小説|scene
きっかけは些細なことだったと思う。学校からの帰り道で、拓真と口論になったことがある。
あいつは俺を振り切って帰った。俺は無性に腹が立っていたけど、青いランドセルが行き当たりの角を曲がって見えなくなった途端、無性に悲しくなった。自分が間違っていたとは思わなかったが、我を通そうとした自分のやり方が正しいとも思えなかった。
校舎の裏手の、単調な一本道をとぼとぼと歩いた。一歩歩くたびに、ランドセルの中の教科書が鈍い音を立てる。
一人で帰るにはいやに暑い日だった。帰りの会の直前まで降っていたにわか雨のせいで地面が濡れている。俺の歩みに合わせて、泥だらけのスニーカーが小さな飛沫を上げた。俺は降ってわいたような退屈を紛らわすように、わざとゆっくり歩いた。
道路の隅に置かれたプラスチック製の段差スロープを歩いて、それが途絶えたら白線の上に飛び移る。綱渡りの名手よろしく両腕を広げて、なるべく下を見ないようにして歩いてみたけど、すぐに恥ずかしくなって手をひっこめた。誰が見ているわけでもないのに、一人だと何となく場違いな感じがした。
去年の冬メジロが死んでいた木陰をくぐる。根元にはくすんだ色の雑草が生えているだけだった。困り顔をしたおじいさんの家の前を通る。朝の体操を欠かさなかったおじいさんの姿は、春が終わる頃に突然見かけなくなった。拓真とふざけていれば何にも気にしない色んなことが、今日はやたらと目に入る。拓真もメジロも名前を知らないおじいさんも、俺の視界から消えたという点で変わりなかった。
家までの道のりがいつもより長くなって、自分の歩く速さが異様に遅くなった気がした。古い映画のスローモーションみたいだ。真似して遊ぶときはあんなにげらげら笑ってたのに、いざ現実になってみると意外と退屈だった。
空と地面の真ん中を、赤い電車が通過する。いつもの高架が異様に遠かった。離れているときは大したことないように見える高さでも、近付いてみると背伸びしても手が届かないから不思議だ。
この後遊ぶ予定だったけど、公園であいつと顔を合わせたら嫌だなあ、と思う。とげとげした気持ちでいたら楽しむものも楽しめなくなる。あいつは来るだろうか。多分来るだろうな。そんなことをぼんやり考えて、何となく憂鬱な気分になる。
喧嘩は苦手だった。誰かが怒鳴っているのを見ただけで何となく体がだるくなる感覚があって、クラスメイトが喧嘩をしているところを見るのも駄目だった。殴り合いを見ると、必ず自分が負けたかのような居心地の悪い気持ちになった。自分が弱いから悪いのだということは、経験から何となくわかっている。
「何でやり返さないのよ、男の子なのに情けないったら!」
いつか箒の柄で頬に青あざをつくられた時、保健室の先生が呆れていた。殴られたことよりも、自分の判断を認めてもらえなかったことの方が悲しかった。
背の順は前の方、力もそんなに強くない。運動神経は人並み以下。そんな自分が感情に任せて応戦したところで、負けるのは目に見えている。みんなの前で決定的な敗北を喫するよりかは、相手と同じフィールドで戦わない方がまだ賢明な選択だと言えるだろう。
というのはあとから付けた言い訳で、本当は戦いたくないだけだ。だって、たとえ自分に正当な理由があったとしても、やっぱり誰かが自分のせいで痛い思いをしたら、申し訳ない気持ちになると思うからだ。
似合わないことはするもんじゃないな。なんて、今更後悔したって遅い。
喧嘩の仕方もわからないから、仲直りの仕方もわからなかった。どうすればいいんだろう。思えばみんな何事もないようにいがみ合って、仲良くなってを繰り返している。同じことを、自分がすんなりできるとは考えられなかった。
十字路を左右に曲がって、それぞれ反対の方向に伸びる二本の白線を見やる。このままどこまでも真っ直ぐ、何の関連性もない人生を歩むんだろうか。きっとさぞ退屈なことだろう。
「あーあ、なかったことになんねえかなあ」
誰にも届かない言葉が、灰色の地面に落ちる。
がた、ごと、がた、ごと。
ランドセルの中で、教科書が跳ねる音がする。
「歩途!」
雷が近くに落ちた時みたいに、甲高い声が緩慢な空気を切り裂いて耳に届く。
曲がり角の先から、引き返してきたらしい拓真が目を輝かせてこちらに走ってきた。
「なんだよ」
嬉しさと戸惑いが入り混じった俺の内心も知らずに、拓真は膝に手をついて、一つ、二つ、呼吸を整える。言葉を発するよりも先に、何やら得意げな顔で空を指さした。
「虹!」
曲がり角の先に浮かんだ暗い雲の上に、それはあった。
「わ、すげえ」
「俺初めて見た!」
「俺も」
ただの偶然。それでも、きっと一人では気付けなかったこと。
「はは」
なんだ、こんなに簡単なことだったのか。
こんなに鮮やかなものだったのか。
今まで気にしてたこと全部がどうでもよくなって、ただ笑ったのを今なお憶えている。
スラックスの左ポケットが定期的に振動する。五限の心地よい昼寝が、スマホのバイブレーションに妨げられた。
「……何だよ……」
小声で呟いて、机の下でそっと画面を見ると拓真からだった。しかも電話だった。着信を切ってから履歴を見れば、すでに三件の不在着信履歴が残っている。
『授業中に何』
メッセージを送ると、すぐに既読が付いた。
『外!』
『は?』
『外見て!』
偶々窓際の席だった俺は、言われるままに空を見た。
なんだ、そういうことか。
「……はは」
自然、笑いがこぼれる。
『見たよ』
拓真にはただ一言、そう送った。
「向井ー、いい加減にしろー」
先生はようやく、俺がよそ見をしていることに気付いたらしい。
「ったく。寝てると思ったら暢気に窓の外なんか見やがって」
俺はにこやかに微笑んだ。
「虹ですよ」
「あ?」
数学科の重鎮・宮田先生は、少しだけ耳が遠かった。
「虹です」
先生が外を覗くのにつられて、クラスメイトも一斉に窓の方を見る。金属製の机や椅子の脚ががたがたと騒々しい音を立てた。
「お、ほんとだ。こりゃなんかいいことあるかな」
いつもは小言ばっかりでおっかない宮田先生も、嬉しそうに目を細める。
「お前も偶にはいい仕事すんじゃねーか」
俺が見つけたんじゃなくて、親友が教えてくれたんです。文明の利器まで駆使してね。
本当はそう伝えたかった。
「流石に電話はないだろ」
帰り道、拓真は途端に何か気が付いたような顔になって、それからわさわさと両手を動かした。
「ごめん、何にも考えてなかった!」
「うん、そうなんだろうとは思ったけど」
「見つけたら、どうしても歩途に見せたくなってさ」
「わかるけど」
たとえ最初に見つけたのが俺でも、拓真と同じように何としてでも知らせようとしただろう。
「ありがとな」
「へへ」
そこに見たのはあの頃と違わぬ、何の衒いもない笑顔だった。
「虹見てさ、あの宮田が笑ってたよ」
「マジで⁈ つか今日暑くね」
「アイス買ってくか」
些細な会話を繰り広げながら、俺たちは真っ直ぐな道を並んで歩いた。
了
ここまで読んでくださってありがとうございました。
めっちゃ前に書いたので存在すら忘れかけていました。供養。たまには小説も。
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