第二百七夜 『BLUE GIANT』
「また忘れてしまったのですが、どちらでしたっけ。」
「赤です。」
彼からその日の誘いが来たのは、5月の末頃だっただろうか。
取引先のMさんのライブということで、兎にも角にも行ってみようではないかと思い、参加を表明したのである。
代々木駅から歩いて5分ほどの小さなジャズクラブということで、ライブと言ってもロックミュージシャンのそれではなく、軽食なども頼める落ち着いた雰囲気のものである。
「せっかくなのでチーズの盛り合わせも頼みましょうか。」
Mさんの歌声を聞きながら、興が乗ってきた我々は、おそらくその日その会場で唯一、ボトルでワインを頼んだのだろう。
周囲からは何をしにきたのだと言わんばかりの視線を浴びる。
しかし、普段、そこまでワインを好まない私でも、この歌声にワインを合わせないのは勿体無いと思えるほどMさんの歌は響いた。
招待してくれた彼が奢るというので、調子に乗ってボトルを選択してしまったことは私の若さだと彼には諦めてもらおう。
「実はこういうところは初めてでして。」
「そうなんですか。意外ですね。そこまで難しいハウスルールがあるわけではないと思いますよ。」
「ただ良いですね。私もわかる曲のラインナップです。」
その日、Mさんが選んだ曲のセットリストは昭和の名曲を中心にシティポップやバラードを14曲ほど。
どれも日本に住んでいれば聞いたことのある曲であった。
昭和のヒットソングというのはそういう意味ではある種のクラシックに昇華したのではないかとふと思う。
「次の曲は梅雨の時期だからこそ…」
Mさん曲の紹介を入れる。
曲の順番と言うのも、フレンチのコースの順番のように我々をワクワクさせるものである。
そして、コースではあり得ないのがアンコールである。
曲は進んでいき、ひとまずのセットリストが終わる頃、私はワインをグラス1杯分だけ残し拍手を送る。
彼は最後のやけに長い拍手に若干戸惑い気味である。
アンコールを求めるこの拍手が今までと違い、面食らったのであろう。
Mさんがステージに再び戻り、2曲を披露する。
私はその2曲に合わせて最後の1杯をゆっくりと飲み干した。
当日知ったのであるが、Mさんは宝塚に10年近く所属していたこともあり、人前に立って披露をすると言うことには慣れていたのだろう。
終始、表情豊かに様々な曲を歌い分けていた。
彼も私も残念ながら音楽の専門家ではない。
しかし、確かに、Mさんの歌声は琴線に触れるものであった。
アマチュアの良さと言うのはそこにもあるのではないだろうか。
Mさんの歌唱力云々を評価できるほどの技量がないからこそ、フィルターなしのMさんの歌声に聞き入ることができた。
我々も仕事中プロとしてお客様に相対するが、その時にいい意味でアマチュアとプロとして、細かい部分は置いておいて、納得できたと考えている方は少なくないのではないか。
ライブが終わり、彼と焼き鳥屋に向かう道中私はそんなことを考えていた。
良い音楽とワインを嗜んだ後は、俗世に戻るために居酒屋の焼き鳥を貪るのである。
物語の続きはまた次の夜に…良い夢を。
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