見出し画像

なぜ星野源は「ばらばら」を歌わなければならなかったのか

https://x.com/nhk_kouhaku/status/1872054965851853104?s=46&t=YLduu8KX7m-f2auJsMo92A

 喜ばしいことに星野源が今年も紅白に出場するが、土壇場になって曲目変更の知らせが出た。「地獄でなぜ悪い」から「ばらばら」への変更だ。
 これに対し、このような記事が出た。

 星野がこの状況で「ばらばら」を歌うことがすさまじいアンサーだと?私はこの反応を大変遺憾に思っている。なぜか。それは、星野にとって「ばらばら」で示したテーマは随分前に提示した前提条件であるはずで、スタートラインとも言えるものであり、ここで改めてそれを提示しなおすことはある種の後退であるからだ。「地獄でなぜ悪い」ではなく「ばらばら」を歌うことは、皮肉ではなく、星野なりの撤退、あるいは諦めと考えていいと私は思う。

世界は ひとつじゃない
ああそのまま ばらばらのまま
世界は ひとつになれない
そのまま どこかにいこう
気が合うと 見せかけて 重なりあっているだけ
本物はあなた わたしは偽物
世界は ひとつじゃない
ああもとより ばらばらのまま
ぼくらは ひとつになれない
そのまま どこかにいこう
飯を食い糞をしてきれいごとも言うよ
ぼくの中の世界 あなたの世界
あの世界とこの世界 重なりあったところに
たったひとつのものがあるんだ
世界はひとつじゃない
ああそのまま 重なりあって
ぼくらは ひとつになれない
そのまま どこかにいこう

ばらばら-星野源

 ばらばらの簡単な趣旨は二つ。一つは自分自身の世界とあなたの世界はばらばらの違ったものであるということ、もう一つはその重なり合った部分にこそ価値があるということである。
 星野のいう自分自身の世界というのは「フィルム」や「夢の外へ」を聞くと分かりやすい。

どうせなら 嘘の話をしよう
苦い結末でも 笑いながら
そう 作るものだろ

星野源-フィルム

どうせなら 作れ作れ目の前の景色を

星野源-フィルム

夢の外へ連れてって
ただ笑う声を聞かせて
この世は光 映してるだけ

星野源-夢の外へ

夢を外へ連れ出して
妄想その手で創れば
この世が光 映すだけ

星野源-夢の外へ

 星野は「フィルム」でも「夢の外へ」でも、現実の世界を正しく見据えることを目標としていない。自分自身の世界は嘘や妄想といった自分にしかないものに依拠して作られるものであり、これこそが大切なものだといっている。これが「ばらばら」の言う、私の世界とあなたの世界のばらばらさだ。

 反対に、「もしも」ではこのようにも言っている。

もしもの時は
側に誰もいないよ わかるだろう
今まで会った人や
残して欲しい つたない記憶も

もしも-星野源

 自分自身の世界には価値があるが、いずれ死ぬ私たちはそれだけでは何も残らない。では何を歌えばいいのだろうか。「知らない」では、その問題について直接触れている。

何も聞き取れない君に僕は
どんなことが歌えるだろう
意味を超えて

星野源-知らない

 ばらばらの世界を持つ私たちに、本当に重なり合った部分などあるんだろうか。何を歌えば、重なり合った本当に価値のある「たったひとつのもの」を歌えたと言えるのだろうか。これが以前の星野の重要な問題提起であった。

 その一つの答えが、「地獄でなぜ悪い」である。

動けない場所から君を 同じ地獄で待つ
同じ地獄で待つ

星野源-地獄でなぜ悪い

 「地獄でなぜ悪い」も「フィルム」や「夢の外へ」と同様に現実ではなく嘘や妄想の世界の価値について語る歌であるが、この曲では一つ段階が進んでいる。
 この曲で星野は、自分の曲の届く範囲について一種の諦めを表明する。それは、意味を超えた歌を歌うためには、現実ではなく嘘や妄想を用いて自分自身の世界を作ることが必要であり、自分はその立場を動けないため、同様に嘘の世界に生きるものにしか自分の歌は届かないという諦めだ。
 星野は自分がばらばらの世界すべてを繋ぎ合わせることなどできず、自身の世界と重なり合う世界を持つものに向けて発信することしかできない、そう理解したのである。「ばらばら」で求めていた、たった一つのものは見つからない、少なくともそう簡単に歌えるものではないと考えたのだろう。
 ここから星野は、様々なアプローチで人々との重なり合う部分を歌で発信していく。「Continue」では音楽の在り方において、「Family Song」では家族の在り方において、「恋」では他人との在り方において、「創造」では文化との在り方において。どれをとっても、星野は「ばらばら」で置いた前提を崩してはいない。どの曲でも、ばらばらの世界を生きる孤独の中で、「一人」を脱することがどれだけ難しいかという問題に立ち向かっている。

 要するに「地獄でなぜ悪い」というのは、有り体に言えば「みんな違う世界に生きているけれど、重なり合う部分を求めていきたい」「けど、全員に同じように伝えるのは無理!俺はここで待って歌っているから、聞こえているやつは反応してくれ」みたいな曲だと考えている。
 その「地獄でなぜ悪い」が、園子温による性被害に遭った当事者、またそれに関して自身の経験を思い出し不快に思うものもいる以上公に歌うことはできない、という理由で歌唱曲取り下げを為された。この是非については今回触れない。
 しかし、「地獄でなぜ悪い」はそもそも星野が自分に伝えられる範囲でだけ思いを伝えることを表明する曲だったはずである。それを今回、「違った伝わり方をする人もいる」という理由で取り下げられたわけである。これは、曲の要旨を直接世間に否定されたようなものだと思える。となると、少なくとも星野は代替曲として「地獄でなぜ悪い」以降の曲は歌えない。なぜならば、それ以降の曲は「地獄でなぜ悪い」で採用した前提を元に作成されているからだ。話の途中で分からないと遮られたならその前提を説明しなければならないように、星野は「地獄でなぜ悪い」がどのように生まれたのかを説明しなければならなくなったわけである。
 だから、星野は今回「ばらばら」を歌う。「地獄でなぜ悪い」取り下げに対するアンサーが「ばらばら」なのではない。そもそも、「ばらばら」で取り上げたテーマへのアンサーが「地獄でなぜ悪い」だったのである。そのアンサーが理解されない以上、星野はその前提を説明するために「ばらばら」を歌う。
 もちろん、色んな事情があるだろう。元々アコースティック弾き語りの予定であったことだとか、権利の兼ね合いだとか、色々あるだろう。けれど、一星野源ファンとして、今星野が「地獄でなぜ悪い」の代わりに「ばらばら」を歌うことの意味を、しかと受け止める。


いいなと思ったら応援しよう!