2023-07-13の日記(殺人フリーライダーを生かすべきか)

一枚の紙に正弦波を描いてゆく様子を動画に取り、それを縦軸の0を起点に反転したものを重ねる。すると、まるで神がDNAを構築していくような、3次元的な捻れた動きに見える。

(参考動画に好きなアーティストの曲)
だが彼は、ただ平面的な波が定期的に0で交わる様子を描きたかっただけかもしれない。
これは目の錯覚の話だが、僕たちにある錯覚は目においてだけじゃない。

僕たちはなにかのクリエイターを尊敬していて、彼らが伝えようとしたことを、それがもし失敗していたとしても、常に受け取ろうと態度を律する。

しかしこの態度こそ、クリエイターの成功を損なうかもしれない。
彼はただ波とその対照の追突を描きたかったのに、僕らはそれらが決して交わらず永遠に続く様子を描いていると思っているかもしれない。

例えば、殺人は雑に起きる。全く解釈の介在し得ない、純粋な対照の表象としての殺人。これには僕たちはみんな、声をそろえて悪者をやっつけろと手を挙げることができる。
だから、僕は殺人が雑に起きることを責めてはいけない。これは僕たちが創作し解釈するという自由を行使し互いに成功を収めるために努めることによって致し方なく程度の低い描写をせざるを得ないというだけだ。これを作者の程度が低いことと勘違いしてはいけない。

しかしこれを逆に、つまり誤解を恐れたゆえに簡素な表現に落とし込んだという事情を察することなく、もしかするとただ優れた表現だと誤解して、雑にキャラクターが殺されることもあり得る。
これを見極めるのは、それほど難しいことではないはずだ。難問に意外なほど簡単な問題を取り込む試験と、簡単な問題だけで埋められた試験、どちらの簡単な問題の正答率が高いかは予想できる。

だが、僕たちはなにかのクリエイターを尊敬していて、僕たちにとって彼らの作品(その中でも殺人の起こった文脈)を簡単な問題だけで埋められた試験だと決めつけることはことさらに傲慢だ。
だからそんな僕たちは雑な殺人だと思われる場合、困惑する。謙虚にその意味を深く取り入れるべきか、傲慢にも「雑な殺人はやめろ」というべきか。

これは悪質な殺人を受け入れてでも良い解釈をできるよう努めるべきか、殺人フリーライダーを殺すべく自分の価値判断を信じるべきかということだ。
悪貨は良貨を駆逐するという諺がある。だから僕は後者を選択していた。
だが最近自分の価値判断に自信が無い。
クリエイターを尊敬している。
僕が雑な殺人と切り捨てていたものは、実は誤解を招かないよう配慮されたものだったのかもしれないし、より深い意味があったのかもしれない。
僕は誤解していたのかもしれない。

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