物語摂取リハビリ
私は、たぶん、いや確実に、今も昔も物語を愛してる。
本の世界から抜け出してしまった私
「本の虫」
という言葉を知る前に、私は本を読むことをやめてしまった。
振り返ると、少なくとも小学生の頃はまさしく「本の虫」だった。
以降、別に本が嫌いになったわけではなく、中学以降アニメやゲーム、インターネットにお熱となり、今まで本に費やしてきた時間を他にあてた結果、全く本を読まなくなってしまった。
内気な性格な上に、運動が苦手。
両親は共働きで、兄は5つも離れているため、必然的に一人遊びが得意になった。実家にはいまだにぬいぐるみのお友達が30体以上いる。(ちなみにぬいぐるみにはそれぞれ名前をつけていた。お気に入りは兄がお土産で買ってくれたピンクのウサギの「うさみちゃん」)
毎週末図書館に連れて行ってもらって、制限数いっぱいまで本を借りていた。
一人で遊ぶのは全く苦じゃなかった。ぬいぐるみたちと本だけは、いつでも私のそばにあったから。
そして外に出なくてもここではないどこかの世界へと誘ってくれる本の世界が、現実世界より何倍も美しくて楽しくて心惹かれていた。
小学校のクラスに置いてある本を朝の会が始まる前から読み始めるために、早起きをして真っ先に教室に向かいお目当ての本を手に取り一目散に自分の机に向かっていた。
「おはよう〜!」と友人が声をかけてくれる時だけ目線を本から外し、それ以外はずうっと本を読んでいた。
中学時代になると、ズルさを覚えて、現代国語の授業中に、机の下に本を潜ませてこっそりと読書に勤しんだ。
(現代文には自信があり、授業を聞いてなくても点数は取れていたし、元々の素行が良かったので先生にも目をつけられることもなく、現代国語=読書の時間となったのだ。)
しかしながら、高校に入ってから読んだ本の記憶はほとんどない。
それほどまでに本から離れてしまっていた。
小学生の頃と比べて人見知りも多少マシになり、社交性もそれなりに身についたから、というのもあるのかもしれない。
私にとって、本の世界は、現実世界から隔離された殻のような存在だったのだ。
そんな本の世界を必要としなくなった、と言ってしまうと、本から離れることが正解であるかのような錯覚に陥ってしまうのでこれはなんともよくない表現である…むむむ……
ともかく。本から離れたものの、本が好きだという気持ちはなぜかずっと持っていた。中学生の頃まで夢は小説家だったし、高校時には本気で図書館司書を志していたほどだった。
大学も文系の学科に進み、周りはまさに本の虫のような生徒ばかりだったのだが、それでも私は本以外に興味を注いでいた。
そして、そのまま成長し、今に至る。
私は多趣味人間であり、そのたくさんの趣味の中の一つとして、ゲーム実況を見ることが挙げられる。
昨年見た「デトロイト」というゲームの実況がとても印象深いものだった。
ストーリーは、アンドロイドが一般的となった世界で、アンドロイドに心があるのかどうか、人間との違いは何なのか、といったことをプレイヤーに考えさせられる、SFチックな話だ。(かなり簡易的な説明なので、気になる人は是非ともHPを見て欲しい。)プレイヤーの選択肢によってエンディングが大きく変わってくる、というゲームシステムも面白かった。
そして「デトロイト」について調べている時に目についたのが、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』だった。
SF好き、読書好きであれば、いや、読書に疎い人でも、このタイトルを耳にしたことがある人も多いのではないだろうか。
私もこの特異なタイトルを見たときに、一瞬にして興味を惹かれたことを覚えている。私はその何とも魅力的なタイトルを再び目にして、読んでみたい…!という衝動に駆られ、すぐさま文庫本を購入した。
物語が読めなくなった日
本当に久々の読書だった。
片手に収まる小さな本。ページをめくる感覚。文字の羅列を上から下へ、右から左へ、と活字を目で追う様に異様な懐かしさを感じた。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は、海外の書籍であるため日本語訳されている作品であり、少々描写がわかりにくいところもあったが、なんとか読み進めた。
登場人物が海外名で覚えにくいところもあったが、なんとか、読み進めた。
舞台がまるっきりSFで、小説内での一般的認知と現実の認知とのズレになかなか馴染めず頭を抱えることもあったが、なんとか……なんとか読み進めた。
読み進めてはいたけど、
早く続きを読みたい!という気持ちにはならず、いつの間にか、読書を義務化してしまっている自分に気づいてしまった。
それに気づいて、私は無性に、怖くなった。
今まで本から離れていたけど、私は本を好きだ、という自信があった。
でも、このまま読み進めて、"好き"が"嫌い"になってしまう可能性を予感して、怖くなった。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
物語はまだまだ序盤だった。
物語はまだ大きく展開していなかった。
そんな序盤で、私はしおりを挟むことを、自ら辞めた。
本を閉じ、今まで置いていた枕元ではなく、テーブル下の棚へと本を移動させた。
十分わかってはいたけれど、
これではもう「本の虫」だなんて、呼称できない。
たぶん。おそらく。…もしかしたら、
中学まで、というとつまりは15歳頃。
簡単に計算してしまうと、私は15年もの間、本に触れて生きてきたのだ。
(乳幼児期に本を読んでいたのか、と問われるとさすがに答えに困ってしまうが、両親が絵本の定期便を注文しており、幼い頃から絵本の読み聞かせをしてもらっていたので、15年間という単純換算も大方間違いではないのだ。)
それがどういうことかというと、
私は人生の半分以上を本と生きている、ということになる。
良くも悪くも、思い出は揺るぎないものであり、根底に染み付いているものだ。
というわけで、
私はあのとき、海外小説に対して読みにくさを感じただけかもしれないし、そもそもSF小説が苦手だったような気がする。(そういえば、幼少期に星新一作品をポカンとしながら読んだ記憶がある)
だから、私は別に本が読めないわけではないのだ!
と、自分に盛大な言い訳をして、本を手放す、という選択はしなかった。
むしろ、蔵書を増やした。
部屋の小物を飾る際の高さのカサ増しに使えるし、何より本があればいつだって活字に、物語世界に、触れられるじゃないか!
今は読まないけど、いつか、きっと、前みたいに読むときがくるから!!
と、なぜか自分に大きな見栄を張って度々本を買った。
そして、そんな見栄を張りながらも、私はやっぱり本を読むことをしなかった。
多分、心のどこかで私は怖かったのだと思う。
もう物語世界に足を踏み入れることができない身体になってしまっているかもしれない、という現実と向き合うことが。
あれほど愛した物語世界を、
あんなに入り浸っていた世界を、
現実世界よりも、私の全てだったあの世界を。
今の私は、そこに踏み入ることすらできないなんて、
そんなの……あまりにも悲しかったのだ。
結局、物語は、私にとってただの通過点で、糧でしかなかった、と……
あらゆる娯楽を得ることで、大事にしていた"物語"を私は知らず知らずのうちに手放してしまった……
それも、もう2度と掴めないような、ブラックホールのようなところに、知らず知らずのうちに放棄してしまっていた、と……
幼い私が今の私の現状を知れば、きっと憤怒して咎めるだろう。
「私を生かしてくれた物語を、あなたは無責任に手放したのね!」と。
幼い頃から負けん気だけは強い子どもだったから、
「物語を手放しにしたあなたなんて私じゃない!!偽物!!!」
とまで言われ兼ねない。…いや多分、言われるな。
そして失望の眼差しでこちらを見てくるに違いない……
運命の出会い、だったのかもしれない
そんな自分の内側の葛藤に対して見ないふりを決め込んで、私はいつものようにブックオフに寄った。
お目当ては音楽雑誌(雑誌に関しては何の問題も違和感もなく読み進められるのだ)とCD。
しかし、家の近くのブックオフはいつ寄っても、品揃えがほとんど変わらない。
周りをちらりと見ると、みんな立ち読みに専念しているし、そもそもCDや雑誌コーナーにたむろする人なんていない。
店内人口の9割、漫画コーナーを占めていたので、まぁ品揃えが全然変わらないのも納得だ。
今日も収穫はなしかぁ〜と思い、ぼんやりと文庫本コーナーを覗くことにした。
部屋に置いてある本の置き場を変えたせいで、数冊分空きスペースができてしまっていたのだ。
2、3冊何か買おうかなぁ〜と、表紙と本のタイトルとを見て何となく、手に取って見る。
いつか読むかも知れないし。
裏表紙に書かれた概要を見て、面白そうかもなぁ〜と思った本を抱える。
ぼ〜っとふらふらと、何となく背表紙のタイトルを目でなぞらえていたとき、そのタイトルが目に止まった。
何とかの戦い、とか、武将◯◯の何とか、とか。
ともかくその棚が歴史関連の棚であることは一目見てわかった。
そこに紛れる明らかに異質なタイトル。
『神様のボート』
…?
歴史の棚に、神様…??
因果関係がわからないそのタイトルを手にして裏表紙を目にした。
何だこれ……
明らかに歴史小説じゃない…というか恋愛小説じゃないか……
この一文だけで、この本の居場所がここではないことがわかった。
面白そう、とは思った。
思ったけど、私は恋愛小説に対して苦手意識を持っており、手に取ったその本を、明らかに違うであろう元あった場所へとそのまま戻した。
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「98%が涙した…!!」
「あなたもきっと恋したくなる…!!」
なんて謳い文句で書かれた小説を、昔読んだことがあった。
たしか、書店員おすすめ!大人気!!とも書かれていた。
私は本を読んで泣いたことがなかったから、涙できるんなら読んでみようかな〜、という興味本位で読んだ。
読んだ結果、どうやら私は2%の人間だったことがわかっただけだったし、本を読んだからといって恋がしたくなったりもしなかった。
幼い頃からどこか冷めていたので、所謂流行りの恋愛小説なんかは全然私に響かなかった。
(当時は携帯小説なんかも大流行しており、周りが大絶賛していた『恋空』は最初の数行読んでギブアップした思い出がある…)
まぁもちろん私にそういった経験がないから響かなかった、というのが大きいんだろうけど、大人になった今でも、通り一遍の恋愛物語にはどこかうんざりしてしまう。例えその物語が波乱万丈、奇想天外なストーリーであったとしても、好きどうこうという話はどうにも綺麗事のように思えてしまう。
他者を好きになる気持ち、愛する気持ちには、必ず人間の醜い部分が共存しているものだと思っている。エゴの塊が愛なのではないか、とすら思ってしまうほどである。
まぁ何といっても、私は幼い頃から、性善説ではなく性悪説を信じてやまない可愛げのない子供だったので、綺麗事を並べられたお話なんかは汚い部分を隠すためのカモフラージュのようにしか思えなかったのだ。
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ぐるりと文庫本コーナーを回って、2冊私の手元に収まっていた。
あと1冊欲しいけどなぁー…と思いながら、Uターンして背表紙のタイトルを目で流していく。
そして、やっぱり目に留まる異質な場所に収まっている『神様のボート』(まぁ、さっきこの場所に戻したのは私なんだけど…)
「骨ごと溶けるような恋」
どうしてもこのフレーズが頭に残った。
決して簡素でありきたりではなく、身を捧げるほどの熱を帯びているような、破滅をも連想させるような、このフレーズがどうしても気になった。
少しだけ、パラパラと最初の方のページをめくってみた。
速読術は身につけていないので、さすがに読めなかったが、ふとめくったページに、目を奪われた。
素敵な表現だと思うと同時に、ゾッと身の毛がよだつ感じがした。
これは、通り一遍の恋愛小説なんかじゃない。
うわべだけの理想郷の物語じゃない、これは、確かに生きている物語だ。
私はそう確信した。
楽しみを取っておくため、その部分に目を通してすぐに本を閉じた。
今度は元あった場所に戻さず、そのままレジへと向かった。
大きな箱を大事に抱えて
あれから。
『神様のボート』を読了後、
私は「活字リハビリ(正確には物語摂取リハビリ)」と称し、読書を続けている。(といっても、読書離れの期間が長かったからか、読むペースは遅くまだ4冊ほどしか読めていないが…)
ほぼインテリア用に購入した本たちは、あれからさらに増え、新たに本棚を作るほどになった。(noteのヘッダー写真がNew本棚)
例えば、恋愛はタイミング、というけれど、
物との出会いだって、タイミングだと思う。
小学生の時に私が『神様のボート』に出会っていたとして、多分、いや絶対こんなにも心が揺さぶられることはなかっただろう。
あの頃本を読んで泣いたことがなかった私が、恋愛の要素を含んだ小説で涙することになるなんて。
全く、人生何があるかわからないものだ。
今回は、作品の感想noteではないので細かな感想については書くつもりはないが、作者があとがきで記していた通り、
これは通り一遍の恋愛物語でもなく、綺麗事を並べた胡散臭い物語でもなく、
紛れもなく「狂気の物語」だった。
私が求めていた、エゴ故の愛。
そして誰の心にも内在しているであろう狂気。
真実と信じて疑わなかった現実(リアル)の人間の様が、
この物語には詰まっていた。
自分でも驚くほど、ページをめくる手が止まらなかった。
時間を忘れて本を読んだ。
終盤に近づくにつれ、この物語を終わらせたくない、という葛藤も出てきて、読むスピードを落としたくらいには、この物語世界に魅せられ入り浸っていた。
素敵な本と出会えた、という感動もあったが、
やっぱり私はまだ物語を読める身体だったんだ…!
という安堵感が何より大きかった。
少し誇らしく思えたほどだ。(読むペースは遅いけど)
物語摂取リハビリのおかげで段々物語を抵抗なく読めるようになってきた。
(というか、昔の感覚を取り戻しつつある、という方が正しい気がする。)
とはいえ、心折れてしまう瞬間が怖いため、まだSF作品には手を出せそうにないが、一度挫折した『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』もゆくゆくは読破したいと思っている。(当面の目標である。笑)
私が過去に愛したたくさんの物語世界も、
物語を読めず抱いたあの日の葛藤も、
全て"箱の中"に入っているのだろうか。
もしそうならば、
私はその箱を忘れることなく、置き去りにすることなく、
大事に抱きかかえて生きていきたい。
その箱には、私が私である証が詰まっているのだから。
きいろ。
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大人になってからの読書、というか物語摂取リハビリ以降の読書は、
物語世界に入り浸るためだけでなく、知識と表現のインプットの役割としての方が大きい気がする。何となく。
だからなのか、読んだ後読書感想文を書く気にはならなくて(気が向いたら読書感想文も書きたいな、と思いつつ…)代わりに素敵な文章・表現やわからない漢字、聞きなれない言葉をノートに書き残している。
当時心惹かれた表現を辿ってまたその本を読み返す、なんてのもいいかな〜と思ったり。
そして、なんとなく始めたこれがなかなかに楽しくて、、
物語摂取リハビリが順調である要因はこのノートにもあるのかもしれない…
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