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ノスタルジック・ヘビーローテイション

 

 彼女からはいつも、フリージアの香りがしていた。

 あたしは花になんてちっとも興味がなくて、それなのにフリージアという花を知っていたのは、昔のアイドルで、そういうタイトルの曲を歌っているグループがいたからだ。あたしはなんだか随分その歌を気に入っていて、繰り返し聞いたことを覚えている。

 彼女の話をしたいとおもう。
 彼女は、あたしと同じ大学の、同じ学部の、同じ学科に通う女の子だった。
 彼女の服装はいつもラフだった。ショートパンツやパーカーや、Tシャツを身につけていることが多かった。それでも彼女のところだけまるで照明が当たっているみたいに輝いていたのは、彼女自身の魅力なのか、それともあたしの目や感じ方がどこかおかしいのか。出会った頃にはわからなかった。今でもわからない。
 彼女のショートボブの髪の毛は、いつも綺麗に整えられていた。少し黄みがかった茶髪の根元が黒くなっているのを見たことがないので、地毛?と尋ねたら、彼女は首を横に振った。
 彼女は小柄だった。身長があたしより七、八センチは小さかった。あたしがそんなに大きいというわけではないのに。
 大学二年生の四月、あたしははじめて彼女の隣の席に座った。大人数の講義で、彼女の席の隣しかもう空いていなかった、という体にした。
「あたしのこと知ってるよね?」
 あまり威圧的(よく言われるのだ)にならないように、あたしはつとめてやさしく、尋ねた。けれど彼女はあたしのそんな努力を無駄にするかのように、なんとも思っていないような顔をして、
「知らない」
 と無表情で言ってのけた。彼女の愛らしい大きな黒目が、こちらを見上げていたのを、今では覚えている。あたしがつい黙り込むと、彼女はとたんに花が咲いたような笑顔になって、
「うそだって。名前はわかんないけど」
 と、言った。赤い唇をぺろり、と嘗めた。あとで聞くと、それは緊張している時の癖らしかった。
「知らない人に話しかけられて、びっくりしたんだもん」
 と、彼女は笑う。

 彼女は呻いていた。
「うう」
 どうしたの、とあたしが尋ねると、彼女はしー、と言ってあたりをきょろきょろと見回した。彼女は図書館のルールに厳しい。授業の遅刻も途中退室も自主休講もしょっちゅうの癖に、変なところで彼女は真面目だった。
 三年生の一月。あたしはこれから始まる就職活動に怯えていたし、彼女は司書課程の授業をあまりにも聞いていなかったため、そのテストに怯えていた。
「さっぱりわからない。レファレンスサービスの意味からわからない」
 彼女のとっている授業は、「レファレンスサービス演習」なのに、そこからわからないとは。あたしは司書のことはさっぱりわからないけれど、そんなに難しくはないと聞いていた。そう言うと、彼女はきまって、
「どーせあたしバカだもん」
 と拗ねてしまう。あたしはその顔が見たくてなんとなく、彼女をからかってしまうのだった。
 彼女は指先をパーカーの袖ですっかり覆って、図書館の固い木のテーブルに突っ伏してしまった。
「さむい」
 彼女の言葉で信じてはいけないものはたくさんある。さむい、ねむい、だるい、あつい、きもい、うざい、めんどくさい……などなど。
「さむいかあ?」 
 あたしが尋ねると、彼女はますます拗ねたようにして、「さむいもん」と呟いた。だって最近ラインの返信遅いよ、と彼女は脈略のないことを言う。
「あたしも将来について色々考えてるんだってば」
 そう返すと、彼女はやっぱり拗ねたように「ふうん」と返すだけだった。赤い唇が尖っている。なんてあからさまなんだろう。
「ねー将来の夢ってある?」
「将来のことなんかより今この授業単位とれるかどーかが大事」
 じゃあ勉強しなよ、という言葉を飲み込むと、あのアイドルソングがふと頭をかすめた。
「花束買ってあげようか」
「いま冬だよ」
「冬だって花束売ってるじゃん」
「いらないよそんなの持って大学歩いてたら頭おかしーやつだって」
 彼女は机に頬を押し付けたまま、少しだけ笑った。
「まあ、たしかにねえ」
「でしょ」
 彼女はそんな小さな言い合いに勝利したことで、少し元気を取り戻しているようだった。体を起こして、腕まくりをする。
 ああ、でもフリージアは春の花なのか。
 花束なんて買うわけないのに、わたしはそのことを残念に思った。


 彼女のグレーのコートは高級そうだった。バイトを先月突然辞めたくせに、この金回りの良さはなんだろう、と羨ましく思う。
 それにしても彼女を隣で眺めていて思うことはいつも、彼女の不確かさについてだった。あまりにもセンチメンタルすぎて誰にも話したことはないけれど、彼女は今すぐ消えてしまいそうなのだ。つないだ手なんてちっとも役に立たず、彼女はさっさと、ふわっと、舞うように溶けてしまいでもするのではないかというくらい、彼女は不安定だった。はたしてそれが本当にそうなのか、あたしの目が狂っているのかはわからないけれど。あたしたちはこうやって並んで歩いている。
「チーズバーガーたべたい」
 あたしがふとそう言うと、彼女は「今日おそばって言ったのに」とうんざりしたような顔をした。
「いっつもその時の気分でそーいうこというよね」
 彼女はあたしを軽く睨んで、でも、駅の中のハンバーガーショップへ入ってくれることを、あたしは知っていた。
 注文して席につくと、彼女はすぐさまコートを脱いだ。ふわっとフリージアの香りがして、あたしはすん、とその香りを吸い込んだ。

「それってフリージアだよねえ?」
 あたしが我慢できずにそう尋ねたのは、たしか去年の十月頃だっただろうか。
「ああ、そうだったよーな」
「香水?」
「ボディスプレー」
 彼女は素っ気なくそう言って、いいにおいだよね、と興味なさげにスマートホンを触っていた。
「フリージア好きなの?」
「そういう曲があったじゃん、むかし」
 あたしが黙り込んでも、彼女はスマートホンに夢中で気にもとめなかった。そんな彼女の横顔が、幻のように儚くて、美しかった。そして、それでもいいと思った。たとえ幻みたいにいつか消えるとしても、それが彼女の美しさなのだと。そして、ほんとうはわかっている。あたしは少し、おかしいのだと。

 あたしはチーズバーガーを食べた。彼女もあたしの真似をした。彼女はいつだって優柔不断なのだった。
 もう一月も終わるねえ、と彼女はあっさりと言った。彼女の中ではあっという間に時間が過ぎていく。時間が過ぎるのがはやい、毎日があっという間、と彼女はよく言う。そう考えすぎて、ひとりでお先に来年にでも行ってしまいそうな勢いだ。あんまり早く行かないでね、と思った。彼女はとりわけ早足じゃないけれど、なんだかそんなことを思った。
 もうすぐ一年になるね、とは言わなかった。「はあ?」と返されるのはわかりきっていたからだ。
 もうすぐ一年になる。
 フリージア。
 あたしはハンバーガーの包み紙を丸めながら、小さく口ずさんだ。彼女はこんな時ばかり地獄耳で、「あー、あたしその歌しってる」と得意げに笑った。



 

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