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FUKUYA

   ―だめじゃん、ちゃんと拭けてないよ。
 二の腕を捕まれた。肩先の水滴をケイさんが拭く。ジャスミンの柔軟剤の香りの、毛足の長いタオルを押し当て、貴重品を扱うように、そっとそっと。髪より細い繊維で出来た、ポリエステル八十パーセント、ナイロン二十パーセントのマイクロファイバーが柔らか過ぎて、足元から力が抜けてしまう。
 ―あ、ありがとう。
 ―風邪引くよ。髪も濡れてる。はい、やり直し。
 ほつれて濡れてしまった髪を解いて、頭の上から掛けたフェイスタオルで、今度は力強くリズミカルにゴシゴシと拭く。間近でケイさんの鎖骨が動く。
 ―ケイさんのここ、綺麗だね。鎖骨ってさ、囚人を逃げないように、この骨に穴を開けて、鎖を通したからって話、本当なのかな。
 ―え、そうなんだ。痛そうだね。
 あなたと私の鎖骨に、穴を開けて繋げてしまおうかな。
 うっすら柔らかい脂肪をまとった下の、筋肉の動きを想像する。毎日のランニングと軽い筋トレは欠かさないという、すっきりとしなやかな体。真新しい、固く薄いタオルはおろし金のように、髪と首筋をいたぶり、プリントされた山田工務店という青い文字が、見え隠れする。 
 ―痛いよお。
 ―だめだよ、ちゃんと拭くまで我慢して。
 されるがまま拭かれる。整った顔立ちに微かに寄った眉間の皺。
 ―ん、何?
 ―なんでもない。まだ?
 ―まだ。はい、おしまい。
 頭のてっぺんをぽんぽんと叩かれる。
 背中からバスローブを掛けられ、そのまま抱きしめられる。洗面台の鏡に、背の高いケイさんの顎の下に、すっぽり収まった自分が写っている。鏡の中で視線が重なる。肌の表面の水分は繊維がすべて吸い取っているのに、ケイさんが拭くことのできない私の奥深くで、滾々と湧き出ている。
 目の詰まった木綿のバスローブは、外国人向けのサイズなのか、大きすぎて重たい。子供が大人用を着ているみたいだねと、二人して笑う。ベルトで調整して、なんとか体に巻き付け、カーテンを閉じた窓際のソファに座ると、暖房はいつの間にか高めに設定され、私の好みのブランドの、常温の水のペットボトルが用意されている。
 ―ねえ、ホテルのスーベニアショップで、バスローブを売っているのはなんでかな。ここのホテルのバスローブが気に入った、買って帰ろうという客が多いのかな。
 ―重くて嵩張るのにね。
 外国のひとは、シャワーを浴びて体を拭かずにバスローブを羽織るらしいとか、そういえば映画でそんなのを見たことがあるとか、お風呂に入って苺を食べる映画はなんだっけ、とかどうでもよいことをだらだらと話す。共通の目的を成し遂げた同士の様な気楽さ。穏やかな空気を私たちは纏う。

 ケイさんは「FUKUYA」のセラピストだ。美容室でシャンプー係をしていたときに、シャンプーではなく、拭く才能に惚れ込んだオーナーがスカウトしたと、店のサイトに書いてあった。本当はシャンプーだって上手いんだよ、といつも笑うけれど。
 客は、親子、恋人、チームメイトなどの関係やシチュエーション、タオルなど拭くものの種類、柔軟剤の有無などをアンケート欄で打ち合わせる。セラピストは指定された場所に出向き、客の体や髪を拭く。一緒に風呂に入ることや、拭いてもらった後のオイルマッサージやヘッドスパはオプションとなるが、多くの客が拭いてもらうためだけに、セラピストを呼ぶらしい。 
 「大人になってから、体を拭いてもらったことがありますか」と書かれたトップページを開くと、赤ちゃんのようにガーゼでそっと拭う、子供の頃、お母さんにやってもらったように、固いタオルでごしごし拭く、昔の人のように手ぬぐい一枚でさっと拭く、オーガニックコットンの最高級タオルで押し包むように拭く、などの各種の提案があり、拭いてもらうことのこだわりと、拭かれることによって得られる癒しの効果が延々と綴られていた。オーナーの女性は、寺で育ち、拭くという行為が日常だったことから、拭くことは、汚れたものを拭い去るだけでなく、新しく生まれ変わることに通じるという真理を得たという。

 眠れずにネットを徘徊していたら「FUKUYA」のサイトを見つけ、初めてセラピストの派遣を頼んだのは半年前のこと。旅行で行った韓国のサウナの垢すりで、全く言葉の通じないおばさんに、だらりと両手を垂らして、立ったまま拭かれた記憶が蘇った。荒っぽくごしごしと垢をこすられ、湯を掛けられたあと、今度は自分の赤ん坊にするように、信じられないほど優しく体を拭かれた。黒いブラジャーとショーツの弛んだお腹や、大きな胸に手が当たってもおばさんは気にせず、高価な果物を扱う様に丁寧に拭かれた。人に体を拭いて貰うという快感に興奮したけれど、頻繁に旅行出来るわけでも無く、そのまま忘れていた。
 最初に利用した日は、ビジネスホテルがテレワーク向けと称して安売りしているデイユースプランの部屋に、何人かいるセラピストの中からケイさんを選んで呼んだ。なんとなく感じの良さそうなひとだったから。
 緊張したし、胡散臭い風俗なのではという怖さもあったけれど、拭かれたい欲望と好奇心が上回った。
 ケイです、よろしくお願いいたしますと、指定した時間ちょうどにやってきたケイさんは、料金を受け取り、到着しました、とFUKUYAに連絡をした。交代でシャワーを浴びましょう、先に浴びますから、お持ちになったタオルなどをベッドの上に準備しておいてくださいね、とバスルームに入った。
 お先に頂きました、と随分と古風な挨拶に送られ、入れ違いに私がシャワーを浴びると、終わる頃のタイミングを計った様に、よろしいですか、とシャワーカーテンの外から声を掛けられ、開けるとケイさんがタオルを持って立っていた。
 ―お拭きしますね。
 そこからの記憶はあまり無い。程よい湯加減のお風呂にずっと浸かっていたような、満ち足りた気怠さだけが残っていた。
 いつか拭かれたい願望が全て叶ってしまい、満たされてしまったら、次にはどんな欲望が芽生えるのだろう。
 
 小学生の頃の夏休み、遊んで帰ってきて、シャワーを浴びて、従姉妹のきれいなお姉さんに拭いてもらうイメージで、と予約した。ケイさんは完全に理解して、更に肩先の水滴を拭く、というアドリブまで入れて完璧な時間にしてくれた。
 身支度を整えたケイさんは、ありがとうまた会おうね、風邪ひかないようにね、と軽くハグをして帰っていった。銀色にブリーチした髪の先が頬に触れた。
 私は皺ひとつない白いシーツに身を横たえ、子供の頃のように眠りに落ちた。(了)
 


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