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料理が嫌いだ

私は、料理が嫌いだ。

自分の料理を人に食べられるのはもっと嫌いだ。


 まず、そもそも難しい。

 レシピを見ながら作るとして、すべての材料をレシピ作成者の意図どおりグラム数で用意することは難しい。じゃがいも一個って何グラムのじゃがいも?そこに毎回ばらつきがあるはずなのに、調味料は毎回、「大さじ1」としか書いてないから、困る。

 だからレシピに沿って作ったつもりでもしょっぱくなったり物足りなくなったりする。それを悩みとして相談すれば「そんなの感覚で調節するんだよ」なんて言われる。


 感覚ってなんやねん。


 自分しか食べないならそれでいいのかもしれない。失敗しても今日はしょっぱいなテヘヘ〜!で米を多めに食べればいいかもしれない。でも人に振るまう場合、そうもいかないじゃない。しょっぱい薄い、好き嫌い、人それぞれ。人それぞれなのに、家族のご飯は私が作る。申し訳ないじゃない。


 そう、わたしは、自分の作ったご飯を食べさせることは申し訳のないことだと思っているのだ。


 むかしばなし。

 わたしの父は、その日の料理が気に入らないと母を説教し、挙げ句には皿をひっくり返すわ投げ付けるわするような人間だった。そこでまず、「ご飯を上手に作れない女は怒られる」という固定観念を植えられた。

 母は料理が下手なわけではない。他の家庭と比べたことはないがたぶん普通においしかった。だからわたしだけでも「おいしいよ」とご飯を食べてあげたかった。しかしわたしはとんでもなく偏食で、同じものばかり食べ、その時の気分じゃないと食べられず残してしまった。それを見て父は「ほら、お前の料理がまずいから子供も食わないんだ」と言った。違うのにな。父にそう言わせないために無理矢理口に詰め込んでは、違う食べ物を頭に思い浮かべていた。わたしはおにぎりが好きだったがおにぎりをねだると父は「お前の料理が食べたくないからおにぎりに逃げてる、かわいそうだと思わないのか」と母を責めるのでねだるのはやめた。

 小学校のとき、お小遣いは少女漫画のりぼんを買うのにあてていたが、小学校高学年になり、りぼんを買っても少し余裕ができたときには、お小遣いは食べ物に使っていた。コンビニでおにぎりを買っていた。買い食いは誰にも文句を言われず誰にも被害を与えずに食べれる最高の食事だった。もちろんゴミは外のゴミ箱にこっそり捨てた。

 母の料理を食べたくないという父がいるもんで、我が家は外食の頻度が高めだったが、外食も好きだった。だって、たとえおいしくなくても母が責められないから。


 こんな家で育てば、ご飯を作ることは罰ゲームみたいなものだと思うのも当然だった。


 一人暮らしをはじめ、わたしは自炊をはじめた。料理をするのは嫌だったが、自分しか食べないと思えば気が楽だった。まずくできても自分で笑ってなんとかすりゃいい。皿を投げつけてくる人はここにはいない。でもやっぱり料理という行為自体が、あまり好きにはなれなかった。


 彼氏ができると、なぜか発生するイベント、「彼女が手料理を振る舞う」。これも心底嫌だったが嫌われたくないので必死になってレシピを覚えてあたかも普段から作り慣れてます感を出しながら作った。「おいしい」と言われると、(彼は、まずいけど嫌われたくないから必死になって食べてるかもしれない、嘘をつかせて申し訳ないなぁ)と思った。


 冒頭の言葉に戻る。

 わたしは、自分の作ったご飯を食べさせることは申し訳のないことだと思っているのだ。



 その後わたしは結婚し、渋々毎日ご飯を作っているわけだが、作り慣れてきたとて、料理と向き合うことがつらいなあという気持ちは変わらない。 

 ちなみに「夫が作ればいいのに」とは思わない。わたしの偏食が邪魔をするからだ。偏食にとって日々予定外のご飯が出てくることは苦痛でもあるのだ。自分が食べたいものを決めることができる、これは作る側の特権だ。だから夫が作るより自分で作ったほうがいいに決まっている。なのに料理を好きになれない、まだ。


 料理なんて好きな方がいいに決まってる。
 健康に生きていくのに欠かせない行為なんだから。
 「趣味:料理」の人の、なんと人生の豊かなことか。

 わたしも、できるならば好きになりたい。でも、「好きにならなきゃ」と思うと余計に嫌悪感が出るのだ。


 巷の「完全メシ」的なやつが、もっと充実してくれたらいいのにと思う。自炊せずとも健康に生きられる世の中になればいい。妻が家族の健康を守るとかいう概念がなくなればいい。

 そうやって逃げの思考を膨らませながら、今日もわたしは大さじ1の表記と格闘している。


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