ゆらめきじゃない何か

行方不明の少女は無事保護されました。

 ぴん、ぽん、ぱん、ぽん。
 ぴん、ぽん、ぱん、ぽん。

 市役所からのお知らせだ。
 昨日の夜から行方不明になっている中学生がどこかで見つかったのかもしれなかった。りこちゃんにそう話しかけてみても、彼女はそんな話は知らないという風に、目を丸くしてわたしを見た。
 いなくなった中学生は、あたしたちの通っている中学の生徒ではない。だから、あたしたちは興味がない。しょせんあたしたちの世界なんて、家と、自分の学校だけ。見えているものだけ、安全ならば、それで。それでいいのだった。
 市役所からのお知らせが何を言っているのかはよく聞き取れなかった。あたしたちはただでさえ狭い世界の中で、見たいものだけを見たいように、聞きたいものを聞きたいように聞いて、それで世界はさらに作られていく。
 夕方はわりと好きだ。これはごく単純な話であって、あたしは朝に弱い、夜型の人間だからだ。あたしの一日は夕方からはじまると言ったって言い過ぎではないのだ。
 あたりは秋一色で、どこからか金木犀の匂いが漂ってきた。小学生の頃、金木犀の花をペットボトルの水に入れて、香水を作ったことがある。その香りはいつだってあたしを寂しくさせた。
 
 田んぼみちは、どこまでも続いてゆく。
 というのは理想で、そう、あたしは、田舎なら田舎なりに、それを突き詰めてくれればいいと思うのだ。実際に田んぼみちとコンビニエンスストアは、共存している。それはあたしと彼女が今、隣同士で歩いていることと同じくらい、不思議だけれど、当たり前のことだった。

「彼氏がいるんだ。」

 りこちゃんは、言った。りこちゃんの声は甘い。甘ったるくはない。キャンディというよりはカステラという感じで、キャラメルシロップというよりは、チョコレートケーキといった感じだった。あたしは甘党なので、伝わらなかったら、申し訳ないと思う。
 彼女の唇の形が、絶望的な色を帯びていた。けれども実際のところはそうじゃない。彼女の唇はたぶん、ほんの少し赤色の帯びた控えめなピンク色。ただ、あたしにはそう見えたってだけのはなし。

「どんなひと?」

 あたしは本当ならばそんな話、これっぽっちだって聞きたいと思わなかった。でもあたしと彼女が会話を続けるためには、そう尋ねるのがいっとう手っ取り早い方法だったのだ。

「ゆうりちゃん知ってると思うよ。三組の……」

 あたしは見たいものだけを見るし、聞きたいものだけを聞く。この話は、聞かなくてもいいだろう。興味がないといったら嘘になるけれど、あたしはもともと人の色恋沙汰に関する話は苦手だ。
 あたしより五センチくらい背の低いりこちゃんは、その白い手を、あたしの手に触れさせた。あたしの頭の中は嘘みたいにそのことだけでいっぱいいっぱいになる。

「彼氏はね。」

 りこちゃんは、笑う。あたしは彼女のことをあまり知らない。それでもその笑顔がなんだか、遠い国のお洒落な街で売られている人形のように、あたしには馴染みのないものに感じられた。

「彼氏は、わたしのことを守ってくれるっていうんだ。」
「へえ。」
「でもね、」
「うん。」
「守りたいっていうのは、わかる。」
「痛いほど?」

 そんなおかしな相槌を挟んだのは、あたしには彼女の笑顔が痛ましいものに見えたからなのだけれど、実際はそうじゃないかもしれない。いや、ほんとはわかってる。本当はあたしがすこし、おかしいのだ。
 りこちゃんは一瞬きょとんとして、それからすぐに真面目な顔になって、「痛いほど」と言った。それはあたしの言葉を肯定したというよりも、ただ意味を咀嚼するために言葉を繰り返しただけ、といった風だった。

「でも、守るって言ったらそれは、嘘だよ。」

 人は人を守ったりなんて、できないもん。

 りこちゃんは少し、頬を赤らめた。これは錯覚ではないだろう。
 驚いた。彼女はもっとこう、「何も考えていない」、いわゆる、綿飴のような女の子だと思っていたから。
 つまらないことを言うようだけれど、あたしには「女子」というものを理解しきれていない部分がある。それは、身体的にどうであるとか、性自認がどうであるとかいうところの「女子」ではなくて。世間が求め、彼女たちが否応なしに差し出さなければならない部分のことなのだけれど、あたしにはどうしてもそのありあまるほどの情報量を、自分の中の器にうまくおさめることができないでいるのだ。その点、彼女はそれを操ることにひどく長けているのだ。けれどそれは今気づいたことだった。彼女はそんなこと、何も考えていない、つまり、「女子」に操られてしまう女の子なのだと、あたしは思っていたのだ。

「つまんないやつなの。」

 りこちゃんの甘い声は、あたしを夢中にさせるのには十分すぎるほどだった。あたしはそれを味わいたいと思い、手に入れてみたいとも思った。ずっと大事にしておく。守るとか、そんな「巧い」言葉じゃない。剥き出しの本心だ。薄汚く、どうしようもなく、歪な。けれど、「本当に美しい」ってことはそういうことなんじゃないか、とも思う。

「わたしのママはね、」

 りこちゃんがぽつりと続けた。
 ママ。そうか。彼女は、自分の母親のことを「ママ」と呼ぶのだ、とあたしはなぜかそんなことを思った。

「なんでもしていいよって言うんだ」

 りこのしたい通りに。りこのしたいことをすればいいよ。そんな風に言うの。でね。本当にそうしたら、泣くの。悲しむとか、怒るとかじゃなくって、泣くの。それで、怒鳴るの。
 ふいに、あたしとりこちゃんは違う人間なんだという当たり前のような現実が、あたしの脳みそに浮かび上がった。遠い国のお人形。
 あたしの家は、母子家庭だった。気が付いたら父親はいなかったし、母親が、「あんたが赤ちゃんの頃に離婚したー」などとあっけらかんと言うものだから、そこまでそのことについて深く考えたことがなかった。でも今、この瞬間、あたしは考えたのだった。放任主義でドライな母親との二人暮らし。不便を感じたことも、不幸に嘆いたこともなかった。一人で働いてあたしを育てて、立派な母親だと思っていた。尊敬などという大それた感情については、まだよくわからないけれど。
 あたしの母親と、りこちゃんの母親は、違うんだ。そんな思いが大きな存在感をもって、ぐるりとあたしを取り囲んでいた。
 あたしたちはまだ中学生。周囲の言葉や行動に影響されずにはいられない。環境は、いつだってあたしたちを形作る重要な材料なのだ。

「あたしには、りこちゃんの気持ちはわかんない」

 それは、正直な気持ちだった。わかるよ、なんて適当なことをいえない。それがあたしの幼稚な生真面目さだった。そしてそれが彼女を傷つけるかもしれないだなんてことは、容易に想像できた。
 だからといって、あたしはりこちゃんを傷つけたかったわけじゃない。それも正直な気持ちだ。ただ、あたしとあなたは別々の人間であるという事実を、彼女に突きつけたくなったのかもしれなかった。あたしにはあたしの気持ちなんてよくわからない。つい三ヶ月ほど前にはじめて会話をした彼女の気持ちなんて、もっとわからない。会ったことのない母親のことなんて、もっと。
 彼女は、共感を求めている。そう感じとったのだ。求められているものを、馬鹿正直に与えたくはなかった。
 あたしの中で急激に芽生えたサディスティックな感情が、彼女の中でどう響いたのかはあたしにはわからなかった。わからない。わからないことだらけだ。でもいつだってそれが心地いい。あたしは臆病な女の子なんかじゃない。今はまだ。
 あたしたちは歩いていた。あたしは、りこちゃんの顔を見ずに、まっすぐ前を向いて歩いていた。だから、彼女が立ち止まったことに一瞬、気がつかなかった。

「どうしたの?」

 あたしが振り返って尋ねると、彼女は目を伏せた。そしてその目から涙がこぼれ落ちるのを、あたしは見てしまった。
 あたしは少なからず、動揺していた。臆病な女の子ではないけれど、冷酷な女の子のつもりもない。他人の涙を見たのは久しぶりだった。しかも自分が流させた涙。あたしは信じられないという気持ちと、反面、いや、これは十分に予測していた事態であったという気持ちの狭間で、ほんの少しばかりの喜びを手にして、次の言葉を探していた。

「こっち見ないで。前向いて」

 彼女の涙声が囁くように告げた。あたしは言われた通りに前を向いた。前方には道、田んぼ、林。そのどれもがあたしを動揺の隙間から救いだそうと努力しているのがわかった。
 あたしが何も言わないでいると、間もなく背中にあたたかな体温が伝わった。お腹に手が回され、肩に彼女の顎が乗る。
 あたしは今度こそ本当に動揺した。いや、さっきまでの動揺が嘘だったわけじゃない。でも、さっきの「動揺」より、今の「動揺」の揺れが大きい。大きすぎる。それでも、

「やわらかぁい」

 わたし、やわらかいものがすき。

 さっきまでの涙声なんてまったく思い出させないほどに、彼女の声は堂々としていた。その声音に、あたしは安心と絶望を見出した。彼女があたしを好いているかもしれないという安心。もう戻れないかもしれないという絶望。そのどちらもがない交ぜになって、あたしの呼吸を整えた。呼吸が整ってはじめて、あたしはそれを乱していたのだと知る。

「ゆうりちゃん」

 りこちゃんがあたしの名前を呼ぶ。

「なに」

 少しぶっきらぼうな言い方になったことを後悔する。でも、繕ったって、意味がない。ちがう、繕いたくないのだ。あたしはきっともう戻れないし、戻らない。

「わたしを守って。ゆうりちゃんの好きなようにしていいから」

 矛盾している。
 あたしは笑った。もちろん心の中で。だけれど、彼女自身、その矛盾には気づいているだろうと思った。気づいているというより、最初からそれを狙っている。質の悪い冗談。言葉遊びのひとつ。

「彼氏もママも、わたしのことが本気で好きなんだよ」

 りこちゃんの回りくどい告白は、あたしの心を掴んで離さない。これは彼女の思惑通りなのか、それとも彼女は計算なんて最初からしていないのか。
 何かを通り越して、それが何なのかは検討もつかないのだけれど、あたしは彼女への強い憎しみを感じた。あたしは自分の心の変化に驚きつつも、不思議と冷静だった。

 ねえ、ほんとうに好きなら、そんな風にはできないんだよ、りこちゃん。

 誰かに守ってほしいとか守りたいとか、好きなようにされたいとか、してやりたいとか、そんな風にはできっこない。だってあたしはあなたを前にしてこんなにも臆病なんだから。
 彼女が鼻水をすする音が、ものすごく近かった。
 あたしは実のところ、彼女は嘘泣きをしたのではないかと疑っていたのだけれど、どうやら本当だったみたいだ。彼女はアレルギーも持っていないし、風邪もひいていない。心の中で小さく謝罪する。

「わたし、本当は妄想してた」

 りこちゃんが真面目に話すものだから、あたしは無性に茶化したくなる。その衝動に必死で抗ううちに、りこちゃんは言葉をつなげた。お腹に回された腕に、力がこもる。そのことが何を示すのか、あたしは混乱と動揺、絶望と安心、それから憎しみと恋慕の気持ちの中で、懸命に掴もうとしていた。

「ゆうりちゃんといっしょに行方不明になるの。ぜったい保護なんかされない。たとえ死んじゃっても。」

 死、という言葉がひどくロマンチックに聞こえた。大丈夫。彼女はまだ「死」を扱えるほどの人間じゃない。あたしとごく近い場所にいるのだ。
 りこちゃんはほっと息を吐き出して、もう一度軽く鼻をすすった。緩やかな声色で、

「でも、ほんとはそんなことできないよね。」

 と笑った。
 あたしは胸を締めつけられるような思いで、彼女を取り巻くものごとに思いを馳せた。想像力。たった十年そこそこの人生。彼女の気持ちを本当に理解できるほどの力なんて持ち合わせてはいない。あたしは諦めにも似た気持ちで、自分が好きでもない男に「おまえを守ってやる」なんて言われているところを想像した。頭にその状況を描こうとしただけで、吐きそうだ。それが現実。現実の力だ。現実は簡単に想像を飛び越えるのだ。下回っているようでいて、いつだって。想像は現実を超えられない。彼女があたしのお腹に腕を回すだなんて、十分前のあたしには想像もつかなかったように。

「嘘っぽい、ね。」

 あたしはありったけの憎しみをこめて、彼女を非難した。そしてありったけの愛情をもって、彼女の腕にそっと自分の腕を重ねた。

「りこちゃん。」
「うん?」
「それってドラマチックだけど、めちゃくちゃ嘘っぽくない?」

 だよね、とりこちゃんは笑う。彼女の笑い声は、あたしの耳の中でいつまでも鳴り止まない。
 りこちゃん。
 あたしはりこちゃんに、あたしと同じ現実を生きてほしいんだ。

「ねえ。」

 あたしの呼びかけに、りこちゃんは回す腕の力を弱めることで返事をした。

「別れて。彼氏と。」

 彼女はへへっと笑って、

「別れた。もう。」

 と言った。

 彼女の腕をほどいて、向かい合った。彼女の笑い顔が人懐っこく、「褒めて褒めて」とおねだりしていた。

 金木犀の匂いがまた、するっとあたしの感覚を刺激した。それはあたしの気持ちを寂しくさせたけど、あたしは秋という季節にぴったりの、彼女という存在を見つけたのだった。
 もうだいじょうぶ。あたしは思った。

「もう、大丈夫」

 それがあたしにできる精一杯の告白だった。


 ぴん、ぽん、ぱん、ぽん。
 ぴん、ぽん、ぱん、ぽん。

 行方不明の少女は、無事、保護、されました。


 あたしはしっかりと聞きとった。
 ここは夢でも妄想でもない。



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