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コットン100%の部屋

 佐藤は安堵した。
兵庫県西脇市から入った山道を歩き続けて三時間弱、ようやく目的の宿を見つけたのだ。一時間ほど前から道はとっくに失われており、その宿は木々の中にぽっかりとひそんでいた。

「最高の眠り心地、幻の隠れ家《綿花荘》」

 残業続きで灰色の顔をした佐藤は終電に揺られながらツイッターを開いた。「プレミアムフライデーなう!」「フジの新ドラいいな」といったつぶやきを冷ややかに眺める。ぼんやり画面を流していると広告ツイートがふと目に入った。普段なら広告は全て読み飛ばしているが、何とは無しに添えられたURLをタップした。

「綿花荘は創業二五○年、こだわりぬいた高品質の綿製品を揃えたお部屋でおもてなし致します。綿に包まれる安らぎをご提案」

 どうにも不思議なサイトだった。予約のための電話番号も載っていなければ、宿の住所もない。佐藤は暗い家路をのろのろ歩きながら「アクセス:西脇市内から足の向くまま三時間」という一文を見つけた。酔狂で行ってやろうかと一瞬思ったがすぐに、馬鹿馬鹿しい、と鼻であしらって玄関の鍵を開けた。

 そして佐藤は今、綿花荘の前に立っている。何故来たのか、どうやって来たのか、仕事は休んで構わない日だったか、いやそもそも今日は何曜日だろう…。不意に宿の扉がガラガラと開いて初老の女が出てきた。
「佐藤様、お待ちしておりました。女将のホシでございます。さぁさ、お疲れの事でしょう。お部屋はすっかりご用意出来ております」
ホシに促されるまま宿に上がり、長い廊下を進んでいるうちに佐藤の思考はふわふわと霞んでいった。
「こちらがお部屋でございます」
覗いた佐藤はハッと息を飲んだ。客間は白かった。畳、壁、天井、窓枠、ふすま、障子、机に座椅子、何もかも白かった。奥にこんもりと敷かれている布団一式も。
「どうぞごゆっくりとおくつろぎくださいませ」

 ホシが下がると佐藤は訝しげに部屋の壁に触れた。綿(わた)であった。しっかり織り込まれており、力を込めると厚みが感じられた。部屋の真ん中の机に向かって歩くと畳にも弾力を感じた。しゃがんで手を滑らせるとこれも綿であった。
 部屋にある物は全て綿で作られていた。床の間の掛け軸や活けられた花の造形は見事であった。綿を押し固めて作られた机の上には、防水加工を施された白い急須と湯飲み、菓子入れが据えられていた。菓子入れの中にある半透明のものにそっと触れてみると、しっとりと冷たく柔らかかった。こわごわかじってみると葛か何かの和菓子であった。佐藤はほっとして三つの饅頭をぜんぶ食べた。

 綿製の窓を開けて綿のソファに座ると、佐藤の髪をふわりと風が揺らした。近くに渓流があるらしく、さわさわと水の音が聞こえる。心地よかった。こんなにゆったりと過ごすのはいつぶりだろう。
 日が暮れてきた頃、ホシが夕食を運んできた。器も綿であった。
「珍しいお部屋に驚かれたことでしょう」
給仕をしながらホシが話し始める。
「日本一おくつろぎいただけるお宿を作りたい、そんな想いから綿花荘は創業いたしました。お陰様で多くのお客様に支えられて二五○年になります。佐藤様もどうぞこのお部屋をご堪能くださいませ」
 佐藤はすっかり満足していた。慌ただしく無機質な日々が遥か彼方の昔の思い出のようにさえ感じられた。肌触りの良い綿の浴衣をまとい、ふかふかの白い布団へ潜り込む。何もかもが満たされていた。心身ともに柔らかくほぐれてゆくのをしみじみと感じながら佐藤は眠りに落ちた。
 瞼を閉じかけるほんの一瞬、枕の端のほころびが目に入った。おや、明日ホシに教えてやろう。。。。

 翌朝、ホシは布団の中にびっしりと咲いた綿の花を丁寧に集めた。
実綿(みわた)を取り出し、種を除くために綿(めん)繰り機にかける。時間をかけて綿打ちを行うと不純物が全て取り除かれた打ち綿になる。ホシは慣れた手つきで打ち綿を棒状に丸め、糸車にかけてゆく。
「おくつろぎいただけたようで、綿の質も大変にようございます。今後とも当館をよろしくお願い致します」

 ホシは新しい木綿糸で枕のほころびを綺麗に繕った。

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