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「君たちはどう生きるか」感想、今の日本に対して思うこと

祇園祭が開催された三連休の京都は、信じられない暑さだった。最高気温は37°を超え、映画館に行く途中に上裸で歩く少年を見かけた。

そんな7月、うだるような暑さの午後に、宮崎駿監督最新作の「君たちはどう生きるか」を観に行った。
私が観た回は満席。
7年もの歳月をかけて制作され、宮崎駿が引退宣言を撤回してまで世の中に届けたかった作品を、今から観ることが出来るのだ。
そんな大きな興奮にひとたび包まれると、予告編の時間はとてもじれったくなる。薄暗い館内の座席に身を沈めて、本編が始まるのを今か今かと待ちわびた。

【※この記事はネタバレを含みますので、ご注意ください。】 

映画は、空襲のサイレンが響き渡る、真っ暗い画面からはじまる。
紛れもないジブリのタッチの、ジブリの顔つきをした、でも今まで見たことのない、新しい主人公が眠りからハッと目を覚ました瞬間、鳥肌が立った。

思えば、大人になって、ジブリの新作を観るのは初めてだ。
ジブリ作品は殆どDVDや金曜ロードショーでしか観たことがなかったし、「崖の上のポニョ」以降は家族で劇場に観に行ったけれど、どの時も私はまだ小学生だった。
背の高い草の中に、太ももまで埋まりながらかき分けて進む描写や、花々の散らばる草原や、3等身くらいの目が大きいおばあちゃんたち。
過去作品でたくさん観てきた紛れもないジブリの画を、新しいキャラクターが動いて喋っている様子を、いま大学生の自分が見ているのだと感じるたび、その事実に静かに心震えた。

感想 兼 解釈として、具体的なテーマごとに、心動かされた場面を論じていく。

テーマ①親子という関係

夏子

眞人は、ずっと母親の代わりに来た夏子さんのことをうまく受け入れられていなかったと思う。僕のお母さんはお母さんしかいないのに、お父さんはお母さんに物凄く似た新しい女の人を連れてきて、なんと「新しいお母さん」のお腹には赤ちゃんまでいるという。
不満を言えるわけなく、眞人はきゅっと口をむすんでただ耐えている。でも、一人になると、火事で死んでしまったお母さんの夢を見て、涙を流したりする。

下の世界に行ったあとも、登場人物たちの「夏子はだあれ?」「妹?お母さん?」といった問いかけに「ううん、僕のお母さんは死んじゃったんだ。」「夏子は、お父さんの好きな人なんだ」と答える眞人。
夏子さんなんかいらない、僕のお母さんを返してってずっと思っているはずなのに、一方ではお父さんが好きな夏子さんのことを連れて帰らなきゃって固く決意もしていて、うっすい感想だけど「眞人偉いな……」とひたすら思っていた。アオサギというあんな気持ち悪い得体のしれない鳥に出会ってからも、ずっと、眞人はたくましくて強かった。

眞人がお母さんに会いたいことは痛いほどわかっていたけど、産屋で夏子さんのことを「夏子お母さん」と呼んだとき、「夏子さんはお母さんだから一緒に帰るんだ」と決意して言い放ったとき、夏子さんは本当にうれしかったと思う。この時二人は本当に親子になったように感じた。

父親の不器用な愛


また、眞人の父親は非常に愛すべきキャラクターだと思った。
眞人が大怪我をしたという連絡を受けて帰ってきた日の焦りっぷり、息子の意思に反して「必ず敵を討ってやるからな」と息巻く暴走気味なところ。
夏子に対しても同様で、彼の行動の節々から二人への愛が紛れもないものだと痛いほどわかる。
数々の場面から、工場が成功をおさめ、眞人の父親は社会的に裕福な立場にあることが読み取れる。部下に堂々と指示を出し、権威や富を手にして尊敬を集める優秀なひとなのだろうけど、父親としては、まっすぐ妻と息子を愛する、まさに眞人の父親だと納得できるような、チャーミングな人物として描かれていると感じた。
(ハウルが大好きな私は、新しくもあり、弱い魔法使いの王子様と通ずるところも持つ父親を木村拓哉が演じていることに感動しました。)


久子、そしてヒミ 

物語の序盤、塔へ向かう眞人は、桐子さんに対して「お母さんがまだ生きているというんだ。だから僕は確かめに行かなきゃ」と言う。
「罠だよ」と止めるばあやに「わかってる」と返す。
わかってても確かめずにはいられないところに眞人の幼さとまっすぐさが垣間見えてほっとするが、アオサギが見せた(罠の)お母さんの像に、大粒の涙をながす眞人の切実な思いには、深く心揺さぶられる。

物語の終盤、もう一つの世界が崩壊し、急いで塔から脱出せねばならなくなったとき、別々のドアから出ようとするヒミと眞人のシーンもとても印象的だ。
「でもそっちから出たら火事で死んじゃう」と止める眞人に、ヒミは「私、火には強いもの」「いいの、眞人さんを産めるなんて素敵」と明るい声で返す。
物語の前半で、つわりに苦しむ夏子にお見舞いにいった眞人にばあやの一人が「眞人さんのときも、久子さんは大変でしたよ」と懐かしげに、そして穏やかに伝えたシーンがあった。
そのときも泣いてしまったけど、この映画のテーマの一つである親子愛は、ずっとあけすけにされているものではなくて、こうした何かのタイミングでぽろっとでてきてすごい威力を発揮する。
周りのばあやたちや、桐子もヒミもアオサギも大叔父さんも同じで、眞人の周りに、眞人に対して本当の意味で悪意を持った存在がいなかったことがこの映画の救いだった。みな眞人の成長を見守り支えていた。
眞人はこれから反抗期も経験していくだろうけど、きっと立派な大人になるだろうと思う。

テーマ②生命とは、生きるとは何か

ワラワラはどうして必要だったのか

また、ワラワラは、単にもののけ姫のコダマに類似したキャラクターではない。物語でとても重要な役割を果たしている。

眞人は月の出た夜、ワラワラが空へ昇ってゆくのを見る。そして、「いっぱい食べさせてやれてよかった」と涙ぐむ様子から、桐子さんがこれまでずっと、ワラワラに栄養を与え、世話をして、これから生まれる赤ちゃんを上の世界に送り出していたと知る。
どうやって自分が生まれたのか、そしてこれから生まれる自分の弟か妹がどんな世界を通ってくるのか、つまりは命の尊さを知ったから、眞人は自分の生とも向き合って、元の世界で生きることを決心できたのではないか?

悪意と生きていくこと―宮崎駿が世界に伝えたかったこと

冒頭で、眞人が石で自分の頭を殴ったのはなぜだろう?とずっと考えていた。
お父さんの気を惹きたかったのか、ただ自分の中の感情を処理しきれなくてむしゃくしゃしていたのか。
でも、物語の最後で、その行為がとても重要な意味を持っていたことに気づいた。

真っ白い石を渡され、「これで君の望む悪意のない純粋な世界を作ればよい」と言われても、眞人はそれを受け取らない。
頭の傷を見せて、「この傷が、僕の悪意の印です」と宣言する。
眞人は自分のなかにある悪意を認めて、目をそらさずに対峙し、
悪意は消せないし自分のなかにもあるけど、そんな世界で自分は夏子お母さんと生きていくんだ、という決意をする。
ここに眞人の成長と、宮崎駿の結論が表れているといえる。

宮崎駿は、たくさんの映画をつくりながら、世界に存在するあらゆる悪意・あらゆる不条理をどうしたら克服できるのか模索してきた。
その末に、どんなに平和を望む人の中にも小さな悪意はあり、それを飲み込みながら、抱えながら支え合って生きていくしかないのだ、という結論にたどり着いたのではないだろうか。
自分の映画では世界は変えられなかった、悪意は消えない、しかし間違いなく世界は尊い物語と人々の善意であふれている。
そのことを最後に宮崎駿は伝えたかったのではないかと解釈した。

ネットの態度への疑問:日本人はいつから品性を手放したのか

インコはTwitterユーザーのメタファーである、という仮説

なんとなく、最近の日本は荒んでいるという印象を抱いている人は多いと思う。政治は腐敗し、猟奇的な事件が頻発し、誹謗中傷で人が死ぬ、やるせない時代。

私は、インコたちがTwitterをはじめとするソーシャルメディアのユーザーではないかと考えます。人々がつながり、世界が活気づくのではないかという期待のもとにリリースされたSNSの数々が、結果的に現実の世界を圧迫する脅威となる。
インコたちが迷い込んだ人間の肉をシチューにして食べたように、一定数の日本国民は、目を光らせて見つけたおいしそうな対象を狩っては、大勢で噛みつき、炎上を起こし、気が済むまで食い散らす。そうして憂さ晴らしをして、無感情な顔で朝出かけていく。

世界はパソコンの中もスマホの中にもない。けれど、いま、どれだけ多くの人が、自分はインターネットからは独立して、現実の手触りを確かめながら目の前の世界で生きている、と自信を持って言えるだろうか。
インターネットの世界を生きるために現実の世界を生きるひともいるのだ。

このように、インコたちには、有象無象の個人が集まってピーチクパーチク喋りやまず、秩序が崩壊したネット社会と類似した構造を見て取ることも出来る。

言葉の重みは、簡単になくなってしまう

また、最後に問題提議として、「君たちはどう生きるか」というタイトルをネット上の人々が嘲笑道具に使っている状況について皆さんの意見を伺いたいと思う。
鑑賞後、感想が気になってTwitterで調べたら、ニュースやコメントを引用して「君たちはどう生きるか」、というコメントだけ付け加えるようなツイートがたくさん出てきて、気分が悪くなってアプリを閉じた。
これに嫌悪を感じてしまうのは、私が「誰かにとっての特別な言葉を不特定多数の目に触れる場所で大喜利や嘲笑に使ってしまう」ネットの態度に納得がいかないからである。

既に述べたように、この作品は、引退宣言を何度も繰り返した宮崎駿が「やはりまだ世の中に伝えたいことがある」と引退を撤回して、7年という長い製作期間を経てようやく世の中に送り出された作品であり、
製作ペースやその他の変化要因を考慮したとしても、映画に関わる人々が並々ならぬ情熱とともに取り組んできたことは容易に予想できる
(過去のジブリ作品のなかで最も長い製作期間は、もののけ姫の3年)。

そして、この作品のタイトルは、宮崎駿自身が影響を受けた本から借りたような、思い入れのあるタイトルで、多くの人の特別な思いと魂が詰まっている。作品に関わった人や作品を愛する人のなかには、タイトルがそうした使われ方をしていることに心を傷める人がいると思うのだ。

言葉が独立して存在しているのではなくて、その時々の社会によって、使う人々によって言葉の重みは変わってゆく。その言葉をどんな場でどんな文脈で用いるのかについて、いまもなお再生産され続ける言葉の使い手として、もっと芸術の作り手に敬意や配慮をもっていてほしかった。

いつから日本人は他者および他者が心をこめて生み出したものへの最低限の敬意、配慮といったマナーを失ったのだろうか。
ネタにするということを常套手段として覚え、嘲りという薄っぺらい感情でしかつながれない人々が、たとえこの映画を観たとしても響くわけもない。と納得してしまった。
真の意味で、国民の民度がどんどん下がっている、品性が失われていると感じるのは気のせいだろうか。

時代を問わず、そうした品性を持たない人は存在したかもしれないが、誰でも見れる場で発信することの責任と倫理的態度をわきまえない人が目立つと感じるし、SNS上での誹謗中傷の問題の構造もこれに近い。だから、これは紛れもなく現代の課題である。

おわりに


私は、タイトルとなった吉野源三郎著の小説を読んだことがあるが、こちらもすばらしく胸を打つ物語だったので、未読の方にはおすすめする。
私は高校生の時におばあちゃんから渡されたのだけど、映画のなかで久子お母さんが大人になった眞人にこの物語を読んでほしいと思っていたことを、とても尊く感じた。
心に残っている言葉に、「いつでも、自分の人間としての真の値打ちに目を向けながら生きていきなさい」というコペル君の父親の言葉がある。
「君たちはどう生きるか」という小説と、スタジオジブリが届けてくれたこの物語から、私たちは何を学び、生きていけるだろうか。

すぐさまネットでつぶやいて、感想や批評を共有するのもいいけれど、何かを得ようと前向きに対峙して、一人でじっくり考えてみる時間も必要なのではないか。

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自分がこの文字数の文章を書けたことに驚愕していますが、
総じて、語りたくなる魅力を持つ、素晴らしい映画でした。観て本当に良かったです。

皆さまの感想もぜひお聞かせください。
読んでくだりありがとうございました🦜


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