3.11
2011.3.11
当時私は中学1年生だった。
今ではもう顔も覚えていない先輩方を卒業式で見送り、部活を始めようと再度学校を訪れたときだった。ちらほらと集まり始めた部員と先に体を動かしておくかと話していたとき、顧問から部活の中止が告げられた。
「東北で大きな地震があった。津波の心配がある」
そんなことを言われても、正直ピンと来ない。
私は当時沖縄にいたからだ。
疑問に思いながら家に帰り、家族と共にテレビをつけた。その後、誰も何も言えず、呆然と立ち尽くしていたことは覚えている。
その後、その後はどうだったであろうか。
おそらく毎日繰り返される地震と津波のニュースを見ながら、私の周りはいつもと変わらない日々が流れていたのだろう。幸いにも東北在住の知り合いは全員無事だった。思い出したように友人と「東北ヤバそうだね」と言葉を交わし、転校してきた彼や彼女は内地から避難してたのだという噂もあっという間に囁かれなくなる。私の中で3.11の出来事は、瞬く間に過去のものとなった。
その後、関東で大学に進学し、地元に戻らず就職した。関東で出来た友人と3.11の話をする機会もなかった。そんな時だった。小学生と話をする機会があった。社会の教科書を眺めながら災害の話をする際、彼女の口からポロリと溢れた。
「私達が生まれる前に大きいのがあったんでしょ?」
その言葉に驚きを隠しきれなかった。
私の中ではとっくに過去になっていながら、忘れられない出来事であるあの日は、彼女たちにとっては教科書の中にある、歴史上の話でしかないのだ。私が学生の頃、語呂合わせて必死に覚えた歴史と変わらないのである。それに気付いた時の衝撃は、何にも形容し難い。ただ、子供だった私に地下鉄サリン事件や阪神・淡路大震災を繰り返し語ってきた大人の気持ちが、なんとなく分かった気がした。私は彼女に東日本大震災を伝えなければならない。その使命感に駆られた。理解や共感は必要ない。ただ、知っていてほしい。いつ、どこで、何があったのか。大きな困難を、人々がどうやって乗り越えてきたのか。乗り越えることができなかった人がいることも。何故だかは分からない。ただ、そうやって積み上げられた歴史の上に、彼女が生まれたことを伝えなければいけない気がした。きっと未だにあの日に囚われている人がいる一方、時の流れとともに過去になっていく、一つの歴史として学んでいく人が増えていく。もし、後者に出会ったのならば、あの日の私の様子を伝えようと思う。あの日に東北で何が起こっていたのかも、分かる限り一緒に。私達は知っておかなければならないのだ。理解や共感まではしなくとも、知っておかなければならない。それが、何故なのかは私はこれからも考え続けるのだろう。
2011.3.11から10年。
私にとって、いつもと変わらない休日となった。しかし、10年前の今日何があったのか、忘れてはいけない、伝えていかなければいけない。
私にできる範囲で、私が知っている範囲で。
あと数時間で日付が変わる。
明日も変わらず仕事だ。
よく分からない感染症に振り回されて早1年。
きっとこれもいつか過去に、歴史になるのだろうと思いながら、あの日からの11年目が始まるのである。