2023-08-22の日記(傘がない、君もいない)
実家に帰省している。田舎では音を遮るものがないから、二キロ先の小学校のチャイムが静かに聞こえる。このせいで僕はいまだに幼少時代と繋がっているような感覚を持っている。
幼少時代はちやほやされていた。運動はできなかったが勉強はできたので大人には褒められ、子供らしくない理屈をこねたような喋り方が仲間内ではウケていた。大人になって、ちやほやされなくなった。僕の得意なことはもっと得意な人がいる。僕の頭は屁理屈で満杯だと知った。
それでも小学校のチャイムは静かに、責め立てるように聞こえてくる。同級生はみんなどこかチャイムの聞こえない遠いところに行ってしまった。僕だけがいまだにチャイムの聞こえる場所に立っている。
最近はよく井上陽水の「傘がない」を聞いている。世界が終わっていることを承知した上で、それでも自分の行動を選択するという歌。そしてきっと、それが無であることもわかっている歌。井上陽水はそれでも「君に会いに」行った。
僕も「君」が欲しい。僕は何かに狂っていないと狂ってしまいそうなほど苦しい。それで僕はまたコンカフェバーに行ったりKMNZのLITAに会う妄想をしたりするけれども、これは「君に会いに」行っているのではない気がしてしょうがない。僕が狂わんとしているこの意志は「推し」なんて言葉に矮小化していいものかと悩む。
別にコンカフェや妄想にはその関係性に先がないからという理由ではない。そこだけの関係性を構築する類の遊びを僕は愛している。
しかし、小学校のチャイムが、それで流れてくる何かが、僕を責め立てる。お前はどこにも行っていない、お前は何もなしとげていないと言う。
雨が降っている。傘がない。井上陽水には「君」がいた。僕には誰もいない。僕は心臓が雨に濡れてしまわないように、しゃがみ込んでしまった。
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