唾鬼
唾鬼
たっぷりと泡だった生暖かい唾液と共に、微かな甘味のする何かが、口に運ばれる。残っているざらついた粒で、それが粥だと分かり吐き出そうとするが、匙で止められる。再び吐き出そうとするのを、押し戻されるので、仕方なく飲み込む。
「いい子ね、レイ」飛び切りの笑顔で母が微笑む。
これがレイの、生まれて最初の記憶だ。
ベビーチェアに固定され、目の前に陣取った母が、自分の口でぐちゃぐちゃに咀嚼した粥を、匙に吐き出してはレイの口に運ぶ。粥の後は、野菜の煮物や豆腐も。
前世や胎内の記憶を持って生まれ出るものも、幼少期の記憶が全く無く、小学校に上がってからの記憶が最初のそれだというものもいるが、レイの場合は、離乳食中期の生後七ヶ月だった。
その時期がほぼ終わり、大人と同じようなものを食べられるようになった頃、母が交通事故で急死した。死の意味は分からなかったが、もう二度と母が口から出したものを食べることはないのだ、ということは分かった。それからは母の母である祖母の元、胡桃の木がある大きな古い家で育てられた。咀嚼しては口に入れてくれる母の姿と味を乞い、泣きぬいた。
成人して、祖母も鬼籍に入り一人になると、卵白を泡立てたり、魚卵を加工したり、実験などに使われる高価な人工唾液を試して、母の味を再現しようとしたが、やはり人間の唾液には叶わないと、物足りなさばかりが残った。
金で解決できるなら、と風俗店の利用も検討した。唾液にまみれ、原型を失った食べ物を食べさせる咀嚼プレイや、唾液を飲ませるプレイ。お仕置きやご褒美と名のつく行為ではなく、レイにとっては母の愛だった。疫病の流行でその手の店は休業し、計画は水に流れた。
かつて、唾鬼(だき)と呼ばれていたものがいた。
暗闇で目を付けた他人に近づき、刃物らしきものをちらつかせ、無理矢理口づけを迫る。それ以上の行為に及ぶことはなく、ひとしきり舌を動かし、溢れる唾液を吸い込んだあとで、すまなかったと言い残し、立ち去った。唾液に対する強いこだわりから、唾鬼と呼ばれた。動機は不明。未遂で済んだものも含めると、被害者は数百人にも及ぶと思われた。
レイが半世紀ほど前の、この事件を知ることになったのは、阿部定などの猟奇的な事件を集めた、扇情的なだけで、大切なことは何ひとつも書いておらず、悶々とした気持ちを別の形で金を使わせるサイトに誘導するという、安っぽいネットの連載記事のひとつだった。その日から、レイも唾鬼となった。
大きく口を開けて、尖らせた舌を用心深く差し入れた。充分に潤んだ口の中は、ブラックホールの様にどこまでも果てしなく、温もりは母の胎内を思わせた。舌を絡め合い、軽く噛み、歯の裏側や歯茎も撫でまわし、自分の口で中の泡立てた唾液を流し入れ、溶け合ったものを思う存分味わう。唾液は、味も香りも粘度もひとりひとり違っている。母の味だろうか。もしそうなら咀嚼して。食べさせて。
腕の中の相手は小刻みに体を震わせ、昂ってきている。このまま続けるか。やめてもう少し焦らすか。
―違う、この味じゃない。
感じた瞬間に、レイの気持ちは急速に冷めて、早く終わらせようと、頭の後ろを抑え込み乱暴に口づけると、相手はそういうのを好む性癖なのか、息が荒くなった。
亡くなった母の年齢に近い、不特定多数の若い女と唾液の交換が出来ないだろうかと、ネットを徘徊しているうちに、同性に性的なサービスをする風俗店を見つけ、働きはじめた。口づけはあらかじめ組み込まれたサービスだったので、容姿を磨き、技を研究すると、直ぐに人気が出て、予約は引きも切らなかったが、割安の料金を設定し、新規の客を優遇した。
四十歳まで現役、退いた後は内勤および、指導員として各地を回り、伝説と呼ばれるようになった性技を後輩に伝授した。何千人と唇を重ねても、母の味には出会えず、時間ばかりが流れるうち、五十を過ぎ、物忘れの激しさに自ら病院の「ものわすれ外来」を受診したところ、若年性痴呆症と診断された。
「レイさん、ごはんですよ」誰かが呼んでいる。
―新規の客と待ち合わせだったろうか。
そちらに向かって微笑む。ほんのりと明るいだけで、相手の顔は霞んでいる。
レイは目を病み、視力をほぼ失っていた。会ったこともない、名ばかりの親族によって、老人ホームに送り込まれた。急斜面の丘に建つホームの庭に影を作るのは、胡桃ではなく、食べられない堅い実を付ける、大きな柿の木だった。
「はい、あーんして」
母が匙を入れやすいように、大きく口を開けて、咀嚼してくれるのをじっと待つ。
「今日は白身魚のムースですよ。どうですか、お味は?」
軽く泡立てて、なめらかにとろみをつけた薄味のそれを、介護スタッフは少しずつ口に運ぶ。
「とっても美味しいよ、ママ。今までで一番」
それはどんな食べ物よりなめらかで、喉越しが良く、素直に胃腸に滑り落ち、レイの血となり肉となる。 (了)
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