割れた家族

「割れた家族」

〜第一話〜

パリン。また、皿が割れる音が響く。私はリビングから、何もなかったようにテレビの画面に視線を戻した。画面の中の女優が笑顔を浮かべる。まるで私の心の中を知っているかのように。

夫が洗い物をするなんて、結婚当初からほとんどなかったことだ。それなのに最近、彼は何かに取り憑かれたように洗い物をするようになった。そして、そのたびに大切にしていた高級食器が、ひとつ、またひとつと消えていく。

「また割っちゃった」と彼が気まずそうに言い訳をするのが聞こえる。私は肩をすくめて微笑むだけ。「いいのよ、次は気をつけてね」と優しく返す。だが、内心では静かに笑っていた。

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実は、彼が触れるたびに割れていくのは偶然ではない。私は少しずつ、目に見えない形で彼の生活から「失う痛み」を植え付けているのだ。食器だけじゃない。彼が大事にしていた腕時計も、こっそり時が止まるようにしておいたし、愛車のカーナビも不自然に狂うように仕込んである。あくまで、小さな不便の積み重ねだ。

「なんでこういうことばかり…」と彼がつぶやくのを聞くたびに、私は心の中で勝利を確信していく。彼にはわからない。私が彼に抱いた怒りや恨みが、どれだけ私の中で膨れ上がっているのか。

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夜、彼が眠りについたあと、私はキッチンに立ち、次の“計画”を考える。何も知らない彼の顔を思い浮かべながら、冷静に、そして慎重に次の仕掛けを練る。この小さな復讐劇が続く限り、彼が気づかないうちに少しずつ壊れていく。それを傍観する私の心は、不思議と満たされていた。

彼の見えないところで、私は静かに、確実に「割れた家族」を作り上げている。それは決して一瞬ではなく、じわじわと彼を蝕んでいくものだ。彼が気づく頃には、もう取り返しがつかない場所にまで、家族は崩れ落ちているのだろう。

〜第二話〜

次の日、私はリビングで本を読んでいるふりをしながら、また彼が食器を洗う音を聞いていた。そのうちに、パリン、とお馴染みの音が聞こえる。慌ててキッチンを覗き込むと、案の定、夫がまた一枚割っていた。彼の表情には、いつもの苛立ちが浮かんでいる。

「どうしてこうなるんだ…俺、雑に扱ってるつもりはないのに」と彼は眉間にシワを寄せる。私は心配そうに肩をすくめるだけで、「そうね、不思議ね」と優しく答える。

彼が目を離した隙に、私はサイドテーブルの引き出しから、小さなガラスの破片を取り出した。それは、彼が触れるたびに細かく砕けていくように、あらかじめ仕込んでおいたものだ。次に割れるタイミングを正確に見計らいながら、私は静かに微笑んでいた。

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ある夜、夫が寝室で深い眠りに落ちた頃、私はひそかに彼のスマホを手に取った。彼が長年大切にしているデータや写真、連絡先を少しずつ削除していく。消えるたびに、その画面の冷たい光が私の指先を照らし、消えたデータの数だけ私の心は満たされていく。

「なんで…?」数日後、彼はスマホを見つめながら呟いた。大事な仕事の資料が消えていることに気づいたらしい。慌てる彼を横目に、私は微笑みを浮かべるだけ。日々の生活が少しずつ崩れていく彼を見るたびに、私は静かな満足感に包まれる。

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数週間後、私はキッチンの椅子に腰掛けて、さらに新たな“計画”を考えていた。今度はもっと大胆に行こうか…そんな風に思いを巡らせていると、突然、リビングの奥から彼の叫び声が響いた。

「なんで…!なんでこんなことが…」

彼の声は、これまで聞いたことがないほど震えていた。私は何食わぬ顔でリビングに向かうと、彼はカーペットの上に座り込み、何かを呆然と見つめていた。そこに散らばっていたのは、彼が母親からもらった大切な時計の破片。

「どうしたの?」私は無邪気なふりをして尋ねる。彼は答えることなく、ただ呆然と時計を見つめていた。

「大丈夫よ、きっとまた元に戻るわ」と私は柔らかく囁く。だが、彼の気づかぬところで、私は心の中で静かに呟いた。

「いいえ、もう何も元には戻らない。私たちの家族も、あなたの心も、すべてね。」

〜第三話〜

その夜、彼はひどく怯えていた。リビングの灯りを消したまま、怯えたように窓の外を眺めている。自分の身に起こる不可解な出来事に追い詰められて、彼の顔には疲労と焦燥が滲み出ていた。

「何が起きているんだ…?」彼はか細い声で呟いた。その姿に私はそっと近づき、背後から優しく肩に手を置いた。驚いたように振り返る彼に、私は柔らかな微笑みを浮かべる。

「大丈夫よ、すべてが終わるの。あなたはもう、何も心配しなくていい」

その瞬間、彼の目に一瞬の恐怖がよぎった。まるで私の言葉が何を意味するか悟ったようだったが、次の瞬間には静かに目を伏せ、力なく微笑んだ。疲れ切った表情の彼は、ただ諦めたように椅子に腰を下ろした。

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数日後、彼は静かに息を引き取った。診断は心臓発作。仕事とストレスが彼の心を蝕み、最後の夜にすべての不安に押しつぶされるように命を絶ったのだ。

彼がいなくなった家には静寂が訪れた。私はリビングに座り、彼が座っていた椅子を見つめていた。そこにもう彼はいない。家族の形は完全に変わり、私だけが残された。

「さようなら、愛しい夫」と、私は心の中でそっと呟いた。静寂の中で、その言葉は誰に届くこともなく、ただ私の中で繰り返されるだけだった。

〜最終話〜

葬儀が終わり、日常が静かに戻ってきた。家は驚くほど静かで、すべての物音が吸い込まれてしまうようだった。夫が座っていた椅子、いつも手にしていたお気に入りのカップ、彼の匂いがほんのり残るクローゼットのシャツたち——すべてが彼の不在を私に静かに告げていた。

そんな中、私はひとつ、彼が生前に書き残していた手紙を見つけた。引き出しの奥、なぜか隠されるようにしまわれていたその封筒には、私の名前が書かれていた。静かに封を開けると、彼の震えた字でこう記されていた。

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「君へ

もし、これを読んでいる時に僕がこの世にいないのなら、それはきっと僕が君の思惑通りに壊れてしまったからだろう。君が何をしていたのか、僕はずっと薄々気づいていた。けれども、僕は最後まで君を信じたかった。君が本当に僕を愛していたのか、それとも僕を壊すためにただ隣にいたのか、答えはわからないけれど。

僕はこの家を君に残す。君が幸せに暮らしていけるように、少しでも君の未来が穏やかであることを願っている。もし、僕の命が君を自由にするためのものであったのなら、それもまた仕方のないことだと思う。

さようなら、愛していたよ」

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彼の言葉を読み終えた瞬間、私は薄暗い部屋の中で立ち尽くした。彼が気づいていたことも、私に最後の思いやりを残してくれたことも、すべてが信じられないような気持ちで胸が締めつけられた。

その夜、リビングで静かに彼の椅子に腰を下ろした。これまでのことを思い返すと、奇妙な感情が押し寄せてきた。彼がすべてを知りながらも何も言わず、ただ私に自由を与えたこと。結局、私は彼を壊したつもりだったのに、最後に壊れたのは私自身だったのかもしれない。

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窓の外、秋の空が静かに夜へと沈んでいく。家の中には深い静寂が満ちている。彼がいなくなったこの家で、私はこれから何を求めて生きていくのだろうか——自問自答を繰り返しながら、私はただひとり、夫がいなくなったこの家で過ごす覚悟を、心の中で静かに決めたのだった。

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