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届かない、浅倉透のあこがれ。【pooool】

浅倉透、自身にとっては2枚目であり限定としては初となるsSSRが登場しました。

【pooool】浅倉透

正直焦りました。
というかこの人の登場頻度高すぎないか?コラボフェスに続いてオータムフェスにも登場。そして今回の新規sSSR。
シャニマスを始めてまだ日の浅い私ですが、だいぶお目にかかってる気がします。担当だからそう感じるだけでしょうか…。

まあそれはさておき。
限定ということで前述の通り焦った私でしたが、無事に70連辺りでお迎え出来、さっそくコミュを読んでみました。

むず…………

むずすぎる。初見ではほとんど意味がわからない。
ノクチルのコミュ、特に浅倉のコミュって、めちゃくちゃ深いこと言ってそうでそうでもないっていうか、とりとめがないので普通に読み飛ばしてしまえばなんてことない話なんですけど、何となく読んだ後胸がざらつくっていうか、自分は何かを見落とし、何かに気付けていないような気がする、みたいな、そんな気分になりませんか?(語彙)

というわけで、普段そんなすっきりしない気分になりながら浅倉を担当してきた私ですが、今回は頑張ってこのコミュと向き合い、考察してみようと思いました。この先の文章は知ったような口で偉そうに語っていきますが、言ってしまえば全部、私のこじつけた妄想です。あんまり気にしないでください。こういう考察ノートを書くのは初なので色々と至らん部分があるかと思います。どうかあたたかい目で…。それではいきます。ふー。

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まずこのコミュ全体のテーマとして、というか浅倉透のテーマの中の一つとして、

"非日常への憧憬"

これがあると思いました。
たぶん【ハウ・アー・UFO】を読んだことある方はわかると思うんですけど、今回のコミュを読んでそれがより確信に変わったなって感じです。
この先の考察は、この「非日常への憧憬」を前提のうえで進めていくので把握お願いいたします。

*泳げばとうとし*

話の導入としては、
浅倉がジャージを学校に忘れる→そのジャージのポッケに家の鍵が入ってる→そりゃやばいな→夜の学校に取りに来た(何故かノクチルみんなついてきてる)
という感じです。

そんなこんなで夜の学校を訪れたノクチル御一行ですが、ここで浅倉が何かを発見します。

そしてこれを

蹴っ飛ばしてしまいました。
その後、このサッカーボールはフェンスを越えてプールに入ってしまいます。今回のコミュは簡潔に言えば、その蹴っ飛ばしたサッカーボールを取りに行くっていうだけのお話です。実際に起きたアクションのみ取り上げるならば。

とりあえずサッカーボールを回収するために、4人はフェンスを越えることにします。物理的に越えなきゃならんのでね。

途中見つかりそうになったりする。
そんなこんなで無事にフェンスを越え、プールにたどり着いた4人はこんな光景を目にすることになります。

水が張られていないプールってことですね。
月が落ちてた っていうのは、サッカーボールのことでしょう。最初に蹴っ飛ばした時も、浅倉はサッカーボールのことを「冷えてる月」と表現しています。この辺が浅倉のすごいところであり厄介なところなんですよね。普段の会話ではほとんど語彙不足なのに、こういうところで詩的な表現をしてくるというか。アウトプットに向いてないだけで、彼女の精神世界の中では意外と色々考えてるんですよね、限りなく感覚的にではあれど。

時を戻そう。

ここで注目したいのは、やはり「水がないプール」です。プールというのは通常、水が張られているものですよね。通常=日常と捉えるならば、水があるプールは日常、つまりこの水がないプールはその反対で非日常の象徴と解釈出来るわけです。

前述の通り、浅倉は非日常へかなりの憧れを持っています。ハウ・アー・UFOを読めば何となくわかると思いますが。それだけ憧れていたぶんやはり水のないプールにテンションが上がる浅倉。

また、何度も登場してきている通り、浅倉はサッカーボールを「月」と表現しています。本来なら空にあるはずの月、が地上に落ちてきている。反対に、本来プールにあるはずの水が、浅倉いわく空に張られている。いわば天地逆転ですね。この辺の解釈が非常に難しくて煮え切らないのですが、空に張られた水を非現実と捉えるならば、落ちてきた"月"は天地逆転の今、現実の象徴と考えられるのではないかと思っています。

そして無事サッカーボールを回収した4人。
今度はフェンス外に再度、浅倉がボールを蹴っ飛ばし一件落着です。

「コンビニ」
非常に現実的で人工的なワードだな、と思いました。
この辺りの樋口と雛菜のセリフは、非日常から日常への、現実への帰還を表している感じがします。

樋口の呼び掛けに対する応答が少し遅いです。現実に引き戻されたというところでしょうか。どことなく名残惜しそうな印象も受けますね。

「月まで行こう」
最後にそう言って浅倉は、フェンスを乗り越え日常へと帰って行きます。先ほど天地逆転の話、この場合「月」が現実の象徴と考えられるのではないか?という話をしましたが、それを踏まえると、水のないプール(非現実) から 月(現実) へ戻る、という解釈が可能ではないでしょうか。

それから、もう一つ重要だと考えられるのが「フェンス」の存在です。プールという非現実と現実とを隔てる境の役割を、おそらくこのフェンスは果たしています。先ほどプール侵入の際に先生に見つかりそうになる場面がありましたが、あれは小糸ちゃんがフェンスを越える前なんですよね。つまり、まだ非現実に入り切っていない状態だからこそ、外部の、現実の人間の声が聞こえたのではないでしょうか。

後でまた少し触れますが、ひとまず「泳げばとうとし」に関してはこんなところです。
この「泳げばとうとし」ってタイトルも少し気になるんですけど、私はあまりピンとくる考察に辿り着けませんでした。やはりあの「仰げば尊し」からとってきてるんだとは思いますが…。強いて言うなら、仰げば尊しは卒業ソングです。なので、「日常からの卒業」みたいな意味があるのかな、と…。タイトルについて何か思いついた方がいたら教えてください。

*虫たちの夜*

場面は変わって、お昼休みの教室です。

話の導入として完璧ですね。なんだなんだ?ってなる感じ。シャニマス、さすがです。
浅倉の語りから2つ目のコミュはスタートします。どうやら、越してきた新婚の奥さんの話らしい。

ところがどっこい、浅倉の実体験の話かと思ったら小説の話みたいです。それに対して

浅倉のクラスメートがツッコミます。ここ初見で意外でした。ノクチルは幼なじみだけあって学校がコミュの舞台になることが多かったですが、それにしては今まであまり同級生とかの存在って関わってこなかった気がするので。結構新鮮。あと言い忘れてましたが雛菜もいます。このコミュは浅倉と雛菜の会話中心に進んでいきます。ご飯食べてるのでお昼休みなんでしょうけど、雛菜って一個上の浅倉のクラスに来てるんですね。そうなのか…。

脱線しました。

ここで少し気になったのが、クラスメートがツッコんだように、浅倉はこの話を「最近読んだ小説の話なんだけどさ」みたいな感じで始めなかったことです。まあこの辺は浅倉なので、普段通り説明を端折ったんだろうって思えばそこまでなんですが、あえて深読みすると、浅倉とクラスメート(一般的な人)の間には、いわゆるフィクションに対する認識の違いみたいなのが存在してるのかな、と思いました。通常クラスメートのような一般人(私もこの部類です)は、フィクションを「現実的非現実」と捉えているはずです。実際にありそうだけど、あくまで虚構で作り話だと頭ではわかってる、みたいな感じ。でも浅倉の場合はその反対で、「非現実的現実」と捉えているのかな、と。確かに現実ではありえないかもしれないけれど、それでも自分と同じ世界の軸のどこかで起こっているはずの出来事、という認識。だから最初に「これはフィクションなんだけど」という前置きを置かなかったのではないか?彼女にとっては現実と虚構の差というものが、一般的な人間ほどはっきり存在していないのではないか?とそんな感じがしました。
そう考えると、浅倉の非日常・非現実に対する憧れも、より説得力を増します。普通なら、「現実には起こり得ない出来事だ」と諦めますが、彼女の場合は「自分の身近に起こらないだけで、世界のどこかではきっと起こっている」みたいに思ってるのかもしれません。ただ、この辺はこじつけが過ぎるかな…と自分でも感じるので、あんまり気にしないで下さって結構です。

話を進めます。

はーん、なるほど。

一気に難しくなってきました。
要するに、誰かにとっての美しいも、実際には多くの犠牲のうえで形成されていたりする、みたいなことでしょうか。言いたいことというか話の本筋は違うと思うんですけど。「綺麗な感じの夜」⇔「戦う虫たち」の対比みたいになってますね。浅倉のこの話は、言わずもがな食物連鎖の話でしょう。
多分この辺重要だと思うんですけど、やっぱむずいです。考察ノートなので一応私なりの解釈を提示しますが、それには3つ目のコミュが関わってくるので一旦この辺の食物連鎖云々については保留させて下さい。あとでまた触れます。

ちょっと省きましたが、この間にクラスメート達はクリスマスの飾り付けなるものへ駆り出されて行きました。結構行事ごとを大事にする学校なんですね。自分の高校時代は、せいぜい生徒会がイルミネーションのランプを木に巻き付ける程度だった気がします。
ここで2人は、教室の窓からプールが見えることに気付きました。プールってあの水のなかったプールです。例のアレです。

がっかりしたような声をあげる雛菜。どうやら、プールまで金モールで飾り付けられちゃったようです。めちゃくちゃ大規模だな。ここでは、浅倉は ふふっ と笑ってますが

ざわざわする って言ってます。2回。
2回目の「月の下でざわざわしてる」のざわざわは、後の文章から見ても、あの日、水のないプールではしゃいでいた自分たちの形容でしょう。これについてはまたあとで触れるので、ここで注目したいのは1回目の ざわざわする です。
これは文章だけだと伝えづらいのですが、コミュ内だと、クラスメートたちのクリスマスの飾り付け、結構騒がしいんですよね。文化祭前とかでワーワーしてるあの感じです。そして、そこからちょっと距離を取ってると言うか、半ば隔絶されたような印象すら受ける浅倉と雛菜の会話している空間。
あの日の水のないプールは、前述の通り、浅倉にとって憧れた非日常に限りなく近いものでした。その非日常が、金モールという人工物に、クラスメートたちに飾り付けられ、侵食されていく。あの日の、自分たちだけのもののように感じた非日常が、日常に成り下がっていくような、そんな胸のざらつきを浅倉は「ざわざわする」と表現したのではないか、と私は思いました。自分だけの特別だと思ってたものが、他の多くの人達にさらされていくような、人間一度はそんな気持ちを経験したことあるんじゃないでしょうか…ないですか?

*プール・フール*

まず、タイトルの"フール"とは何じゃろか、という話なんですが、調べてみたところ

1.愚か者。ばか者。
2.だますこと。また、だまされる人。

みたいな意味があるようです。これを少し念頭に置いて考察していきます。

さっそく面白すぎだろ。
浅倉がちょっと不憫に思えてきた。
時期は年末。浅倉の家にノクチルみんなで集まり、お菓子食べて駄弁ってテレビ観て…みたいな感じでしょうか。いいなあ羨ましいなあ。

似てる人・似てる映画・似てる番組…。そういうのがひしめき合って、ざわざわしている12月。
"12月は ざわざわしてる"
また「ざわざわ」のワードが出てきましたね。
ところでほんとに浅倉って天才なんじゃないか?この、何とも言えない年末に感じる焦燥感や落ち着かない気持ち、絶えない人の流れ、居心地の悪さ、そういうのを全部ひっくるめて「ざわざわ」という言葉に集約させやがった。いつも語彙数が足りないぶん、非常に的確なワードをぽんっと出してくるんですよね。その才能ちょっくらオラにわけてくれ。

さて、若干色々飛ばします。
このコミュはツッコミどころが多いのですが、いちいちツッコんでいるとこっちの体力と文字数が持たないので、是非カードをGETして読んで下さい。

樋口の偏見がすごい。
あとで少し触れます。いったん飛ばします。

はあ〜〜〜〜〜浅倉、お前ってやつはすごいよ…。
浅倉への賞賛が止まらないので語るのはやめますが、本当にすごいこと言う。

要するに、同じことの繰り返しなんですよね。
似たようなテレビ番組に、似たようなルックスの芸能人が出演し、おまけにやらせ(樋口の偏見を事実と見なしたら)までして面白くさせようとする。この「繰り返し」という点で思い当たるのが、2つ目のコミュで登場した「食物連鎖」です。ここでは食物の連鎖ではないかもしれませんが、陳腐で面白みのないことを繰り返す、しかも汚い手を使ってまで。そういう点では「"愚か"の連鎖」とも捉えることが出来るのではないでしょうか。ここまでではないにしても、おそらく浅倉は「つまらないことの繰り返し」くらいには感じてると思います。

でもここでもう一つ気になるのが、「ざわざわ」です。ざわざわ も2つ目のコミュに登場しました。「月の下で ざわざわしてる」と水のないプールではしゃぐ自分たちのことを形容した浅倉ですが、おそらくあの時点で、その自分たちの様子を小説内の戦う虫たちの姿にも重ねていたと考えられます。
しかし思い返すと、結局その虫たちのざわざわは、小説内の"奥さん"にとって気にもとめない、所詮「いい夜」の一部にしかならない程度のちっぽけな存在だったわけです。

ここで浅倉は気付いたのではないでしょうか。この陳腐な繰り返しを「つまらない」と、「愚か」だと捉える自分たちもまた、小説内の奥さんのように何か大きな存在からしてみれば、その陳腐で愚かな連鎖の中の一部に過ぎないのだと。水のないプール(非日常)にはしゃぎ、特別になれた気でいたあの時の自分たちも、結局遠目から見れば「虫の鳴き声」の一つでしかないのだと。

ここまで書いていて、何となく涼宮ハルヒのことを思い出しました。小学生の頃に角川つばさ版の小説を読んだり、中学生の頃にアニメを観たりした程度ですが、彼女も確か、いわゆる非日常、例えば宇宙人とか未来人とかに憧れていましたよね。
ハルヒの場合は、子供の頃に父親と訪れた野球場でその人の多さに驚き、自分がいかにちっぽけな人間で、何も特別でなんかないことを思い知らされるわけですが、ふとその時のハルヒと今回のコミュの浅倉が自分の中でリンクしてしまいました。あくまでも私個人の意見ですが…。ここのハルヒの場面を小説で読んだ時、幼いながらにすごく印象に残ったんですよね。こっちが辛くなって。なので正直、今回の浅倉のコミュも自分には結構辛いです。

時を戻そう。

月 はコミュ全体において、現実の象徴なのではないのか、という話は1つ目のコミュでしました。そして反対に、水のないプールとは非日常の象徴ですね。ここでは浅倉が、「日常」と「非日常」とを天秤にかけているんだと思います。
そして浅倉は、プールを、非日常を選びました。

雛菜はさておき、樋口と小糸はあんまり乗り気じゃないですね。もちろん、2人はこの時、浅倉がプールの先に非日常を夢見ているとは思ってもないでしょうから、真っ当な反応ですが。
この浅倉の顔がまた、何とも切ないんですよね。

3つ目のコミュは、これで終わりです。
浅倉は結局、非日常を選び「どぼん」しました。
どぼん についても少し触れておきたいのですが、

1つ目のコミュも3つ目のコミュも、プールという非日常に飛び込んだ時は「どぼん」とひらがな表記。
反対に、1つ目のコミュで月という現実へ帰還する時は「ドボン」とカタカナ表記になっています。この辺で差別化してくるのが流石シャニマス君ですね。

最後に、まとめの意味も含め、ちょっとだけ【ハウ・アー・UFO】の話をさせてください。

樋口と小糸をはじめ、あれだけ浅倉を慕ってるはずの雛菜ですら、彼女のUFOの呼び出しにわりと愛想を尽かしてるんですよね。というか、浅倉ほど興味を持てず、情熱を注げないんだと思いますが。

ノクチルという幼なじみの集団、及びその集まりが存続するか否かを担う浅倉透という存在を、樋口・小糸・雛菜は、それぞれの違いはあれども守ろうとしています。つまりこの3人が見ているのは、浅倉でありノクチルです。でも今回のコミュなんかを読んでいると、その浅倉自身の目に映っているのはもっと高く、遠い場所であるように思えます。そんな浅倉を理解したうえで、あとの3人が彼女の後ろをついてきてくれれば良いのですが、少なくともUFOのコミュにおいては、まだ浅倉と3人との間には心の距離みたいなものが感じられます。それぞれの思いが一方通行になっているのが非常に切なくて、ノクチルというグループの危うさ・脆さのようなものを痛感しますね。

「アイドル」の仕事って、一般人からしたらすごく特別だと思うんですよ。それこそ、まさに非日常だと思うんです。でも今のところ浅倉にとっては、そのアイドルですら「学校」という日常と何ら変わりないんですよね。彼女にとってこの世界は、あまりにも生きづらい。

いつか、「アイドル」という仕事が浅倉にとっての「非日常」になりますように。もしくは、非日常への憧憬を捨てるくらいに大切な存在となりますように。ノクチルというグループが幸せに行き着きますように。

そう願ってこのノートは締めさせていただきます。
浅倉P・及びノクチルPの皆様、「海へ出るつもりじゃなかったし」の開催が発表され、年始早々彼女らにまた精神をずたずたにされそうですが頑張っていきましょう!それでは良いお年を!

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