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『「本当に消去しますか?」Yes/No 』

 この街は雨の日が多いです。自転車通勤の身にはちょっと厄介です。店長によるとこの一帯に集まっている「人間の心を扱う店」のオーラがそうさせているらしいのですが、真偽のほどは分かりません。
 『消去百貨店』という、完全に名前負けしているオンボロの小さな路面店が僕の職場です。鍵の開け方にコツがありまして、左斜め上に力をかけて同時にドアノブを奥に押して鍵を回します。午前十一時にclosedの札を裏返して消去百貨店はいざopenです。
 カウンターの奥に座って外のしとしと雨を眺めていると、女性が店の前で目をくりくりさせて店構えを確認しています。大体みなさんこんな感じでお越しになります。
「いらっしゃいませ」
古びたドアを開けてにこやかに女性をお迎えします。迷ったり気後れして帰ってしまう前に店内へご案内しないとね。

 ソファに座るよう促してぼくはカウンターに戻ります。ガラスのティーポットにアールグレイを用意して、まだそわそわと落ち着かない彼女の向かいに座り温かい紅茶を勧めます。
「では早速ですが当店をご利用いただく流れを簡単にご説明いたしますね」

 「まずはお客様がご負担として抱えていらっしゃる記憶を私にお話ししていただきます。私の方で内容を書類にまとめて、間違いがないようでしたら書類の最後にサインを頂戴いたします。料金は一律となっております。お支払い後、次回のご来店日をご予約いただいて……」
「え、もう一度来ないといけないんですか? わたしは、その、今すぐにでも忘れたいんですけど」
「ええ。記憶の消去は本日で完了いたします。経過確認のための再来店が義務付けられているんです。こればかりは法律の事ですのでご了承ください」
「はあ、分かりました」
「ありがとうございます。再来店のご予約についてはお客様のスケジュール帳を私も一緒に確認させていただきます。何しろお客様は「忘れて」しまいますので」
ここで冗談ぽくふふふ、と笑ってみせると女性の緊張も少し緩んで笑顔になります。
 そんな法律なんてないのに、店長に仕事を教わってからしばらくはこの嘘をつくのが辛かった。店番を一人で任されるようになり、三年も経つとなんだって慣れるものです。

 「以上が済みましたらこちらの、よっこらしょ、と。こちらの記憶シュレッダーに書類を通して終了となります。記憶の内容を含めた全ての個人情報はもちろん厳重に管理、必要時は責任を持って破棄させていただきます。何かご不明な点はございますでしょうか?」
「ええと、大丈夫だと、思います」
「それでは始めましょう」
ご不明点なんか丁寧にお伺いする前にどんどん進めちゃいましょう。お客様がまだ少し戸惑っているくらいがちょうどいいんです。

 「カレンダーをめくれないんです」
「はい?」
「わたし、すごくズボラで、毎年カレンダーをめくらないまま三、四ヶ月ぶんくらい無駄にしてしまうんです」
「今年こそはと思って、年末の高揚感もあって、思い切って日めくりカレンダーを買いました。全部になんかいい感じの名言が付いてるようなやつです」
「それはまた極端な」
「そうなんです。最初はちゃんとめくっていたんですけど。二月三日で止まってしまいました」
「あー、七月になってしまいましたねえ」
「二五◯◯円だったので一日あたり六.八円です。ここに来る前に今日までのを全部めくってきました。九九◯円ぶんです。名言も読まないまま。九九◯円って数字がやり切れなくて不甲斐なくって。カレンダーを無駄にした事を忘れさせてください。初心にかえって明日からちゃんとめくりたいんです」
「なるほど。今のお話をまとめさせていただくと、こんな感じでしょうか」
メモを取りながら聞いた話を定型の書式に打ち込んで確認してもらいます。
「はい、これでお願いします」
「ではここと、ここにサインを」

 書類が完成したので、再来店の日にちを決めます。ちょうど一週間後になりました。
「スケジュール帳をお借りします。私の方で少し追記をさせていただきますね」
日付の欄を蛍光マーカーで囲み、ぼくの名前の判子を押します。どんなに忘れていても、これだけ厳重にすれば大事な予定である事は一目瞭然、身に覚えがなくてもないがしろにされる心配はありません。

 料金をお支払いいただき、いよいよ消去のお時間です。記憶シュレッダーはタイプライターのような形をしています。書類を流し込むように通してスキャン、バチンバチンと強く押し込むキーはアナログのように見えますがデジタル仕様です。
 ピピピピ、ガガガガガ。今にも止まりそうな音を立てながら書類を飲み込み、「チン!」と軽快な合図で作業の終了を知らせます。女性は数秒のあいだ虚空を見つめてから
「お茶をご馳走さまでした」
とふわふわした表情で会釈をし、そのままふわふわと店を出てゆきました。
「ありがとうございました。またお待ちしております」

 とまあ、これが消去百貨店です。忘れたい出来事、辛い思い出。それぞれが抱えきれない記憶を綺麗さっぱり取り除きます。やり甲斐ですか? うーん、場合によります。どんな仕事もそうなんじゃないでしょうか。

 さてさて。一週間が経ちました。今日の天気は薄曇り。あの女性は前回と同じように訝しげに店の様子を伺っています。満面の笑みでお出迎え。ソファに紅茶。今日はアッサムを淹れました。
「あのう、スケジュール帳に、ええと、」
戸惑って言葉を選んでいる彼女をさえぎる形で、ぼくは声のトーンを〈めちゃくちゃ優しいモード〉にしてゆっくりと、かつ一気に説明をします。
「当店は記憶の消去を承っております。お客様は一週間前にお越しになり、私と一緒にこの記憶シュレッダーを使って消去作業を行いました。その際にお伝えしましたお約束のために本日はご来店いただきました。シュレッダーによりお約束もお忘れになっておられる事と思います。消去作業の前にご承諾いただいた書類がこちらになります。記憶の再インストールを行い、本当にその記憶を手放すかどうか今一度ご判断いただきます。完全消去をご希望の場合、こちらに記載があります通り追加料金を頂戴する形となっております」
 ええ、してないですね。そんな契約。女性がお帰りになった後にぼくが書き加えた「記憶」です。しかもこれは『記憶等取扱事業法』に違反する行為です。記憶の改ざん、料金の二重取り。ただ、店長はお金儲けの為だけにこれをやっている訳ではありません。(お金もすっっごく大好きな人ですけどね。)

 そうだったかなあ、とあれこれ考えてみても目の前には確かに自分のサインがありますし、消去直前の切迫した気持ちはもちろん、何を忘れたのかも忘れている状態です。再インストールの同意は簡単に得られます。
 ピピピピ、ガガガガガ。一度目とは逆方向に書類がシュレッダーを通過していきます。「チン!」と音が鳴ると、女性の様子はみるみる変わっていきました。体全体からぶくぶくと熱い蒸気が湧き上がってきているかのように上半身が少し浮いて、顔は真っ赤になっています。
「どうして思い出させるんですか!」
「ですからご契約の際に……」
「ああ! 七日分しかサボってないって思ってたのに! 四七円しか損してないって! トータル千円超えて一◯三八円になっちゃったじゃないですかー! うあーん!」
「ええ? 一枚もめくらなかったんですか?」
さすがにぼくも呆れかえってしまいました。しかし計算早いなこの人。キイキイ声のすごい剣幕でさらにまくし立ててきます。
「これ! 追加料金です! ああもうっ。あと千円追加するので今日までの分も消去してください! 早く!」
「は、はいい! 只今っ」
ピピピピ、ガガガガガ。チン!
 嵐は過ぎ去りました。すとんと大人しくなった彼女を店外にお送りしてぼくはソファに倒れ込みます。やれやれ。叩きつけられた千円は店長に内緒でお財布に仕舞いました。

 店内から外を眺めるとまるで川の中にいるような、今日は大変な土砂降りです。夕方の四時半まで一日中、通りを過ぎる人の姿はなく、世界が終わった事に一人気付かずにずっと店番をしてるんじゃないかしらなどと不安になっていたその時です。バチバチバチバチ、と物凄い音がしました。ドアが開いて外の大雨の音が入ってきたのです。着衣水泳の帰還者、もといずぶ濡れのお客様と共に。疲れ切った男性が後ろ手にドアを閉めると轟音はぴたりと止みました。
「いらっしゃいませ。今日はとんだお天気ですね。コートをこちらに、さあタオルをどうぞ」
顔や体を拭きながら彼はしきりに謝ります。
「すみません、閉店間際に。すみません、タオルまでお借りしてしまって。ソファに? いえいえ大丈夫です、立ったままで。え、いいんですか? すみません」
ダージリンティーを三口ほど飲むとだいぶ落ち着いたようです。さてと、まずはご説明から。
「……以上で何かご不明な点はございますでしょうか?」
「いえ、ありません」
「それでは始めましょう」

 「今度、結婚をするんですが」
「それはおめでとうございます」
「ええ、伯母に勧められた見合い結婚でして。わたしには勿体無いくらいの素敵なお嬢さんで、彼女といい家庭を築きたいと思ってるんです」
「……思ってはいるんです。まず、なんでお見合いの話が来たのかというと、わたしはお付き合いというのをした事がないんです。中学生の頃からずっと好きな人がいまして、どうしても忘れられず他の恋愛もできなくて。でも当時から誰にも言えないままで」
「その女性の方は今どうされているんですか」
「女性の方。話すとそうなりますよねやっぱり」
紅茶を手に持ったまま唇をきゅっと横に引いて彼は決心した様子を見せました。
「辻村くん。陸上部でした。彼の走る横顔が好きでした。教室でふざけている時の笑顔も好きでした。わたしは辻村くんと特に親しい仲ではなかったのですが、帰り際に肩をたたいて『じゃあな』なんて言ってくれる屈託のない人でした」
「辻村くんの事と一緒に、男性を十数年も想い続けた事も忘れたいんです。結婚をして、家庭を持って、家なんて今時、買うんでしょうかね。はは、そんな話もお嫁さんとするんでしょうね」
どこか遠くを見ているような伏せがちの視線。乾いた笑い。ぼくは温かい紅茶のお替りを勧めました。

 ピピピピ、ガガガガガ。チン!

 「しまった、約束に遅れてしまう。婚約指輪を選びに行くんです」
「それは大変。駅に向かうバスがあります。あ! ちょうど来たあれです!」
「わわ。バタバタとどうも本当にすみませんでした」
「待って! すみません乗りまーす!」
「お気をつけてー!」
傘を開く間もなく再びずぶ濡れになって彼はバスに滑り込みました。

 男性が予約をした再来店は三日後でした。朝にはぐずついていた空も少し落ち着いてきた午後一時。そうっと扉を開けて、首だけ中に伸ばしてカウンターのぼくを見つけ
「あのう、すみませんが」
と今にも消えそうな小さな声。思わずくっくと笑ってしまいそうになりますがぼくもプロです。平静を装い
「お待ちしておりました」
と接客モードです。ハス茶のポットを持ってソファの向かいに座ると、不安なのでしょう、彼は口元で両手を合わせて擦っています。左の薬指に指輪がありました。

 消去について、再来店について説明し終えると、男性はふうむと首を傾げました。
「わたしは気が弱い方ですが現状で困っている事はここしばらく特に無かったんじゃないかと思うんです。それなのにこんな辺鄙な所へ、あ、いえすみませんお店の悪口ではないので気を悪くされないでください。こういったお店がわたしに必要だったんでしょうか。まあとにかく手続きがあるのでしたらきちんと済ませて帰ります」
本当に、こんなに素直で誠実な方には消去百貨店なんてアングラな店は必要ないと、ぼくは心から思いました。でも、だからこそ。
「では記憶の再インストールを行います」
ピピピピ、ガガガガガ。チン!
 その瞬間、男性は泣き崩れました。あの日の土砂降りのように次から次へと涙が頬を伝います。ボックスティッシュを差し出すとあっという間にティッシュのアルプス山脈がずむずむと伸びていきます。ぼくは黙ってじっと見つめていました。
「わたしは、わたしはこんなに大切なものを忘れに来たんですか。こんな……ぐすっ、人生の一部とも呼べるような……ぐすっ、うう、ぐすっ……」
「お客様、私すっかり失念しておりました。本日はシュレッダーの消去機能のメンテナンス日なんです。申し訳ありませんが完全消去はお受けしかねます」
「……ありがとうございます。ありがとう」

 角を曲がるまで何度も何度も振り返ってお辞儀をして男性は帰って行きました。ぼくも深々と頭を下げてお見送りをしました。ご結婚は予定通りされるのでしょうか、お相手の方に真実をお話しされるのでしょうか。ぼくはそこまで立ち入る立場にはありません。空には久しぶりの薄日が差していました。

 店長が決めた再来店のシステムは、ほんの一握りほどに起こるこういった案件の為のものです。ぼくはそんな店長が大好きです。今日は月末なので店長と一緒に業務記録などの雑務を片付ける日です。ぽかぽかと先ほどのお客様とのやり取りを思い出していると店長が入ってきました。
「お疲れー」
とボサボサの頭を掻きながらカウンター下のファイルをぽいぽいとテーブルに積んでいきます。ぼくはその中の一冊を開いて電卓を横に置きました。
「井口、ちょっと話がある。向こう座れ」
接客以外の無愛想はいつもの事ですが今日はなんだか雰囲気が違います。少し緊張してソファに座りました。店長はファイルをぱらぱらめくりながら、顔を上げずに言いました。
「なあ井口。次はないって、俺言ったろ?」
ええと、なんの事でしょう。あ、この前の女性からくすねた千円がバレちゃった? やばい、怒られる? ファイルをめくっていた手を止めて店長は一枚の書類を取り出しました。少し悲しそうな目をして
「未熟からの出来心だったから二度とやらねえって、忘れたら本当の自分に戻るからって泣きついてきたからな、俺も信じたんだぞ?」
そう言いながら書類を記憶シュレッダーにセットしました。ぼくは混乱して何も言葉が出ません。なんの事だ? ぼくはなにをした? 不安で顔から血の気が引いていくのが自分でも分かりました。ピピピピ、ガガガガガ。チン!

 「う、うわあああああ」
井口は頭を抱えて両目をきつく閉じた。心になだれ込む風景、顔、会話、感情。あまりの情報量に爆発しそうだった。

>「これ、いつものやつです」
>「面白いのが入りましたよ! ぼくも使いたいくらいです、あはは」
>「大丈夫ですって。店長は最近はほとんど店に来ないんです」

 他人の記憶を娯楽として提供する違法な店がある。あるいは路地裏でひっそりと売買されたりする。その記憶の出所は? 正規の営業が認められている店舗からの横流しだ。記憶マーケットは裏の世界で今までに類を見ない新しい刺激として右肩上がりに成長を続けていた。
 消去百貨店に勤め始めて間もない頃、井口は「人の記憶」に対して持つべき尊厳や畏怖の感覚について、いまいち本質を掴めずにいた。そんなところへ湧いて出た小遣い稼ぎである。ずっと欲しかったロードバイクを買った。カスタマイズ、新作のコレクション、お金はいくらあっても足りない。
 初めて完全消去をしない案件(見合い結婚に悩む男性のようなああいった案件)を扱ったとき、井口は店長の教えを理解したのだった。自責の念から自ら全てを話した。解雇を言い渡されたが、人の記憶についてもっと学び、店長のような理念を持った人間になりたいと泣きながら頼んだ。そこで店長の取った措置が井口の記憶の消去だった。

 ほんの数ヶ月前。客を装って来店した売人の口車に乗せられて井口は記憶を一つだけコピーして渡した。金魚が死んで悲嘆に暮れる老人の記憶。知人の結婚披露宴が続き、なんとも心許ない財布の為に一度だけ。これっきり。二度としない。その旨を売人にも告げた。在悪感からしばらく不眠が続いた。
 あれは一度きりなどではなかった。重ねに重ねた罪に付け加えられたもう一つ。井口は歯を食いしばって、泣き腫らした目を真っ直ぐに向けて言った。
「ぼくを消去してください」
「うん、お前はそう言うと思ったんだよなあ」
「だから俺さ、気付いたけど放ってたの。でもやっぱさ、この仕事では駄目な事は本当に駄目なんだよ」
「はい」
「記憶の消去じゃ足りない?」
「はい」
「だよな、そんな風に教えたもんな」
「俺は井口の事、絶対忘れねえから、って言ってやりたいけど」
「お気持ちだけで十分です。長い間、本当にお世話になりました」
人生の中で一番深いお辞儀をして、井口は財布から取り出したカードを店長に預けた。バチンとシュレッダーのキーを叩いてから店長は井口のマイナンバーカードをスキャン部分に差し込んだ。
 ピピピピ、ガーガーガガガガ。シーン……

 「えーと、なんだこりゃでっかい忘れ物か? いつの客だったか。まーとりあえず店先に置いといたら持ち主も気付くか」
店長は井口の自転車をソファ席のショーウィンドウ側、観葉植物の間に立てかけた。消去百貨店は『自転車が飾ってある店』という目印ができた。もう誰も、この店がそうなんだろうか、入ってもいいんだろうか、なんて店先できょろきょろ迷ったり戸惑ったりしなくなった。
 ところでどうやらこの物語を最後まで読んでしまった人がいるようだ。消去百貨店の詳細な業務内容は門外不出である。その記憶、消去させてもらおう。

 ピピピピ、ガガガガガ。チン!

おわり

 ハルトナル(twitter)の妄想架空場面ツイートからインスピレーションを受けて短編を書くシリーズ、第三弾。今回のお題ツイートはこちら。

流石の妄想力。彼女はなぜかいつも「ただならぬ雰囲気」をぶっ込んで来るので、天邪鬼なわたしは爽やか要素を折り込んで書きます。

過去作品はこちら。

「Coffee is back.」
カフェインが禁止された近未来。コーヒーのない生活なんて耐えらない!

「がんばるひとと、たしろさんと、しつどが、だいすき」
実家を飛び出して上京した古いアパートには何やら不思議な生き物が棲みついていて……。


発案 ハルトナル(note)
執筆 アメミヤミク


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