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人生死ぬまでの暇つぶし

ここ数日、生きていく意味が全くもってわからなくなった。


6月生まれ34歳。間もなく、35歳。え、アラフォー?

まだ30代を半分も終えていないというのに、どうしてこんなすぐ40代寄りにさせられるのか。そもそも四捨五入という考え方は大雑把すぎやしないか?勘弁してほしい。


先日、お付き合いも含めて10年連れ添ったパートナーと離婚をした。リコン。りこん。ひらがなは優しくて可愛い、りこん。

実にあっけないものだと思った。愛は永遠じゃなかったし、人の気持ちは砂糖菓子よりもずっと脆い。きっとあの時の気持ちに嘘は無かったけど、その気持ちを永遠に守れるほど、私は強くなかった。ただ、それだけのこと。全部、私のどうしようもない最低なわがままだった。最後までそれに付き合ってくれた彼にはとても感謝しているし、無責任極まりないけど私と過ごした時間よりもずっと幸せになってほしいと願っている。これは本当の本当に。


変化は嫌いじゃない。むしろ好き。だって変わらないものなんてない。毎秒進んでいくせかいは曖昧で不確かでわからないことだらけで、さっきまでここで当たり前だったことが、ほんの数秒で何もかもひっくり返っていてもおかしくない。そんなせかいが私は面白いと思っているし、人の気持ちも同じだ。この世の中に変わらないものなんてない、のだ。


去年までとても忙しい仕事をしていた。休みらしい休みなんてほとんどなかった。約2年半働き尽くした。ある日唐突に、限界だと思った。「もう無理、動けない。」そう思ったら全ての思考と行動が停止してしまった。動けなくなった。とても楽しくてやりがいのある仕事だった。本当は手放したくなかった。何の取り柄も技術も才もなかったが、自分なりに一生懸命真剣に取り組んでいた。評価なんてほとんどされることもなかったけど、それでも楽しかったから続けられた。なのに、一瞬の「限界」で、あっけなく手放してしまった。辞めたことで自由な時間を作れるようになり得たものも多々あるので、特別後悔しているわけではない。今の仕事(派遣)は楽しい。何より楽だし。責任も無いし。しかし、日々生きていくこと、歳を重ねていくこと、その意味が見出せなくなった。なんの責任もないこの生活に、じわじわと心は蝕まれていた。私にとって何かの責任を持つことは、生きていく上でのひとつの重要な鍵だったのかもしれない。(だからと言って、無興味のものの責任を負いたいわけでもない。なんでも良いわけじゃない、というのが自分自身の実に面倒で厄介なメンタルの一部分だ。つくづく本当に嫌になる。)


そんな心持ちの中でのソロライフスタート(しかも初めてのひとり暮らし)は、実に不安定だ。元来メンタルがめっぽう弱く不安定なところを、気合と根性というどうしようもないほどの精神論を振りかざしながらギリギリ他人に迷惑をかけ過ぎないようにして生きてきた。(いや、たぶんそこそこ迷惑はかけている。)今日なんてひどいもんで、我ながら本当におかしくなってしまったのかと思うくらいの情緒不安定を発揮して一日を終えようとしている。


そんな私はきっと何者にもなれないけど、何者にもなれないなりに、何かをしたいと思って、今これを書き殴った。うまくまとまらない、なんだこれ。まあいいや。

いつからか、人に本当のことを言えなくなった。どんなに近い存在の人、例えば家族や親友にも、本当につらくて心に抱えるもやもやは、一切言葉にできなかった。関係が深くない人にはなおさら、本音なんて一つも言えない。でも、なにも言えないまま死んでいくのもなんか嫌だなあと、なんとなく文字にしてみようと思った。


死にたい、と、死にたくない、と、毎日あちこち行ったり来たりする私の記録。これがほんの少しの生きる意味につながりますように。今日も生きました。明日も生きたい。

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