグダ言うような人間でもないだろ。少しは本人の意見とか意思を尊重して応援してやるくらいの余裕見せろ。頭ごなしに否定すんな。話はそっからだよ。つーか話し合え、ちゃんと腹割って会話しろボケ。……ってなんでボクが親身になって敵のお悩み相談に乗ってあげなきゃいけないワケ!? ほら、お客さんに関して情報提供してやったんだから、いい加減帰れ!!」

 ようやく我に返った紅狼が俺達を追い出し、ピシャリと扉を閉じてしまった。まあ聞きたいことは概ね聞き出せたし、ここに用事はもうない。せっかく中華街に来たんだしどっかで遅い昼メシでも済ませようと財布もとい纏に提案しようとしたが、彼は地べたに張り付いたまま、ちっとも動き出そうとしなかった。

「……纏さん? どうしたんすか?」
「私ってそんな身勝手なやつだったか」
「おおう、食い気味……まあ、紅狼さんの言うことは全面的に正しいんじゃないっすかね。あんた、言葉がかなり足りねえよ、二言三言どころか十言くらい。マジ、自分の本心口にしなさすぎ。そりゃ勇次郎だって誤解しまくるって。あいつ別に勘の鈍いやつじゃないけど、そんだけ巧妙に本音隠してたらさすがにわかんねえって。察するとか無理だって。逆にあんたはニブチンだから勇次郎の思ってることとかちっとも気づいてないし……」
「……そっかあ。間違ってたかあ。私なりに、頑張って守ってるつもりだったんだけどな」
「あんたに守られなきゃいけないほど、あいつ弱くはないでしょ。ベテランのあんたから見たらやっぱり未熟なんだろうし、実際一緒にあの現場に行った時はあんま頼りになんねーなこいつって思ったけど。でも、いつまでもずっとそのままなわけなくね? あいつだってそのうち成長して立派な術師になるよ、そのために頑張ってる最中なんだろ。それに兄ちゃんのあんたが傍についてやってんだからさ、一人前になれないなんて、ありえないんじゃない?」
「……そっか。そうかあ。ありがとう、七種。おかげでなんだか吹っ切れた気がするよ」
「お礼はこの辺で昼メシ奢ってくれるんでいいっすよ」
「ちゃっかりしてんなあ。んじゃ、先にメシにするか」

 やっと立ち直ったらしい纏と連れ立って表通りに戻り、人気店なのか人だかりができていた肉まん屋でパンダを象ったかわいい肉まんを購入する。本当はどっかの店で腰を落ち着けてのんびりランチタイムと洒落こみたかったが、生憎他にも立ち寄る場所がある。夕刻にはまだ時間があるとはいえ、のんびりする暇はない。
 SNS映えしそうな愛くるしい見た目のパンダまんを丸かじりするのはちょっと罪悪感が湧いたが、隣で大口を開けてあっという間に食べきってしまった情緒のない男を見て、意を決して一口いってみる。ふわふわでほんのり甘い生地と、甘辛いあんのマリアージュがなかなかいける。めっちゃうまくてすぐに食べ終えてしまった。他にもハリネズミまんと豚まん(見た目もかわいい豚である)をそれぞれ購入したので、移動中のおやつ代わりにした。

「次はどこ行くんすか? 圭一って子の遺体回収するにしたって、場所なんかわかんの?」
「あの手紙。母親が死んだ息子に宛てたものがあったろう。強い思いのこもったモノというのは、そこに念が宿る。生者はもちろん、死者のも。亡くなった当人は既にこちら側にはいなくても、しばらくは現世に念は残り続ける。思念はよすがとなり、導いてくれる」
「ふーん。でも細かくバラバラにされてんなら、あっちこっちに散らばってんじゃね? いや知らないで売り飛ばした側が言えたことじゃないけど」
「紅狼のような優れた術の使い手でも手を触れられない部位があるって言ったろ。本来は魂が坐す場所、つまり大脳だ。それ以外の舌、眼球、四肢、指、臓腑といった部位は呪物に加工できても脳みそだけはどうにもならない。それが全ての呪物を生かし続ける。だから防腐処理されて保管されているはずだ……呪い師のところに」
「キャンディ・ポットってやつのところ? でも普通はそれも何かしらの形で売り払うとかして手放すもんなんじゃないの」
「逆だよ。術師が大脳──コアを適切に管理することで、ヒトの死体を材料とした呪物は正しく機能する。逆に管理を怠れば容易く呪物はコントロール不可能となり、持ち主に牙を剥く。つまり各地に散らばる遺体を所有している人間全てに、だ。そんなインシデントを引き起こせば二度と呪詛の商いなんてできなくなる。商売ってのは信用で成り立ってるわけだからな」

 聞いている限り、想像よりだいぶ面倒そうというか、死体を利用した呪物ってあんまり効率が良くなさそうだなとつい素人考えを起こしてしまう。だが実際、効率の悪さがそのまま威力に転嫁されるんだそうだ。呪術も呪物も、不自由や制限があればあるほど効果は強くなる。だからこそ人間の死体を用いる呪詛は人気がある。リスクの高さはそのままリターンの高さだ。万が一管理をしくじれば、まともに呪いは自分へ返ってくる。そのギャンブル性も好評の理由にあるという。
 キャンディ・ポットはそうした手間を惜しまない。呪い返しに遭う恐怖も、同様の呪物を扱えば扱うほど管理しなければならない「人間」が増えていくことも。ゆえに厄介極まりないわけだが、それにしてもよくそんな危険を賭してまでそいつは呪詛や呪物の商売なんてやっているんだろう。真っ当に働くか、それとも纏のようにお祓いでもやる方がよっぽど稼げそうな気はするが。もしかして案外、俺と同類の人間なのかもな、と想像してみる。
 愛情も血縁も何一つ楔にならない、己を縛るものを何一つ持たないがないゆえに自由で、壊れた生き物。可哀想だとは思わない。どんな憐憫も、嘲りも、俺「達」にはきっと響かない。欲しいものはいつだって力であって、決して絆なんていう不確かなモノじゃない。そう考えてみると、なんだかキャンディ・ポットとも理解し合えそうな気がした。もちろんこんなこと、隣の運転席で苛立ちも露わにハンドルをトントン指先で叩いている纏には絶対に言えっこないけども。
 奴はずいぶん奥地に住んでいるらしく、再び高速道路へ戻った車は東京を通り越して北関東へと入っていく。ここまで来ると道路上はガラガラで、長距離を走るトラックや数台の乗用車くらいしかいない。都内近郊の混み具合が嘘みたいだ。紅狼との商談を終えた段階で既に昼を過ぎていたので仕方ないとはいえ、下道へ降りる頃にはもう時刻は夕に差し掛かりつつあった。途中サービスエリアでトイレ休憩ついでに残った肉まんもすっかり食べきってしまい、そろそろ腹が空いてくる頃合である。
 急ぎじゃないならどっかで宿をとって近くのファミレスかどこかで少し早めの夕飯にしようと提案してみるも、一刻も早く現場を押さえたいらしい彼が難色を示したそのとき、運転中の纏のスマートフォンに着信が入る。基本的に着信音は全てデフォルトのままの纏が唯一、違う音楽を設定している相手。そんなの勇次郎しかいない。なかなか赤信号に引っかからないため自力で電話を取れない彼が、歯噛みしながら視線でお前が出ろ、と訴えてきた。しょうがないので代わりに応じる。

「ハァイもしもし、翠でーっす。勇次郎くんですかぁ」
『……その声、もしかして七種か? なんで纏の携帯にかけたのにお前が出てくるんだ』
「おめーの兄貴が運転中だからだよ。用件はなんなん」
『今ってお前らどこにいる?』
「質問に答えろや。えーっと奥日光らへん。この辺りなんもないなー、鬼怒川温泉は廃墟だらけだしよ、あんなん観光地って言えんのかね」
『……やっぱり。たぶん、あとちょっとで合流できる。どっか待ち合わせられるところってないか?』
「待ち合わせぇ? 何、お前こっち来てんの。なんで?」
『こっちはこっちで仕事中だからだよ! 詳しくは後で話す。とにかく早く合流したい。今どこに向かってる?』
「例の呪物の管理人ってやつんとこ。うーんこの辺には待ち合わせられそうなもんなんてねえな……あ、道の駅ならすぐ戻れんじゃね? 纏さーん、Uターンってできます!?」
「……お前らの声がデカすぎて話の内容丸聞こえだ。道の駅だな、すぐ戻るから、勇次郎にもそこで待機するよう伝えろ」
「はぁい。だとよ、道の駅に今すぐ来れるか?」
『わかった。もう間もなく着くと思う。入り口近くの駐車場にいるから。目立つ車体だからすぐわかるはずだ。じゃ一旦切るぞ』

 通話はそこでぶつりと切れた。マジで一方的にしか話さんなこいつ、と呆れつつも元来た道を引き返し、纏はついさっき通り過ぎた道の駅へと入る。夏場なのでまだだいぶ明るいが、買い物するにはちょっと遅い時間帯だ。だだっ広い駐車場はガランとしていて、建物のすぐ目の前に停車している真っ赤なボディのオープンカーはとんでもなく目立ってみえた。間違いなくあれだ。でもなんでオープンカーなんだろう、確かあいつ仕事中って言ってたよな。
 互いに怪訝そうに顔を見合わせながらも、俺と纏は車を降りておそるおそる車体へと歩を進める。車の脇には携帯をいじっている二人組の少年と、保護者らしき女性がそれぞれ佇んでいた。少年のうち一人は勇次郎その人で、半端に伸びた黒髪をハーフアップに括って袖をまくったワイシャツとスラックスをまとっている。暑いのか緩めたネクタイの先を胸ポケットに突っ込んでいた。
 もう一人は勇次郎の友人なのだろう、見慣れない少年だった。明るい茶色の髪はふわふわと波打っていて、甘めの顔立ちにタレ目といういかにも女ウケしそうな外見だ。身長は長身の勇次郎と比べるとやや低めだが、細身の体型にスキニーパンツとオーバーサイズのシャツが嫌味なくらい似合っている。保護者役であろう女性は見事なプラチナブロンドをショートヘアにしたクールビューティで、女にしてはかなり背が高く、スラリとしたモデル体型にライダースーツという完璧な取り合わせだった。どことなく雰囲気や顔つきが纏に似ているかもしれない。

「……げっ、結! なんでここに」
「今回はこの子のアシだよ、わざわざ奥日光くんだりまで新幹線で行けというのも酷だろう」
「今どき夜行バスも鈍行もあるって言ってもきかねえんだ。仕方ないだろ」
「でも結さんがいて助かりました。お昼まで奢ってもらっちゃって……なんだかすみません」
「いいのいいの。せっかくまだ子供なんだから、今のうちに大人に甘えときなさいな。それより纏、情報交換といこう。仕事の時間だ」

 彼女は針間結、纏と勇次郎にとっては母親にあたる女性らしい。勇次郎と一緒にいた子は新浪龍樹といって彼の幼なじみだそうだ。三人は今日「センパイ」について調べて回っており、有力な情報提供を受けて俺達と同じ奥日光まで足を伸ばしたのだそうだ。なおその情報提供者というのはやはり紅狼で、あの男は纏だけでなく色んな術師と取引しているらしい。その中に「センパイ」もいた。
 結さんは結さんで纏とは別に紅狼との間にツテを持っており、俺らより一足先に彼との商談を済ませて現地入りしていたようだ。こちらは一歩出遅れたという形になる。二組とも行先が同じ時点でもうバレバレって感じだけど、キャンディ・ポットと「センパイ」は仲間ないしは上司部下の関係にあるとみていい。紅狼から呪物を買い付けにきたキャンディ・ポットが電話口で怒鳴り散らしていた相手というのもおそらく「センパイ」だろう。
 そして彼女は誰よりも早く二者の関連性に気づき、勇次郎を通じてコンタクトを取ってきた。再び分かれて行動するにしても全員で動くにしても、各組が持つ情報を持ち寄って話し合った方が効率的と判断したんだろう。俺、龍樹くん、勇次郎が手持ち無沙汰なまま親子の会話を横目に見ているうちに、二人はプロ同士にしか分からない専門用語まみれの情報交換を始めていた。

「ええっと……はじめまして。俺は勇次郎のクラスメイトです。一時期こいつの家にお世話になってて。今は纏さんちに居候中っす。どうも」
「えっああ、ご丁寧にどうも……僕は隣町の高校に通ってるから、もしかしたら今後顔を合わせることもあるかも。色々と大変でしょうけど、こいつのことよろしくお願いしてもいいかな」
「むしろ俺の方が勇次郎には助けてもらってばっかりだから。よろしくされなきゃいけないのは俺の方かも。それより『センパイ』のこと捜してんだっけ」
「ああ。当初の予定通り、こちらで捜索、可能なら捕縛することになってっからな。あのクソ纏にはさんざん説教されたし担当も外されそうになったけど、こんな中途半端なところで投げ出せられっかってーの」

 と、なんだかやる気満々といった雰囲気の勇次郎だが、相手はどんな隠し球を持っているか分からないガチの悪人だ。俺もこいつも龍樹くんも、いくらオバケと渡り合えるといったって所詮はただの高校生なわけで、果たして太刀打ちなんてできるんだろうか。正直、あそこで打ち合わせ中の大人二人に任せてさっさと帰る方が邪魔にならないんじゃなかろうか。
 しかし唯一ストッパーになってくれそうな龍樹くんもどうやら乗り気のようで、勇次郎を静止してくれそうな感じはない。穏やかそうにみえたけど意外と血気盛んなタイプなんだろうか。それにしては目があんまり笑っていないというか、なんだか物騒な気配を漂わせている。
 そういえば俺が「センパイ」の下でバイトしていたのと同じように、勇次郎もまた秘伝を伝授してもらうのと引き換えに紅狼から仕事を受けていた立場だったはずだ。勇次郎は「センパイ」やキャンディ・ポットとは直接的に関わりがあるわけではないとはいえ、無感情にはなれないのも道理かもしれない。
 なんだか盛り上がって二人の世界を作っちゃってる感じの彼らを尻目に、早く話し合いとやらが終わってくれねえかなと待っていると、ようやく大人組のうち片方だけが戻ってきた。結さんは乗ってきたオープンカーのところへ向かっており、俺達と共に行動するつもりはないのかエンジンをスタートさせている。どうやら申告通り本当に勇次郎と龍樹くんをここまで連れてきただけらしい。ただ、帰りの足にもなってくれるつもりなのか、アイドリングさせたまま走り出す気配はない。

「私らが現地入りしていることはもう向こうにバレているとみていい。態勢を整えて逃亡されるか迎え撃たれる前にこちらから叩く。原則、生きたまま捕縛が望ましいが無理そうなら殺していい。……で、どうする」
「どうするって何が?」
「お前達は全員未成年だ。子供を命の危険に晒すわけにはいかない。本当なら全員追い返したいところだが……どうせ言っても聞かんだろうお前ら」
「当たり前だろ。オレだって術師だ。一度手をつけた仕事を危ないからって途中で放り出せるか」
「勇次郎は僕がいなきゃなーんもできない役立たずだからね。纏さんに恥をかかせるわけにもいかないし、当然ついていくよ。まさか嫌とは言わないよね?」
「えー……っと、俺は纏さんに一任して他は結さんに送ってもらう方がいいと思うけどなあ。俺らのせいで纏さんの足引っ張るようなことになってもアレだしさあ」

 チラッとオープンカーの方へ視線を逸らすと、運転席側の窓を開けて結さんは煙草を吹かしていた。別にイライラしている様子はないが、仮に学生組で全員揃って帰宅するならあまり長いこと待たせても悪い気がする。だがしかし俺の提案にはしかし二人とも渋い顔で、互いに目配せしている。よっぽど帰りたくないらしい、怖いもの知らずかよお前ら。

「……やっぱり僕は残るよ。詳しくは知らないけど、君もその『センパイ』ってやつの被害に遭ったんだろ。ならほっとけないよ。勇次郎と君は帰った方がいい」
「何言ってんだ。お前残しておめおめと逃げ帰れるかよ。それにこれはオレの仕事だ、お前や七種に任せてなんかられるか」
「ハア……めんどくせえ、もういいお前ら全員帰れ。このアホの言う通り足手まといだ、これ以上私に余計な手間をかけさせるな」

 心底かったるそうに肩を竦める纏に反し、幼なじみ二人組は無言で彼の乗ってきた車のドアをそれぞれ開き、同時に後部座席を陣取った。こうなるともうテコでも降りるつもりはないと嫌でも理解できてしまう。とうとう頭を抱えたこのメンツで唯一の大人は、諦めたように運転席へ戻った。と同時にエンジン音を高らかに響かせ、一台のオープンカーが駐車場を出ていくのが視界に飛び込む。話がまとまったと察して一足先に帰路についたんだろう、でも置いていってほしくなかった。
 ここから一人で自力帰宅するにしたって、電車やバスもろくに通ってなさそうなところから家まで向かうのにどれだけ時間がかかるやら。纏の言葉が正しければ俺らの現地入りは敵に悟られている以上、黙って見逃してもらえるとも思いにくい。途中でよからぬことに巻き込まれても誰も助けてなんてくれない。だったらいっそ全員で行動する方がいくらか安全かもしれない。結局、腹を括るしかなかった。ヤケになって助手席に腰を下ろすと、隣でにんまりと笑う気配がした。

「さて、行くか。グズグズしてたら取り逃がすことになる。クソッタレな仕事なんかとっとと終わらせて、宇都宮に餃子でも食いに行くぞ。喜べ、メシ代は私の奢りだ」


◆◆◆


 夕刻に道の駅を出発し、車を走らせること約一時間。県道を逸れ、山間を貫く脇道から更にろくに舗装されていない悪路へと分け入っていくうちに日没を迎え、辺りの景色はどんどん夕闇へと沈んでいく。焼き尽くされてしまいそうな茜空に黒々としたシルエットを描く山際が、とにかく不気味に見えて仕方なかった。車内では誰一人会話せず無言のままなのも不安に拍車をかける。

「……なあ、着いたら俺らはどうすればいいの」
「あ、いけね。忘れるところだった。七種、私のタブレットに見取り図あるから二人に見せてやれ」
「はーい。……見取り図ってこれ?」
「そうそう。敵のアジト……っていうかセーフハウスって言えばいいのか。これは山奥にある空き家だが、呪い師とその部下はここに潜んでいる。今通っている林道でしか行き来できないし、対向車とすれ違ってない以上まだ本人達は中にいると考えていい。周囲に設置された監視カメラのデータは全てダイレクトにこちらに届くが、今日はまだ空き家のある方向から山を下りてくる車は一台も通っていないから、これは確実だ」
「なんで監視カメラのデータがお前のところに届くんだよ。何したんだ一体」
「そりゃ警察や近隣住民に協力を仰ぐくらいはするに決まってるだろう。一般人はともかく公権力相手なら針間の名前出せば簡単に手伝ってくれるからな」

 キャンディ・ポットや「センパイ」のような呪詛とか呪物を取り扱う人間は大抵、現実でも何かしらの罪を犯しているケースが大半だという。たとえば殺人、強盗、放火、強姦などの重犯罪に関わっていたり実行犯であることが数多く、もちろん警察側だってその件で捜査している。しかし術師を捜して捕まえて検挙するとなるとあらゆる意味で困難なため、針間のような「家」に捜査協力を依頼することもあるんだとか。
 逆に術師が悪い術師を捕まえるにあたって警察側に手を貸してもらうこと(要するに今のような状況だ)もある。つまり祓い屋と警察は持ちつ持たれつ、ビジネスパートナーといえる。直接的に警察が人員を派遣することは少ないものの、監視カメラのデータなどの捜査情報を提供してもらったり、場合によっては検挙後に作成された調書を閲覧させてもらうこともあるそうだ。
 まあそれだけじゃないらしいが。司法取引というわけじゃないが、業界内の慣習や慣習にしたがって捕らえた術師に対処するとなると、せっかく検挙したのに引き渡してもらわないといけなくなる。針間のような家系が警察側に何かと融通をきかせているのは、そのための保険もあるんだろう。──と纏は言外に匂わせた。

「で、見取り図を見れば分かるが入り口は正面玄関と台所横の勝手口しかない。勝手に地下室や裏口を増設していればその限りではないが、基本的にはこの二箇所の出入口を抑えておけば逃亡は阻止できる。正面から突入するのは私一人だが、お前達三人にはこの勝手口付近で待機してもらう。犯人が出てきたら私に知らせろ、ただし間違っても手は出すな。向こうも商人だ、素人同然の子供相手には何もしてこない──何もされなければ」
「ハア? なんもすんなって? じゃあ出入口を抑えとく必要なんかねえだろ」
「たとえ逃がしてしまっても『針間纏』に顔を覚えられた時点で相当程度商売はしづらくなる。それだけでも成果としては充分だ。表立って堂々と商いされるよりは遥かにマシだ、というのが依頼人の意見だからな。忘れたのか、我々は正義のヒーローじゃないぞ。これはれっきとした仕事であり、やるべきはクライアントの要望に従うことだ。間違ってもボランティアなんかじゃない。善行がしたけりゃ近所のゴミ拾いでもするんだな」
「なんでそうあんたら喧嘩腰なんだろな……勇次郎は兄貴に歯向かいすぎだし纏さんは嫌味ったらしすぎだよ。だから拗れるんじゃねえの」
「……! 君、すごいね!? よくそんな正直に本音言えるなあ! ごめん、ちょっと見直した。見た目が派手だからヤンキーとか不良なのかなと思って内心仲良くなれそうか分からなかったんだけど、もしかしたら僕ら話が合うかも! 連絡先交換しないッ?」

 ……なぜだか龍樹くんに懐かれてしまった。俺なんかしたかな、と直前の言動を振り返ってみるが、そんなに非常識なことを口走ったつもりはない。俺らの様子に、今にも一触即発といった空気を漂わせていた兄弟も呆気に取られた顔をさらしている。別に申し出を断る理由もないので連絡先を交換すると、さっそくラッコをデフォルメした可愛いスタンプと一緒にメッセージが送られてきた。なるほど龍樹くんはラッコに似ていなくもない。
 それにしても俺ってそんなに派手だろうか。治安も民度もだいぶ最悪に近い高校なんて通っていると真面目そうというだけでカモにされるので、実際はどうあれ外見を多少盛っておくのは割と大事だ。だから髪だって真っ赤に染めているし、服に興味がないからいつもテキトーなスポーツブランドのジャージ姿ってだけなんだけど。
 まあ言われてみれば確かにピアスは派手の範疇かもしれない。学校で仲良くなったやつらにもらったり、要らなくなったからと押しつけられたりして、着けないのももったいないから穴を開けたのがきっかけで、今じゃコレクションもかなり増えてしまった。両耳とも穴を開けるスペースがもうないので、次は顔に開けるかそれとも別なところにしようか迷っている最中だった。

「僕もピアス開けよっかなー、ねえどう思う」
「……やめとけば。お前の学校って校則厳しいんだろ」
「別にそんなことないよ? ちゃんと結果出してれば何も言われないし。だって勇次郎だってピアスすごいいっぱい開けてるじゃん、いいでしょ」
「……痛がりのくせに」

 あらぬ方向を見やっている、途端に拗ねた顔つきになった勇次郎ほどめんどくさい生き物もいない。お互い苦労するねとばかりに俺らは座席越しに顔を見合わせた。こんな気難しいやつと長年幼なじみをやっている彼は相当お人好しか、ものすごく面倒見のいいやつなんだろう。勇次郎はもっと龍樹くんに感謝した方がいい。
 あーだこーだと喋っている間に車は山道を抜け、ボロっちい小屋の前に到着した。ずいぶん長いこと放置されていたのだろう、全体的にだいぶ傷んで褪色している。外観はモルタルの壁にトタン屋根の、いかにも手作りっぽい平屋の一軒家風で、特に何か増改築した形跡は見受けられない。事前に確認した見取り図通りといえた。
 ちなみに道中では一台も対向車とすれ違わなかった、というかすれ違えるほど道幅も広くなかった。小屋の前には軽バンが停まっているので家主が在宅なのは確実だろう。纏の読みが的中した形になる。いよいよ敵とご対面かと思うと緊張してきた。ていうか怖い、心底帰りたい。まだ何も始まってすらいないけど。
 停車し、車を降りた纏に続いて俺達も車外に出る。日中の猛暑が嘘みたいに、背筋がヒヤッとするほど冷たい風が吹きつけ、前髪を揺らす。半袖シャツを着てきたことを後悔するほど肌寒いなんて事前に知っていたら、上着を家に置いてきたりなんてしなかったのに。二の腕を摩りつつ、おそるおそる建物の真横にある勝手口へ近づく。この中にいるのか。顔も声も何も知らされぬまま、俺を働かせていたあの人は。
 緊張で胃がひっくり返りそうだ。もし出くわしたら何を言えばいいんだろう。騙しやがってふざけるな? それとも働かせてくれてありがとう? わからない。今更「センパイ」に対してなんも思っちゃいない。恨みも憎しみも怒りも感謝も。そもそもメッセージ上でしかやり取りしたことはないし、それもたった数ヶ月くらいのこと。事務的な連絡くらいしか記憶にはない。思い出と呼べるものなんて何一つ存在しない。
 なのに、どうしようもなく手が震える。みっともないほど手のひらは冷や汗で濡れている。……そういえば、どうして俺は、なんにも命じられてなんかないのに、ドアノブに手をかけてなんかいるんだ?

「おいバカ! 何してる!?」
「え、──あ」
 
 気づいたときにはもう、何もかも遅かった。
 開け放ったドアの向こうから、なにかが手を伸ばして俺の腕を確かに凄まじい力で掴み、引きずり込んだ。同時に、視界の隅でチカチカと銀の光がまたたいて、目の前が白くかすむ。あまりの眩しさに思わず目がくらんで、耐えきれず瞼を閉じるが、それでも眼球への突き刺さるようだった。
 再び目を開け、その瞬間、息を呑む。

「あ……あ、纏、さ、ん……っ?」
「うるせえ。いいから逃げろ、今すぐに」

 舌打ちしながらその場に彼はくずおれた。白いワイシャツにじわじわと赤いものが広がっていく。肩、脇腹、そして背中とあちこちに、目の覚めるような赤が散っていた。何か声をかけようとしても、気道が塞がれているみたいに言葉が喉奥にへばりついて出てこない。

「ねえ、もしかして俺のこと、庇ったの。なんで。どうしてそんなこと」
「なんでもクソもあるか。死なれたら困るんだよ、それだけだ……いいから出ていけ足手まとい、そんであいつら連れてさっさとここを離れろ」
「む、無理だよ! 俺運転できないし、ていうか全員無免許だよ、道交法違反で捕まるっつーの!」
「……あ。そういやそうか。なら仕方ない。ついてこい。どうせもう誰も逃がす気ないだろうからな」

 言いつつよっこらしょ、とおっさんくさく立ち上がった纏は不機嫌そうに、薄汚れた床に寝そべっていたせいでシャツやスラックスについた埃を払い落とした。あまりにいつも通りな様子に面食らってしまうが、よく考えたら彼は不死身みたいなもんだった。根性焼きの火傷程度はもちろん大出血を伴う怪我すら瞬く間に治癒されてしまう。なるほどやっぱりこいつ人間じゃないな。
 勝手口の先にあるのはやはり厨房だった。フローリングの床は隅に綿埃が溜まっているし、つくりつけの食器棚はほぼ空で、二人分の皿とコップとカトラリーが僅かに置いてあるだけだ。唯一流し台やコンロ周りだけは使用された形跡がある。といっても日頃から炊事を行っているとまではいえず、せいぜいお湯を沸かしたりレトルト食品を温める程度だろう。シンクの水垢が酷いのに対してコンロや換気扇の油汚れが大したことないのでわかった。
 食器棚の横にある作業台らしきテーブルには買い置きのカップラーメンやレトルトパウチ、スナック菓子や使いかけの調味料が置きっぱなしで、あまり整頓されていない。さすがに食べかけが放置されてはいなかったことに安心しかけたものの、流し台の近くにある大きな蓋付きのゴミ箱は溢れかえりそうになっていた。やっぱり油断できない。

「怪我、大丈夫すか」
「この程度は問題ない。それより勇次郎と龍樹が気がかりだ。さっさと終わらせるぞ」
「……っ、あいつらも、まさか中に?」
「わからん。気配が追えない。中と外を結界で遮断しているのか、あいつらの霊気が辿れない以上、断言はできない。いないと信じたいけどな」

 舌打ちしつつ纏はポケットから煙草のケースを取り出し、ライターで火をつけた。ふわりとたなびく紫煙が明かりのない、薄暗い室内に白く筋を描く。こいつがただのヤニカスではなく、何か目的があって吸っているのはなんとなくわかる。いやヤニカスではあるんだろうが。煙たさに顔を顰めつつ、俺は纏と共に廊下に出た。
 歩く度にギシギシと軋む床は今にも抜け落ちそうで、不意打ちを食らうよりむしろそっちの方が恐ろしい。スニーカーのつま先で足元を確かめながら進み、次に向かったのはリビングだ。台所の退廃ぶりとは打って変わって室内は綺麗だし掃除も行き届いている。広々とした空間には木目と年輪の美しい大きな木のテーブルが置かれ、その上に液晶モニターにスマートフォンやタブレットPCがそれぞれ何台も散らばっている。
 他にも高そうな革張りのソファに液晶モニター、壁掛け時計や空っぽのキャビネットなど調度品があるが、設えたのは最近なのだろう。どれも使用感は薄い。壁にはいくつも手書きのメモがセロテープで雑に貼り付けてあって、「締切八月三十日まで」「村井さんに人形の件で報告」「田野中家へお中元」など、色んなことが書かれている。

「なんじゃこりゃ。業務連絡っぽいけど」
「ちっ、空振りか……他の部屋見に行くぞ」
「エッ放置? これ放置でいいの?」
「私の仕事は探偵の真似事じゃない。謎解きなんかいちいちしてられるか」

 リビングを離れる纏に慌ててついていき、今度は寝室へと入る。リビングと違い狭苦しい部屋には折り畳み式のパイプベッドが二台並べられ、各寝台の横にハンガーラックが置いてある。だが片方には冬物のジャケットやコートが何着もかけられているのに対し、もう片方は空っぽでハンガーすらない。空っぽの方はベッドも敷いてあるシーツとブランケットがぐちゃぐちゃのままで、反対側は冬用の毛布と布団がそれぞれ畳んである。長期間ベッドを使っていないのが丸わかりだった。

「一体どっちなんだろ。ここに常駐してたのって」
「さあな。お前はどっちだと思う」
「んー……なんとなくでいいなら。たぶん『センパイ』かなって。ただの勘だけど」
「なら私はキャンディ・ポットに五百円賭けるとするか」
「えッこれ賭けなの!? だったら俺は『センパイ』に一万賭けることにすんね!」
「ほー、大きく勝負に出たもんだ」

 常駐していたのは「センパイ」と判断したのは何も勘だけでもなかった。単純に、両者間に上下関係が存在したとするなら、こんな山奥のボロい家にほぼ軟禁状態で長期間待機させられるなんて、どう考えても部下側に決まっているからだ。紅狼のところへ自分で買い付けに行くくらいフットワークの軽そうなキャンディ・ポットが、奥日光のどん詰まりで引きこもり生活を送っているというのも、なんだか想像しにくい。逆に業務連絡や命令は全てメッセージアプリを介していた「センパイ」の方が、身動き取れずにいた可能性が高いだろう。
 ……というような推測を述べてみると、顎先に手をやって考え込んでいた纏もなるほどな、と得心がいった様子だった。密かに賭けの勝利を確信しつつ、寝室を出て最後に向かったのはバスルームだ。成人男性が足を伸ばして入るにはやや手狭なユニットバスが設えてあるくらいで、他には使用済のシャンプーとボディーソープ、それと身体を洗う用のスポンジなど。一応、浴槽用の洗剤やスポンジもあるがボトルの中身はほぼ満タンなので、わざわざ風呂に湯を溜めて使うことはなかったのだろう。
 気にかかるのは洗面台の鏡だ。もはや鏡としての役目を果たせなさそうなくらい、マジックで落書きがたくさん書きつけられている。子供がお遊びで思いついた魔法陣、という感じで精緻ではないし線も歪んでいる。それに褐色に乾いた血痕も残されていて、ヒトの形に切り抜いた紙片や麻紐で縛った髪の束、墨汁と筆なんかも洗面台の棚を埋め尽くす勢いで並べてある。ここで何かろくでもないことをしていたのは確実といえそうだった。
 バスルームに併設された脱衣所は今どき珍しい二槽式洗濯機があって、床の上にあるプラスチック製のカゴには洗濯物が無造作に放り込んであった。あと確認していないのはトイレくらいか。一通り見て回るものの、ここまでずっと人の気配は全くなかった。誰かが尾けている感じもしないし、この家は無人なんだろう。では玄関口にあった軽バンはなんだつたのか。まさか徒歩で脱出したのだろうか。できなくもないだろうけど、なぜあえて車移動を避けたのか理解に苦しむ。

「……嵌められたな。結界だ。かなり巧妙に仕組んである。それぞれ作用の異なる結界をいくつも入れ子構造に張って、招いた人間──私達を閉じ込めている。加えて霊気を遮断することで、内側からも外側からも互いの気配を追えないようにしている。あいつらも内部に招かれているだろうが、我々のいる空間とは微妙に位相をズラされているから、おそらく合流するのは無理だな」
「えっじゃあどうすんの。どうやって出んの。ってかこのままじゃ犯人取り逃しちまうんじゃ……そしたらあんたに顔を見られてないわけだから、商売がやりにくくなるってこともないんじゃないのか」
「というかそれが目的だろう。ここへ突入されることは想定内だった。だからアジトを丸ごと結界を幾重にも張った罠に変え、逃亡完了までの時間稼ぎを狙った。最初の攻撃は、結界に餌を覚え込ませるために出血を強いる必要があったから、あくまでも発動のためのトリガーだろうな。まあうっかり当たり所が悪くてそのまま失血死コースってのもあったかもしれんが」
「ええ、嫌すぎ……ていうか纏さんが割って入らなきゃ俺がそうなってたかもしれねえのか」
「はっはっは。私に感謝しろよー。……で、そろそろここを出るか」
「……どうやって? 普通に玄関開けたら出ていけるもんなの?」
「無理だな。玄関口からゴールしたところでどうせまた台所にリスポーンされるぞ」
「あー、なんかそういうの漫画かなんかで見た覚えがあるな……」

 何重にも結界が重ねてあると言われても、俺の目にはごく普通の民家にしか映らない。異様だったのは何かしらの儀式でもやってたと思しき風呂場くらいで、他は半グレのアジトというより別荘や二拠点生活用の家と言われても納得できてしまう。生活感の希薄さがそう感じさせるだけかもしれないが。玄関先まで向かい、三和土に立った纏はコンコンとドアを軽く叩いて何やら調べだしたかと思えば、突如回し蹴りを放った。華奢な見た目から想像つかない重い蹴りが、鈍い音を反響させる。

「えっ何、いきなりなんなの。なんで蹴ったの」
「ワンチャンここが結界で緻密に再現したハリボテだったらいいなって。そしたら霊力込めた物理攻撃で破壊可能だし……まあ普通に物質だったな。当たり前だけど。つーかつま先めっちゃ痛い」
「言わんこっちゃない……じゃあぶっ壊して出るってのは無理なんだ」
「いやー、できなくもねえな。たぶん。ちょっとコツはいるけど」

 得体の知れない場所に閉じ込められ中だというのに緊張感など微塵もない纏は、スタート地点である台所まで戻るようで、ちょいちょいと手招きしてきた。素直についていくと彼はシンク付近の収納をガチャガチャと家探しし始める。探しているのは鏡と刃物らしく、言われるままに捜索に加わった。結果、キッチンからは安物の出刃包丁、寝室からは手鏡がそれぞれ見つかった。

「……で、これで何する気なん」
「古来よりあやしのものは己の正体を映すものを嫌う。なんでだかわかるか、恐怖は未知により励起される感情であり本能だからだ。つまり未知でなくなれぱ──正体さえわかってしまえば怖くなくなる。人は人智の及ばぬ、理解が叶わぬものをひどく畏れ、忌み嫌う。怪異あるいは妖怪とは、総じて『なんだかよくわからないもの』を指す」
「ええっとつまりどういうこと?」
「簡単な話だ。お前が化け物だったとして、自分の正体を解き明かすアイテムなんか持ってるやつを見逃そうと思うか?」

 ニヤリと意地悪く纏が笑った、まさにその瞬間だった。家中の空気をも震わすような凄まじい絶叫が、どこからともなく轟いた。反射的に両耳を塞ぎ、しゃがみこむ。靴箱の上にある置物がカタカタ揺れ、地震でも起きたかのようにありとあらゆるものが振動する。地面から突き上げてくる揺れというより、建物そのものを揺すっているように思えた。

「な、え、何コレ!? 何がどーなってんの!?」
「単純な話だ。緻密で厳重な結界なんてそこらの術師ふぜいに操れるわけがない。そんなうまいこと制御できるほど結界術は簡単じゃない。ではどうするか。上手い奴にやらせればいい。その手の呪いに長けた怪異、とか」
「……いるの? そんなの」
「おいおい、相手は各地で呪詛だの呪物だのを山ほど商っている輩だぞ。逆に訊くが、化け物を商品にしてないと思えるか?」
「なるほど……で、どうするん、これ。全然収まりそうにないけど」

 ミシミシと嫌な音を立てながら建物は揺さぶられ続けており、今にも土台から崩れてしまうんじゃないか、すぐに外へ逃げないと家ごと押し潰されてしまうのでは、と背筋に冷たいものが走る。あまりの強震に立っていられずしゃがんだ体勢の俺と違い、どこ吹く風で悠々と仁王立ちしている纏は険しい顔で天井のあたりを睨めつけている。

「纏さん……?」
「──来るぞ」

 片手に出刃包丁を握ったままの彼目掛けて、巨大な「手」が降ってきた。手、だと思う。たぶん。あれは。毛むくじゃらで、腕から指先までみっしりと毛皮に覆われている。刃のように鋭い爪が生えていて、指の数は四本しかない。それが真上から轟音を響かせながら、ものすごい速さで迫りくる。間一髪、俺らがいた場所は逸れたけど、たった一撃で玄関のあったところは跡形もなくすっかり薙ぎ払われてしまった。
 暴風のような攻撃に襲われてもびくともしない玄関扉に見切りをつけ、必死になって家の奥へと逃げ惑う。とはいえこんな狭い屋内なんてどう考えてもこちらが不利だ。更にもう二撃、三撃と続けざまに「手」が天井から生えてきては床を叩き壊していく。まるでゲームセンターにあるモグラ叩きみたいだった。ただし、ぶん殴られるのは俺達人間の方だが。

「何何何、何これ、なんなんだよぉっ、もう! いきなり閉じ込められたかと思ったら次はなんなん!? いよいよバケモンのお出ましってことすか! いい加減キレそうなんだけどッ!?」
「おー、壮観。なかなか良いもんを揃えてんな。ぜひともコレクションに加えたいところだ」
「あんたはあんたで呑気してんじゃねえよ! ていうかコレクションって何!? ポケモンマスターにでもなる気か!?」
「私らみたいな術師は大抵子飼いの怪異をいくつか抱えてるもんだぞ。特にああいうデカブツは広範囲をカバーするのにちょうどいいんだよな……ちょっと羨ましい」
「言ってる場合かちくしょう! どうにかしないと俺ら潰されちまうよ!」
「そうだなあ……そろそろ片付けるか」

 言いつつ纏はシャツの胸ポケットにしまっていた手鏡を取り出し、蓋を開いて上へと向ける。すると怯えたように「手」が小刻みに手のひらを震わせ、どうしたらいいか分からないと言いたげにあちらこちらへとさ迷わせ始めた。纏から視線で合図され、慌ててスマートフォンのカメラを起動させるとピントを「手」へ合わせる。己を見つめる「目」が増えたことに戸惑う素振りを見せた「手」は、やがて諦めたように姿を消した。

「……何、今の。なんで消えたんだ?」
「怖いんだろ。鏡もカメラのレンズも、人間と違い脳を持たない、騙されることのない『目』だ。容易く正体を見破るアイテムだ。化け物は視られることを嫌う。なぜなら『視る』とは『知る』ことだからだ。知られたが最後、神秘のヴェールは剥がされる。そこに恐怖など、もう存在しない」

 だから大抵術師の死体が見つかるときは眼球がくり抜かれているらしいぞ、とちっともタメにならない上に死ぬほど怖い豆知識を真顔で披露する纏。口にした本人は薄く笑っているのが何より恐ろしい。そんじょそこらのバケモンなんかより、よっぽどこいつの方がバケモンだしホラー存在だと思う。間違っても現代異能モノの少年漫画のヒーローなんかじゃない。

「……さすがにもうなんも起こんないっすよね?」
「どうだか。向こうはビビらせて私らが慌てふためいてるうちにバックレたいんだろうが、そうはさせるか」
「つっても結局どうやって出る気なんすか」
「うん。だからな、こうするんだ……よッ! オラッさっさと出てこい裏でちまちま狡っからい真似してんじゃねーぞ三下が!」

 突然虚空に向かって罵倒したかと思えば、纏はあらぬ方向へと出刃包丁を投擲した。途端、ガシャーン! と耳を劈くような破砕音が響き渡る。パラパラと細かな欠片を降らせながら壁、床、天井といった空間を形作るもの全てが崩れ始めた。なんなんだよ、こんなことできるなら最初からやってくれよ。というか俺達はこのあとどうなるんだ。

「ま、纏さんっ、どうなんのこれ、どうしたらいい!?」
「落ち着けよ。フルパワーで霊力込めてぶん投げたからなんとか一撃で壊せたけど、危うく死ぬまでここに監禁されるところだったな! いやー久しぶりにいい汗かいたわ。なかなかやるな、これを作った輩は」
「敵のこと褒めてどうすんすか! ってなんか今聞き捨てならねえこと言われた気がすんだけど、俺ら永遠に閉じ込められるかもしれなかったの!?」
「まあまあ。結果的に出られるんだからそこは聞き流せよ。それに本番はここからだぞ」

 雪片にも似た結界の残骸が落ちきってしまうと、景色はようやく閉じ込めに遭う直前にいた勝手口の前に切り替わった。辺りは既に宵闇に包まれており、家屋をぼんやり照らす外灯がなければ暗すぎて何も見えないだろう。慌ててスマートフォンの時刻表示を確認すると、結界内にいたのは一時間にも満たないくらいだったが、敵さん御一行を逃がすには充分すぎる。
 しかし纏は余裕綽々といった感じで焦りや不安げな様子はない。同様に閉じ込められていたらしい勇次郎と龍樹のコンビが駆け寄り、互いの無事を確かめあう。向こうは向こうでけしかけられた化け物の対処に苦労していたらしく、なんだかボロボロだった。
 勇次郎もまた兄と同じ脱出方法を試したのか、出刃包丁を片手にぶら下げている。それでやっと理解できた。纏があまり急いでいるようには見えなかったのは、別な位相で結界の破壊を試みている弟とタイミングを合わせるためだったのだ。狙いを定めてスローイングした兄と違い、弟の方は直接ぶっ刺すというやり方にしたようだが。

「車ないし、オレらが中に踏み込んでる間にトンズラこいたっぽいな。クソっ、あの結界、綻びが分かりにくいし厄介だ。あれも商品か」
「おそらくな。結界術に長けた怪異とその手のアイテムの併用だろう。本人が計算して敷くよりは手軽だし、霊力消費もない。コストパフォーマンスが良すぎる。あれが出回るとちょっと面倒だ」
「アイテムってのは、あの子供の遺骸から作った呪物か? 見鬼が役立たずになるほど完成度が高い。あれで使い方も簡単なら相当の利益になる」
「量産も可能だろうな。材料となった死体じゃなくて加工技術そのものに秘密がある。国内に限ると人間の死体をかき集めるなんて困難極まりないが、仕入先が海外なら話は変わってくる」
「その前になんとしてでも止めないと。できればノウハウも完全に闇に葬りたいが、さすがに拡散を防ぎ切るのは不可能か……」

 いつになく冷静な勇次郎と弟にはいつも皮肉げな纏が、普段とあまり変わらない態度かつ早口でブリーフィングするのを横目に、ついつい近くにいた龍樹くんと顔を見合わせてしまった。俺が知る限り、業務連絡とはいえ会話がまともに成立している針間兄弟なんて初めて見る。
 幼なじみである以上、二人とは俺なんかよりよっぽど付き合いの長いであろう龍樹くんにとっても、これは相当レアな状況らしい。感動しているのか大きく瞠った瞳は僅かに潤んでいた。何か話しかけてやりたい気もするが、なんだか邪魔しちゃいけない空気なので賢く黙っておいた。ちゃんと気遣いできる俺って優しいよな。

「気配は追えるか」
「ナメんな。あの子供の霊気は完璧に覚えた。呪物にされてようが、たとえ地球の裏側にいたって辿れる」
「そうか。なら案内しろ。そこで決着をつける。お前の真価を私に見せてみろ、勇次郎」
「あったりめーだバカ。びっくりしすぎて腰抜かすんじゃねーぞ、纏」

 ……どうやら話はまとまったらしい。外野の俺にはさっぱりわけがわからんが。再び助手席に乗れと指示され、大人しく座るものの、しかし斜め後ろから勇次郎の視線が突き刺さってくる。そんなに兄ちゃんと相席したいならそう言えばいいのに、ちっとも素直じゃないやつ。隣の龍樹くんも呆れたように嘆息していた。
 再び走り出した車は行きと違って制限速度を何キロか超過してそうなえげつないスピードで悪路をぶっ飛ばし、一気に山道を駆け下りていく。この辺りにオービスやネズミ捕りがいないことを祈るしかない。混み合う幹線道路を巧みに避け、裏道を駆使して、街中に入っても速度をほぼ落とさず纏の操る車は敵の乗る車へ迫っていく。なんで突然カーチェイスなんか始まってんの? そんで俺ら、一体どこを目指してんの?

「ああ、クソっ……頭ガンガンする、悪い龍樹、荷物からロキソニン取って。全量いく」
「バカ勇次郎、オーバードーズはダメだよ! またバッドトリップして胃洗浄コースになりたいの?」
「緊急事態なんだからしょうがねえだろ、水なんか要らねえから早く! ……ああぁっ、クソがッ! 痛すぎて頭おかしくなりそう」
「……はあ。無理すんなって言っても大人しく聞くようなやつじゃないもんな、お前は」

 まるでラムネ菓子か何かのように、ワンシート全ての錠剤を開封させるとまとめて口の中に放り込み、ばりぼり噛み砕いて嚥下する様子は傍から見ているとだいぶ狂人である。市販の痛み止めの中でもトップクラスに強い薬ですら過剰摂取しないと効かないくらいに、それだけ視えすぎる眼は脳に負荷をかけるんだとか。
 今、勇次郎の眼には何が映っているんだろう。真っ赤に血走った眼球は絶えずあちこちさまよっていて、何も見えていないかのように虚ろに濁っている。薄青く静脈の浮いたこめかみを押さえ、浅い呼吸を繰り返す様はあまりに異様だった。心配そうに背中をさする龍樹くんも、相方のしんどそうな様子に不安を滲ませている。
 隣で運転に集中する纏もまた三日月の形に口元を歪め、歯を見せて笑う一方、顔色は紙のように白い。血の気の引いた横顔は静かな興奮を湛えているようだった。どこかこの状況を楽しんでいるようにさえみえる、その表情はとても平和ボケした現代日本人とは思えない。まるで修羅場をくぐり、戦場に生きることを何より喜んでいるかのような──それは俺の思い込みなんだろうか。
 冷静でシニカルな纏と、直情的な勇次郎は一見すると対照的で、両者の間に共通点を見つけることは難しい。だが実のところ彼らは相似形であり、本質的にはとてもよく似ているのだとわかる。それが今だ。彼らは脅威と対峙することを恐れない。未知のものに恐怖をしない。それらは全て敵意と戦意に集約される。

「……あれだ、やっと見つけた。お前ら息止めてろ、舌噛むなよ」
「えっちょっ纏さん何する気ィッ!? まさかと思うけどコレぶつける気じゃ──」

 あと一歩止めるのが遅かった。いきなりエンジンをフルスロットルにした車は、凄まじい勢いで突進し目前に迫る軽バンの後部へ突っ込んだ。瞬間、こちらに反動で跳ね返ってくる衝撃が頭蓋をぐわんぐわんと揺らす。何しやがんだこのバカと怒鳴りたいが、もうそんな気力も湧かない。夜闇に沈む閑静な住宅地の中に、広い駐車場を備えた築浅のアパートが見えた。あれが彼らの目的地か。
 盛大にクラッシュした前方車から、わらわらと二人組の人間が出てきては、てんでバラバラの方向へ走っていく。まさか後ろから追突してくるとは思わなかったのだろう、見たところ怪我はしていなさそうだが、両者とも足取りはフラフラと覚束ない。ヘロヘロな俺達一般人とは違い元気いっぱいな針間兄弟は、脚力だけで壊れて動かなくなった車のドアを蹴り壊してこじ開け、弾丸のごとく敵目掛けて飛び出していく。なんだあいつら、いつの間に人間辞めたんだ?

「……どうする? あいつら追っかける?」
「無理でしょ……出れるっちゃ出れるけどさ。そんな体力もうないよ……」
「だよなあ。あいつらなんであんな元気なんだろ」
「さあ……針間家パワーってやつ?」

 お互いゲンナリした状態で緊張感の欠片もない会話をしてみるものの、大破した車にいつまでも居られないので、のそのそ這い出ることにした。駐車場の周りは綺麗めなアパートやいかにも建売っぽい一戸建てが等間隔に密集する、今どきの住宅街といった趣で、怪しげな呪物だのを取り扱う危険人物が潜伏しているようには見えない。エアバッグのおかげで怪我はなかったが、車内の荷物は引っ張り出せそうになかった。ズボンのポケットに入れっぱなしにしていたスマートフォンが壊れず済んだのが不幸中の幸いといえる。
 足の早い針間兄弟は走力にものを言わせ、あっという間に追いつくとそれぞれ背後から蹴飛ばすあるいは足払いをかけて転ばせ、敵が倒れたところにダメ押しの蹴りを放って完全に沈黙させた。この間たった十秒ほどの出来事である。あまりにも荒事に慣れすぎている。学生時代から祓い屋家業なんてしていた纏はともかく、一応まだ普通の高校生である勇次郎までいやに喧嘩慣れしているのはなんなんだ。どんな教育を受けたらそうなるんだ。
 気は進まないながらも二人の元へ駆け寄ると、強かにぶん殴って気絶中の敵をズルズル引き摺りながら彼らはまことにイイ笑顔を浮かべている。顔のつくりは違うくせに表情だけはそっくりなので気味が悪かった。いつも仲悪いくせにこういう時だけ相性抜群なのいい加減にしてほしい。久しぶりに暴れられて楽しかったとでも言いたげな、いたく満足げな様子で彼らは襟首を引っ掴んでいたそいつらを俺達に見せてくる。
 アスファルトの上にポイ、とゴミでも放り投げるがごとく打ち捨てられたのは、どちらも街を歩けば四、五人は見かけそうなくらい平凡そうな三十代くらいの男性二人組だった。ろくに手入れされていないパサついた黒髪に無精髭、襟のヨレたシャツにボロいデニム姿の方がキャンディ・ポットだろう。紅狼が作ったモンタージュ(という名の似顔絵)と特徴が同じだ。
 もう片方は真夏だというのに顔面をすっぽり覆う分厚いフードパーカーに、裾の広いハーフパンツというけったいな格好の男だ。全体的にオーバーサイズ気味の服装だが、骨格を完全に隠すことはできないからわかる。フードからは茶色っぽい長い髪が覗いていて、隣のキャンディ・ポットと比較するとやや小柄な体格なので、性差を誤魔化そうとした苦労がしのばれる。こいつが「センパイ」か。

「よーし。楽しい楽しい尋問タイムといきてえとこだが、今回は子供連れなものでな。尋問自体は本家にて執り行う。ってなわけで、もうすぐここに結が来るから勇次郎と龍樹は荷物、じゃなかったこいつらを家まで運ぶの手伝ってやれ。お前は私と留守番だ」
「ハア!? 今更実家に帰れって!?」
「ちょうどいいじゃないか。どうせ盂蘭盆にはお前も招聘されるんだ、あいつにみっちり扱いてもらえ。どうせ夏越もサボったんだろ、この際だからウチでやる儀式はお前にも全て継承してもらう。一人前の術師になりてえんなら、まさか嫌とは言わないよな?」
「……ちっ、わかったよ。龍樹、こいつら縛るの手伝って」
「はいよ。でも彼、確か勘当されてるはずですよね? いいんですか?」
「それこそ今更だろ。結がキレたのも、こいつが家長である紬と対立したことに関してだ。紬が勇次郎を許したなら結がこれ以上何か口を挟むこともない。あのアパートだって家賃を負担しているのは私だが、名義は紬だぞ」

 しれっと勇次郎が独立したわけではなく金銭的援助も含めて支援しているのは自分達だとぶっちゃけた纏は、待ち構えていたように再び現れた赤いオープンカーをみとめると片手を上げて応じた。駐車場の中へなめらかに滑りこんできた車体から、夕方にも顔を合わせた彼女が降りてくる。

「こいつらは私が預かろう。……なんだ、本当にそれぶっ壊したのか。まあまあいい値段したと言っていただろう。本当にお前は物を大事にしない」
「この辺ならタクれば帰れる範囲だろ。どうせ仕事用だ、元々大して必要でもない。あとでレッカー呼んでスクラップにする予定だ」
「やれやれ。結局私はお前達の尻拭き係というわけか。さて、子供達。もう夜も遅い。七種くんを除いて、他は一緒に乗りなさい。龍樹くんは自宅まで送ろう。勇次郎、まさか逃げようだなんて考えるなよ。これから楽しい楽しいお説教タイムといこう」

 いつも強気な彼らしくなく顔面を真っ青にしてガタガタ震えながら龍樹の背中に隠れていたが、猫の子でも摘むように首根っこを押さえられてしまい、勇次郎は大人しく助手席に腰を下ろした。その間に俺と龍樹くんですっかり伸びたままの二人を車のトランクに放り込み、後部座席に乗り込んだ彼とはここでお別れだ。

「今日はお疲れ。またどっかで」
「うん。七種くんもお疲れ様。また勇次郎と一緒に遊びに行くね。……今度は仕事抜きで」

 唸りをあげるエンジン音が遠ざかっていくのを見送り、はて自分はなぜここに置いてかれたのだろうと遅まきながら首を傾げた。確かに纏のセーフハウスに居候中の身の上なので、帰るところが同じなら一緒に帰る方が効率いいのはそうなのだが。

「……お、俺達もそろそろ帰りません? いい加減腹減ったし、どっかでメシでも」
「そうだな。その前に、解決すべき案件がまだ一つ残っている。お前の『家』だ」


◆◆◆


 前に私物を運び出す時にも軽く掃除はしたし、ゴミ出しや片付けだってしたのに、再び足を踏み入れるとやはり再び室内は荒れ放題に散らかっていた。脱ぎ散らかした衣類や、かろうじてゴミ袋に詰め込まれた生ゴミが廊下にもリビングにも放置され、男二人で生活するにはやや広いマンションは惨憺たる有様と化している。
 元々父親は片付けが苦手な人だった。本人もそれをわかっていたから、大きくなって俺が家事を分担できるようになるまでは、通いの家政婦を雇っていたほどだ。父親くらいの年齢で家事が全くできないというのは珍しいが、人には得手不得手があるものだ。掃除や洗濯ができなくても、その分稼ぎはあるし日頃は仕事で家を空けているから大した負担もない。
 最初の頃は寂しさも募った。孤独に苦しんだ日々だってある。でもそれも、いつしか摩耗していった。どれほど求めたって期待したって無意味なら、はじめからそんなもの欲しがらなければいい。幸い、ここは都内のド真ん中だ。気を紛らわせるものはなんでもあった。酒も、煙草も、暴力も、金も。浴びれば浴びるほどに飢えも哀しみもやがて薄れて掠れていく。
 そうしてそのうち、俺にとって家族というのは居ないものとなった。父親も、母親も。たとえば今、家族構成を訊かれたところでうまく両親の本名を諳んじられるか自信がない。それほどに自分の中で二人の存在は希薄で、既にどうでもいいものに成り果てていた。人は一人では生きてはいけないという。確かにそうかもしれない。でも、きっと独りで生きていくことはできる。なぜなら最初から、俺はずっと独りだったから。

「やはり想像していた通りだったな……とはいえこの状況は予想以上に酷いが」
「ハ? 何が?」
「ずっと『におって』いた。怒り、悪意、虚無感、絶望、孤独感、寂しさ……そういったものが綯い交ぜになった感情の香りが。お前の心に空いた穴から漂うものだ」

 マンションの一室に入るなり顔色をさっと変えた纏さんは険しい表情のまま、ぐるりと部屋内を見て回る。黒黴まみれのバスルーム、水垢でくもった洗面所の鏡、汚れた食器が山と重なったシンク、油汚れのこびり付いたコンロ周り、溜まったゴミ袋で足の踏み場もないリビング、ほとんど使用された形跡のない父親の寝室。
 そこだけが、人の住めなくなったこの家で唯一、静寂を保っていた。うっすらと埃を被ったベッドは未だ冬物の布団と毛布がかけられていて、足を踏み入れた瞬間にラグの上に振り積もった綿埃がふわりと舞う。整頓された室内には余計なインテリアなどほとんどないだけに、寝台の脇に置かれた写真立てがやけに目を引いた。
 それは在りし日の夫婦を映したもの。顔も名前も知らない、覚えてもいない母親と、若かりし頃の父親が睦まじく並んでいるツーショット。俺が生まれるよりも前の。二人は笑っていて、それはとても幸福そうな笑顔で、互いの瞳は希望に輝いているようにみえた。掃除やなんかで父親の寝室には何度も立ち入ったことがあるはずなのに、どうしてこれの存在に気づかなかったんだろう。違う、あえて直視を避けてきた。だって。

「……勇次郎は当代随一の見鬼だ。それゆえに、周囲にいる人間の目を開眼させるきっかけとなることもある。ただ、それは巡り合わせや他の要因も関わってくるから、数日行動を共にした程度ですぐに影響を及ぼすということはない」
「さっきからなんなん? あんた何が言いてえの?」
「おかしいとは思っていた。眼は開いているのに視えていない、意図的に瞼をおろしているとしか思えない。開眼した時点で強制的に視えるようになるのに、お前は勇次郎と出会うまで視えていなかった。最初からお前は視えるようになぅていたのに、だ」
「……いや。別に俺、そういうんじゃないけど」
「何も知らされず呪物を取り扱わされていたのに、呪物の持つ霊気に当てられた様子もなかった。もちろんほとんどは無害に近い、大した効果も見込めないものではあったんだろう。でも話を聞く限り、本当に人を呪い殺す力を持つ危険度の高い商品も扱っていたはずだ。なら、どこかで返しを受けていてもおかしくない。しかしお前は何事もなく無事だった。それは、なぜか」

 纏はどこか苦しげに眉根をきつく寄せ、祈るような手つきで布団をひっぺがした。どうせ何もない、はずだ。そのはずなのに。黄ばんだシーツの上で横たわるのは、二人の男女だった。明らかにもう生きていないとわかる、乾いて青ざめた肌をしていた。まるでつくりものみたいな、人形のような一組の死体が、そこにあった。

「……人は無念や恨みつらみを抱いて死ぬと、残った空の器をある手順に従って作り替えることで呪物となる。圭一という子供が不幸な死によって紅狼の手で呪物にされたように。お前の『両親』もまた、同じように呪いを秘めた器としてここにあった。本来腐敗するはずの肉体は、その霊気によって今なお原形を留めている」

 スーツの内ポケットから黒いレザーのグローブを取り出した纏は、そっと慎重に触れる。艶をなくした髪に、瑞々しさを失った肌に、二度と動くことのない関節に。不思議と嫌な感じは覚えなかった。医者が触診するような手つきだったからかもしれない。

「……いつから。いつから、二人は死んでたんだ?」
「わからない。でも、ずいぶん前からここにあった。いつ頃呪物と化したかは詳しく調べないことには不明だが、長いことお前を見えないものから守っていた。その眼にミストをかけて、開眼してなお映らぬように。悪いもの、怖いものからお前を隠すために」
「守る……? 俺を……?」
「そうだ。二人は守るために命を落とした。お前が生きていけるように。たとえこの先ひとりぼっちになったとしても。なあ、この状況に不自然さを感じはしなかったか? なぜこんなに散らかっているんだろうな? 荷物の運搬時にある程度清掃しておいたんだろう。家主がとっくに死んでいるなら、これほど室内が荒れているのって、なんだか変だと思わないか?」
「……誰か、ここに勝手に住み着いていた……? まさか、だって家の鍵は俺しか」

 途中まで言いかけて口を噤む。俺が持っているのはあくまで合鍵だ。本物は父親が所有していた。いつどこで父親が死んだかはわからないが、第三者が死後に父親から鍵を勝手に持ち出したことは充分考えられる。

「そいつは、本来の住人に気づかれないために家から追い出した。確かお前、しばらくホテル暮らししていた時期があったと言っていただろ。その間、一度でも自宅に立ち寄ったか?」
「……いや。私物とか貴重品は最初にあらかた持ち出したから、勇次郎のアパートに転がり込む直前に、ちょっとだけ寄ったくらいで、その間は全く家に帰らなかった」
「ホテル暮らしするように命じられたか? それとも誰かに『アドバイス』を受けたりはしなかったか?」
「……あった。あの仕事を始める時、実家暮らしか一人暮らしか訊かれて、実家に住んでるって答えたら『センパイ』に家出ろって言われて。大量の商品を管理することになるんだから親に黙っておけないだろって。それもそうだなって思ったから、あちこちのホテルを転々としてた。まさか、そのせいで?」
「お前の両親の死を一定期間偽装するために、この家は一時的に維持する必要があった。お前が通う学校の学費など、かかる経費も父親の財産から支払ってはいたはずだ。だから今まで気づけなかった。そうして無知な子供を甘い言葉で釣って、知らぬ間に勝手に身内や家族を呪いの器に変え、売り捌く。気づいた相手が問い詰めた時には、お前も同じ目に遭わせられたくなければ言うことを聞け……とまあ、こんなような手口で売り物と捨て駒を増やしていったんだろうな」

 そして父親は死んだ。殺されたのか、それとも死因自体は事故や病気などの自然なものだったのかは、今となっては知る術などない。別に知りたいとも思わない。ただ、父親の死は俺の自業自得だったと思い知らされただけだ。そして呪物にされても父親は、俺が化け物を視なくて済むように目を覆っていてくれたらしい。
 生まれてからずっと関わりの薄い人間だった。親らしいことなんてほとんどしてもらった覚えもない。家族間の愛情なんてものを確かめたことさえ。小さな頃から相手は他人同然だったし、今更どんな死を迎えたところで大した思い入れもない。今も、悲劇的な結末を知らされたのに、ちっとも哀しみなんて浮かんでこない。悲しくないことが、途轍もなく哀しい。

「……ここへは弔いに来た。もう、私にすべきことも、やれることもない。それでも死を悼み、行くべきところへ案内することはできる。それが私の義務だ」
「母親も、どっかで死んだか殺されたかして、呪物にされちまったんかな。だとしたら可哀想だ。どこでどんな風に生きてきたのかなんて知らねえけど、親不孝な子供のせいで理不尽に死んじまうなんてさ」
「お前の両親の尊厳を踏みにじったやつらは今日、捕縛しこれから尋問される。それで赦しになるとは言わない。本来なら未然に防がなければならないことだった。償いにもならないが、最後の仕事はきっちりやらせてもらう」
「いいよ、別に。纏さんがそんなことしなくても。でも放置はできないから、火葬してどっかのお寺さんに預けて、この家は処分して……あー! やること多いな、クソ!」

 この先待ち受ける細々とした雑事に頭を抱え、しゃがみ込んだ俺の肩に、所在なさげに手のひらが触れた。なんだなんだと顔を上げると、蛍光灯を背にして立つ逆光に翳った纏の顔が視界に入る。いつもと変わらない、無表情に近い顔つきがなんだか今にも泣き出しそうにみえたのは、俺の幻覚なんだろうか。

「お前は確かに壊れているのかもしれない。人と人の関係が煩わしい、誰の哀しみにも寄り添えない、孤独を孤独とも感じれず、誰に対しても優しくあれない。それは全て、お前のせいではない。お前が悪いわけじゃない。そうして独りで生きていくことだって、ひとつの答えだろう。それでも、どうか忘れないで。お前を案じる人間がこの世のどこにもいないなんて、ありえないんだってことを」

 この先、抱え込んだ虚無感も息苦しさも癒えることはないだろう。俺は誰かと歩調を合わせて一緒に歩いていけるようにはならない。誰かと心を通わせる嬉しさも、ふと与えられた優しさに慰められることも、おそらくない。今まで独りだったように、これからも独りで生きていくことになるだろう。そこに後悔も、絶望もない。
 だけど、この人に対してだけは、少しだけ肩を貸してはしいと願ってしまうのは。俺が虚ろな存在じゃないことの証になるだろうか。もしも誰かと暗い道を往くことになるなら、道行を共にするのはこの人がいい。きっとお互いに分かり合える日は来ない。俺達がそれぞれに手放せずにいる感情は、決して重なることはない。一人と一人は二人にはならない。それでも。
 いつか何もかも失くしても、この先何も手に入らない人生だったとしても、たったひとつだけ失いたくないと思えるものがあった。それが今、目の前にある。優しい人になれない俺に、優しい人でなくてもいいんだと言ってくれた、正論で人を救おうとはしないあなたなら。穴ぼこだらけの魂だって預けたっていいかなと思えるから。

 手袋を外し、素手で纏が触れた瞬間、呪物と化した両親は内側から破裂したように弾けた。無数の細やかな燐光をまとう欠片となって、空気に溶けて消えていく。死体のようにみえていたものは、もう人間の亡骸ですらなくなっていたと、その美しい消え方が告げていた。きらきらと床に落ちる前に見えなくなる欠片達は、捕まえようとしてもその前に輝きをなくしてしまう。弔いというにはいささか乱暴で、荼毘に付すよりも綺麗な葬送だった。
 呆然と立ち尽くしていた俺に、いつも通りの無表情に戻った纏がそろそろ帰るぞ、と声をかける。

「……帰る? どこに? それとも、もしかして纏さんのところに帰ってもいいってこと?」
「別にここに寝泊まりしたいなら止めないが。せっかく家事万能な見習いが見つかったからな、手放すにはちと惜しい」
「あんた家事できないもんなあ。しょうがねえから一緒に帰ってやるよ。あ、途中で買い物しないと。冷蔵庫の中ほとんど空っぽなの忘れるところだった」
「私に荷物運びさせる気だな、さては。まったく人遣いの荒いやつだ」
「あんたが言えたことか」

 こうして俺の愉快な非日常は終わり、また新たな日常がスタートしたというわけだ。
 とはいえ全ての疑問が解決したわけじゃない。たとえば圭一という子供の死体はどのように売り捌かれたのか。その子の本当の死因はなんなのか。あるいは、「えやみ様」とは結局なんだったのか。なぜあの廃ビルは打ち捨てられ、周囲は今なお空き地のままなのか──。
 そう遠くないうちに、全ての答えを知る日がいつか来ることを今の俺は、未だ知らない。

いいなと思ったら応援しよう!