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好きの反対は嫌いではなく無関心?
「嫌いなのは知らないからか」というnoteを見た。
最近、似たようなことを考えていて、少し気になったのnoteにしてみようと思う。
はじめに
『幽霊の正体見たり枯れ尾花』という句がある。
こわい、こわいと恐れていれば、枯れたススキですら幽霊に見える。
みたいな意味の句。
深く知れば、好きになったりしないかな?
※初の引用記事になります。失礼等ございましたらご指摘ください。
好意と嫌悪と恐怖
『知れば知るほど好きになる』
人は何かにハマるとき、初めから好きだとは限らない。
キッカケがあり、少しずつ理解を深めていき、結果として好きになる。最終的にはアイデンティティそのものにまで昇華されたりもする。
反対に知らないものは怖い。怖がって距離を置いているだけでは、いつまで経っても怖いままで何の変化もない。怖いままずっと過ごすことになる。
好意の増大・恐怖の減少をうながすために“知ること”は大きく寄与するのは間違いないと思う。
では、“嫌悪”はどうなのか。
知れば知るほど嫌悪感が強くなることがある。「自分とは合わない」、「自分には有害だ」……そんな認知が増大する。人間は本能的に嫌悪感に強く反応する。それは自身に害のあるものを識別し、それを避けるためだ。
しかし思うのだけれど、もしも完璧に知ることが可能で、それの扱い方まで把握することができたなら、対象に対する嫌悪は相当に減少するのではないか。と。
つまり、「知る事で嫌悪は減少するのではないか」という事だ。
別のもの(温度)に例える。
温度に例えてみると面白い。
絶対零度という言葉を聞いたことがあるだろう。理論上それ以下の温度は存在しない。何故ならば、温度というものは物質の運動エネルギーそのものだからだ。全ての原子の運動が止まる温度が絶対零度なのだから、それ以下の温度は存在しないのだ。
反対に、高温の方は理論上無限に高まると言われている。
もし、精神がエネルギーだとしたら、好きと嫌いは同質のもので、しかも嫌悪には下限があるのではないだろうか。心の運動が止まる温度があるだけで。
それが無関心。
好きと嫌い。そして無関心。
以上を踏まえた上で、『嫌いなのは知らないからか』と問われると、僕はそうだと思う。
好きは無限に増大する。嫌いには下限がある。
嫌いであるうちは興味の対象であり、温度が高まる可能性がある。
ただ、心の運動が止まったとき……余裕のないとき、どうしようもなく嫌いなとき、人の心は運動を止める。
それが無関心ということ。興味がないということ。
これが【好きの反対は無関心】と言われるゆえんではないのかな?
まとめ
好きな気持ちは無限大。だから、たくさん知れば好きになったりしないかな?
まあ、人生は有限だから、ひとつにそんなに時間をかけてはいられない。好きになる可能性を捨てる必要はあるかもね。
無関心でなければ、また無知からくる嫌悪=恐怖であれば、その“嫌い”は好きになる可能性がある。
人を好きになる可能性は常にある。
人は全てを知り得ないのだから。
興味、好き、嫌い、恐怖、無関心。
だから人は“おもしろい”。
そういう意味で僕は人が好き。
さいごに
初の引用記事、いかがでしたでしょうか?
どのように感じましたか?
ただの書き殴りですが。
皆様も、記事の内容に興味があれば是非とも引用してみてください。Xでも構いません。
考えながら書くのも面白いね。
機会があればまた。
追伸:気が向いたら他の記事も読んでみてください♬
ほぼ無料エリアなので普通に読めますよ。詩ばかりですが。笑
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