25歳になって
25歳になって、周りのことや自分のことがわーっと総括されていくような動きになっていて、それが予感以上に怒涛すぎて、最近はもはや波に攫われているみたいです。
これが春の嵐なのか。とyonigeを聞きながら思う。
"一世一代の祭りさ"
yonigeは24歳まで、と知人に言われて、とてもモヤ〜とした記憶を思い出した。私はババアになってもyonige聞くかもな、先のことはわからない。
春になると聞きたくなるバンドってある。それが私の記憶に影響してるのかはわからないけど、クリープハイプもそう歌ってたので、結構あるあるなのかなって思う。
春は好きだけど苦手。花粉とかではなく、春は別れの季節だと思っているから。出会いの季節でもあるけど、やっぱり理由なく、どこか物悲しい気持ちになる。同じような人いるのかな、別れは苦手。
駅のホームで、帰っていく兄の背中を眺めるといつも涙が出そうだった。でも、自分が歩き出して行く時はいつもわくわくしてた。
こういうのって立ち止まってる方が感じる悲しさだなと思う。そんな兄の背中に、着いていくことが出来たら。
最近兄から一本の電話があった。私の手を引いて導いてくれるような、そんな話をしてくれた。
25歳になって、自分に必要な人かそうでないか、俯瞰して第六感のようなもので感じられるようになった。簡単に言語化するなら、私のことが本当に好きかどうか、なんだけども。
その中でも兄は、私が赤ちゃんの頃に唯一、声を上げて笑うほど通じあっただけあって、やっぱり最重要人物なんだと、その時再確信した。
愛を感じられる人は良い。私はよく、心があったかい人、と言うけどそういう人が好き。それは冷静か情熱的かに関わらず、心の底の部分だと思う。
私は3年間、自分の弱さを知り、孤独を知る修行を積んだ。そのおかげで、私は周りの人達に余計に感謝したり、過度なまでに味方をしたり、寄り添うような人間になったと思う。
でもその弊害で、元から自他の境界線が曖昧なこともあり、他人の感情を自分の中に入れ込むまでに、共感するようなそんな厄介な体質まで開花させてしまうことになった。
結構ネガティブな空気を吸いまくった気がする。しかもそれを何故か私のせいだ…と思うほど内罰的になっていた。加害者思想っていうか。今思えば、色々環境に影響受けすぎって感じだけど、他人事が自分事みたいに感じられて、上手く割り切れない。そのせいで自分の人生が消えかかってくみたいな、そんな感じ。高圧的な人間に良いようにされすぎると、そうなっていくのかな。わからないけど、対人恐怖気味になったように思う。
でも最近になって、ずっと気がかりだったことたちが流れるように解決していってくれたので、やっと今自分の人生を取り戻すことが出来てきている。嬉しい
なんかそういう色々なタイミングが重なりに重なったこともあって、自分のことをポジティブに今一度見つめ直す機会が出来た。そこで「本当に大切なのはありのままの自分じゃない、なりたい自分の方だ」という言葉に出会って、なりたい自分ってなんだろうって、もう一回考えることになったんだけど、
やっぱり強くなりたいな、と思って、でもその思いの根底にある、ナメられたくない、負けたくない、と言う感情は、誰に?となって、すぐ思い直した。
自分の人生に他者は関係ない、そういう前提で再考した結果、
余裕シャクシャクで、ネガティブな空気にも動じないくらい大丈夫な人になりたい、いつも落ち着いた人になりたい、そういう大人になりたい、って思った。
最近までは、「大学生ですか?」と聞かれて、ひゃっほー!と思っていた自分が、年相応になりたいって思想にひょいっと移行する感じのスピード感に我ながらさすがに驚いた。肩の荷が降りると、こんなに早く走れるんやな、初めて知った。
断捨離をするといい、と人に言われて、実行してみると、これまた本当にいいんですよ。とっても気分が晴れた。今思えば、抱えている物が増えたままになっていた。そういう気が滞るようなのって新しい風が入らないってよく言うけど、本当にその通りかもしれないと思った。
しかしネガティブなもの、寄せ付けないに越したことはない。
もうこうりんざい、他人に入り込まれたりしたくないな。私は好奇心の生き物なので、自分の理解が及ばないような人のことを知りたいって思いがちだけど、そういう他人の臓器を直感触するような行為って下品だ、と最近は思う。
あとやっぱり人間の臓器は全然美しくない。普通にグロすぎる。深入りをしすぎるなら、完全に同調しない体質でなきゃいけないなと思った。修行が足りない。
これからはもう理解出来なさそうな人種に飛びつくようなことはないんだろうな、と思う。波長が合うね、ってハッキリ実感できる様な、心から大切にしてくれるから私もそうしたいな、と思うような。そういうのが理想だよなぁ、やっぱり。
もう内臓を直触りした罰を受けて、丸々背負っていかなきゃいけないようなのは、無理だ、身が持たない。
足の爪が割れて、膝の皿が壊れて、腰の骨が砕けて、首が内出血するような、そんな風になってしまったらもう一歩たりとも動けないんだもんな。私はヒーローにも養母にも向いてないってことなのかもしれない。でも別に全然構わない。だってそんなのって全然現実的じゃないし、それこそ私の問題ではなく、当人の問題なのだから。
というか私一人が振り払ったところで、自分でなんとかしようとするでしょって話でもある。無駄な責任感。結局自分勝手な人間の寄木になっても、少し休めば歩いてくような、そんな。もう大人やもんな、大丈夫よね
無慈悲でいたくない、という私の心の柔っこい部分がそうさせるのか、甘いよな色々。美徳とも言うけど、人はそれを「優しいね」と言ってくれる。
優しいってなんだ、結局他人を気遣って、言う通りにして、わがままに付き合ったあげく、踏みつけられることが優しさなら、優しいって損やがな!という気持ちになる。それでも優しくいたいのは、美学ってやつなのか、やっぱり。
優しさが弱さと見なされて、良いように使われたりするのもう見てられないよ、私は。優しい人が報われてくれないなら、嘘じゃんもう、全部嘘だ。
そう思うから、やっぱり優しい人には私だけでも優しくしていたいな。意地悪な人に割く優しさで無駄にならないように。だけどお互いに一個体として、いい距離感で、そうありたい。全部まだ理想論の段階なんだけどもね。
戦争とかコロナとか地震とか。
世の中大変そうだけど、私もずっと大変だったな、人生。比べない前提で。滅びそうに何回でもなった。
でも私は生きてるな
過去を振り返る時、悲しいことより幸せな記憶が鮮明であることを知る。美化される記憶。本当は苦しいことが半分以上だったはずだけど、うまく思い出せない。ただ歴史になる。便利な脳味噌だよな、全く。
そう思うけど、今が過去になった時も同じように思えるって保証にもなってる。そしてその痛みが、たしかに自分の養分にもなってることを知る。変わり続けるなら、傷つき続けるってことが付き物で、でもそうしてでも未来を掴み取りたいんだな、私は。人は。
根気がないとか、逃げとかよく言うけど、私はずっとこの言葉の本質をわからないでいた。
だからずっと耐えていた。ただ我慢を続ければ、佳境に身を落とせば、強くなれるような、そんな風に思ってた。トライアスロンじゃないけど、追い込むことで生を感じる、みたいなそういう反復精神というか。
でも逃げとか根気がないっていうのは、戦わない選択をした時に限って適用される言葉なんだと気づいた。
理不尽や力不足、それらと向き合うこと、人間と向き合う恐怖、選択するときに感じる後戻りできない恐怖、変わろうとするときの漠然とした不安、そういうものと戦っていくことから逃げること、それをそう呼ぶんだなと。
つまりは、我慢する選択すら逃げとも言えるってことなんですよね。ヒェ
戦わなきゃいけない、僕たちは。
それでも疲れた時は休むことも必要なんだな
沢山寝て、美味しいもの食べて、お笑い見て、眠ろう
SNSを定期的に休むこと
これは完全に自衛。人は完璧ではないもの
でも良くなりたいと思って行動し続けることは
戦ってる、と思う
期待しすぎないでちょ、と思う日もあるが
でも感謝してるんだよな、愛ですわ