そのときの風の
(エッセイ)
文学部の文芸誌に寄稿したエッセイに加筆修正をしたものです。
長い夏休みの最後の方をパリで過ごした。
その期間に知り合ったある人の話をしようと思う。その人はこれからファッションデザインの修士課程に入学するという中国人で、初めて二人で会う日、待ち合わせ場所にYOHJI YAMAMOTOの黒いシャツを着て現れた。背が高く、形のいいシャツと形のいいパンツを履いた、とてもかっこいい感じの人だった。私が「母が中国人なのでいくらか中国語を話せる」ということを英語で伝えると、なんと彼も母と同じ都市の出身だった。辛い食べ物で有名な場所である。「じゃあ辛いのは得意?」と聞かれて私が「全然」と答えると、彼はとても愉快そうに笑った。私は、中国というあんなにも大きな国のなかで母の故郷にしか行ったことがないけど、唯一知っている風景がその人にとっても特別なものだったという偶然は二人の心の緊張を一気にほどいた気がした。
その日は八月も終わりのよく晴れた日で、パリ市内を見下ろせるLe Ballon de Parisという気球のようなものに乗りに行こうと誘ってくれたのだった。水がよく輝く、良い午後だった。チケットオフィスの前に並びながら、初めて会ったときに特有のすこしぎこちない質問と回答を重ねた。その人は北京の大学でデザインについて学んだあと、シカゴのファッションの学校に行き、そしてパリにやってきたとのことだった。お互いのことについて話していた合間にふと彼の方を見ると、左耳の下から首筋にかけて青い文字で「風の歌を聴け」とタトゥーが入っていた。まさか首筋に日本語のタトゥー(それも小説のタイトル)が入っているなんて思わないので、私はとてもびっくりして、「村上春樹好きなの?」と尋ねた。「うん」と彼は短く答え、私たちは一通り「村上春樹はとても人気だよね」という話をして会話はそこで終わった。
気球はよく揺れて少し怖かったが、高いところまでのぼると安定し、なにより上空は心地よい涼しさだった。私たちは黙りながら、平日の真昼の、すこし間延びしたパリの街を見下ろした。気球の内側から元いた場所を見下ろすと足がすくむ怖さだったが、まっすぐ遠くを見やるとエッフェル塔が見え、もっと遠くには、オスマンの街並みの向こうに高層ビル群が見えた。
(暮らしてどのくらい経てば、街が見せる顔もよそよそしくなくなるのだろう。)
例え国内であっても、旅行者としてどこかを訪ねるといつも不思議な気持ちになる。
風が強く、ごうごうとした強い風の音だけが耳の中で響いていた。
****
気球に乗ったあとで、夕方にポンピドゥーセンターを訪ねた。回廊を歩きながら、私はパソコンのなかや本でしか見たことのなかった作品が次から次へと出てくることに静かに感動していた。ほとんどの絵は、想像しているよりずっと大きく、その分力強かった。
シャガールの展示室で、その人は「なんだか夢のなかにいるみたいだ」と言った。
確かに、それ( Les Mariés de la Tour Effel, 1938-39)は真夜中に見る夢のようだった。絵のなかの恋人たちも鶏も天使も、みな読みとりづらい表情をしているように見えた。それなのに、その目の奥や、キャンバスを埋め尽くす青色のなかには愛や温度が感じられるのが不思議で、私は心の手で作品に触れながらそのことをただただ黙って受け止めていた。
しばらく絵を鑑賞して展示室のソファで休んでいた時にまた村上春樹の話になり、彼は『風の歌を聴け』について、ぽつぽつと話し出した。私と彼は実際は英語で話していたから、彼の話していたことをそのまま伝えられないのがもどかしいけれど、お互い母国語ではない英語で、その人はとても丁寧に理由を伝えてくれた。
私は村上春樹の作品を少なくはない数読んでいたけど、デビュー作はまだ読んでいなかった(初期三部作を読む前に『ダンス・ダンス・ダンス』を読み、「めちゃくちゃよかった」と村上春樹が好きな友人に伝えたら遠慮がちに「それ読む順番間違ってるよ」と言われたままだった)。
このとき彼が語ったdepressedという状態が、一体、医学的なうつ状態だったのか、それとも単に調子が悪い時期があったということなのかはわからないけど、とにかくその痛みを『風の歌を聴け』が癒したという事実が私のなかとても強く刻まれて、日が経たないうちにパリにあるジュンク堂に本を探しに行くことにした。
新潮社文庫の棚の前で一分間探したあと、裏側に回って講談社文庫のコーナーに私は無事それを見つけた。レジまで持っていって値段を尋ねると値段の換金表を渡されたので、550円の欄を見ると販売価格は10€だった。日本円に換算すると気が遠くなり、絶対に出したくない金額だったが、今読みたいという気持ちも強かったので、1600円を10€に換算し直し、コーヒーを2回我慢して買うことに決めた。
『風の歌を聴け』は160ページしかないとても短い作品だったが、私はそれを休憩をはさみながら四時間かけて読んだ。時々、裏面のあらすじを読み返してはその素晴らしさに一人でとても満足した。
『風の歌を聴け』は、29歳の僕が海辺の夏で過ごした21歳の夏の思い出を書き残した物語だった。例に漏れず、登場した女の子はみな魅力的に描かれていた。村上春樹の作品に登場する女の子たちの引力は強く、私はいつも彼女たちにとても惹きつけられる。
そして、読み終えたあと、カリフォルニア・ガールズをかけながら、その人が何年か前に中国語に訳された『風の歌を聴け』を読み、癒されていったときのことを想像した。私は小学生のとき六年間中国語を習っていた。ゆえに、小学生までの語彙しか知らないのだけれど、中国語は文章にしたときに特に美しくなる言語である。
本当のことをいうと、読んでいるあいだ、私は、自分がもう二か月前までの、21歳ではないことを意識せずにはいられなかった。その苦みなのかも分からないものは、短い断章の合間ごとに、舌のうえに少しずつ染み出してくるようだった。小説のなかで、ラジオNEBのDJが僕に「それは素敵な年齢だ」と伝えたように、私は21歳でいるあいだ、それをけっこう素敵な年齢だと思っていた。なんとなく20歳より好きだったし、これまで読んできた小説の、21歳の登場人物たちがとても好きだったからだ。
別に、ある日を境に歳を跨いだからって、何が変わるわけでもない。わかっている。それにまだ、来年までは『スプートニクの恋人』のすみれの、22歳の春が残っているじゃないか、なんて考えたりする。それがけっこう危ない考えだとわかっていても、私は昔から、自分が読んだり観てきりしてきた作品の主人公の年齢に、自分を重ねてしまうくせがある。
****
かつての親友は、私たちがとても仲良かった頃、「私、ほんとうは二十歳になる前に死のうと思ってたんだよね」と言った。
「そしたら永遠に若いままでいられるから」
特に上手い返しが出来なかったことはよく覚えている。とりあえず今はそう思ってなくてよかった、と思ったことも。
確か、私が六月に20歳になり、九月に彼女も20歳になるという夏だった。その前の数カ月間、私は19歳のうちにPOPEYEの『二十歳のとき、何をしていたか?』を読み終えようと必死だった (しかも読み終わらなかった) 。初めてビーチ・ボーイズのSound Of Summerのアルバムに入ったカリフォルニア・ガールズを聴いたのも、その分厚いムック本を読みながらだった。色々な有名人が二十歳だったときに何をしていたのか、私はあの時期、今知らないといけないと思っていた。周りの友人が年齢確認におびえる必要がなくなると喜ぶ一方で、なぜか私は焦っていた。それは親友も同じで、彼女は、永遠に十代で無くなることに対して私以上に怯えていたと思う。私たちは、お互いのそういう気持ちを共有できる数少ない友人だった。
自分たちが何のために読んでいて将来何になるのかふたりとも分からなかったし、今やるべきことからは二人とも目を背けていて、だから仲良くなれたのだと思う。「大人になりたくない」と口にしてしまう代わりに、二人でよく夜の今出川通を叫びながら歩いた。
でもお互い20歳になり、21歳になる前に関係は遠くなってしまった。彼女の部屋の、天井まである本棚と、その一面に本が並んだ光景を今でも覚えている。思うに彼女はかなり裕福な家庭の出身だったのだが、私は彼女があんなに本を躊躇いなく買えることがうらやましかった。私が話の合間に本棚に目をやると彼女はいつも「あまり見ないで」と恥ずかしそうに止めてきたが、私はどうしても気になって、よくちらちらと視線を投げてしまった。知らない本を見つけるたびに「覚えておこう」と思ったものだが、殆どのタイトルはそれっきり忘れてしまった。私たちはこれからもっともっと歳を重ねていくけど、彼女はいまどんなことを考えているのだろうか。今も森見的黒髪の乙女になりたいと思っているだろうか。話が逸れてしまったけど、とにかく彼女がいま元気で、将来を楽しみに思えていたらいい、と本気で思う。
****
「シカゴは寒かった?」
「わからない。冬が来る前に僕はもうドロップしていたから。でも友達からは本当に寒いと聞いたよ」
ポンピドゥーセンターのテラスでは、西日のなかそれぞれが思い思いに時間を過ごしている。遠くに小さく見えるサクレ・クール寺院を眺めていると、心がとても静かになっていくのがわかった。その場所には、私の好きな言葉がある。四月に初めてパリに行ったとき、バジリスクの前に旗になって掛けられていたのを思わず書きとめた。
アメリカの学校は夏開講だから、冬になる前にアメリカを去ったということは、想像するに彼がそこにいた時間はきっとあまり長くはなかったはずだ。短い夏と秋の間に、どんなことを考えていたのだろう。
「どうしてシカゴが気に入らなかったの?」
「何もなかったから。」
大都市なんだからそんなわけないだろう、と心のなかで思ったが、彼は言った。
「例えば、LAには美しいビーチがあるだろう。そしてNYには見るものがそれはもうたくさんある。シカゴは本当に大きいビルが沢山あったけど、ただ大きいビル群があるだけなんだ。それと、とても大きな湖があるだけ。ミシガン湖って知ってる?知ってるね。それは、向こう側が決して見えないほど大きく、まるで海のような湖なんだ。船も通るし、人工のビーチもあった。けれど、とにかくそこにいる間じゅう僕はいつも実家のことを想っていた。帰りたかったんだ。」
その人は、首の後ろと左の腕にもまっすぐ細い線のタトゥーが入っていて、私が「どうしてタトゥーはすべて左側に入っているの? 」と訊くと、「それは、ある程度はブランクな場所を残すべきだと思うからだ」と彼は答えた。だからピアスの穴だって、左側にしか開けていないんだ。もし僕が倒れたとして、右側から助けてくれた人は、僕がごく普通の人だと思うだろう。だけど、体をひっくりかえしたら左側はこんなんだから、驚くだろうね。そう言って、少し自虐的な笑い方をした。
そのとき、私は留学を始めてから半年が経っていて、留学先の大学に受けたい授業は沢山あるけれど、街が退屈に思えてしまうことが悩みだった。贅沢だと分かっていても、どうやら私は、平和で中立的なコスモポリタンシティよりも、ちょっと危ないロマンティックメトロポリスに惹かれるらしかった。
出発前、ジュネーブは私の性格に合っていると周りの人は言った。ある友人は、私が危なっかしいのでこれがもしパリやったら心配やわ、と言った。ジュネーブは街中が清潔で、安全で暮らしやすく、なによりとても美しい山と湖があった。きれいに整えられた自然が都市の中に共存していることが、この街の良いところだった。実際、周りの日本人留学生は皆その街をよく気に入っていて、そのことがなおさら自分に罪悪感のようなものをおぼえさせた。三月や四月になっても寒くて長い冬が続いて、私は部屋に籠りがちになった。それは本当にこたえたが、五月になってようやく春らしきものが来ると、晴れの日は毎日湖に通った。海のように広く、ひどく穏やかで、怖いくらいに澄んでいるその湖の写真を、私は「一人で見ているのが勿体ないから」といって日々色んな友人に送り付けた。それは、どんな苦みも溶けて流れていくような透き通った水で満たされていて、それを眺めながら私は「まあ生きていさえすればいいか」と思った。そんなことを思ったのは人生で初めてだった。
穏やかな水面の揺れとかすかな風はただ繰り返され、私は湖が、どうしても海と違うことを知った(色や波や、光り方なんかで)。そのときの風を捉えたくて、私は動画を何本も撮って、そしてまた友人に送った。
街について考えるようになって初めて自覚したことだが、たぶん、私は京都という地名に与えられてきた情緒的価値を含めてこれまで京都を好いてきたのだろう。だから京都について語られた雑誌や物語に触れる度に、そこに歴史や文学によって長年蓄積されてきた特別な価値のようなものにかすかに満足してきたのだと思う。それ自体は決して悪いことじゃないけれど、その裏にある透明な他のまちのことはあまり考えてこなかったことに気付いたのだった。
時折、自分がたぶん大都市以外では生きていけないということや、周りの人に多分こう思われているのだろう、ということに嫌気がさす。小説のなかで登場人物たちがいかした会話をするときは大抵海辺にいるか酒を飲んでいるか煙草を吸っていることに気が付いた時や、物語のなかで主人公がセントラルパークをふらつき始めた時なんかも同じ気持ちになる。しびれる会話や、クリスマス前のニューヨークにうっとりするのとほとんど同時にfuck,とも思ってしまうのだ。これが一体何に対してのfuckなのか説明するのは難しい。限られた人だけが享受できる特権的なものに対する虚しさのようなものだと思う。自分がそれに憧れずにはいられないことも、憧れてもそれを絶対に得られない人が存在することも含めて。
だから、『風の歌を聴け』の鼠の、金持ちに対するやり場のない憎しみにも共感した。
とにかく、結局なにが言いたいかというと、私はその人がシカゴを気に入らなくて大学院をドロップした気持ちが少しわかる気がした。ある人はそれを贅沢だと言うかもしれないし、ある人はそれを勇気があると言うかもしれない。本人にとってそれは、合わなかったという単純な事実でしかないのだろうけど、夢を持つその人はとても強く見えた。たぶんシカゴや小説の話を聞いた後だから、そのときの痛みの気配が彼をいっそう美しく見せていたのだろう。
****
ポンピドゥーセンターに行った数日後に、その人とパラリンピックの開会式を見に行った。二十時にやっと開会式が始まったときには、無料入場の列に並び始めてから既に四時間弱が経っていて、それはとても長い半日だった。オープニングが終わると世界各国の選手団入場が始まり、長い162か国の選手入場に、一時間ほど経つとお互いがかなり疲れて果てているのがわかった。黙りがちになりながら、私たちは目の前を通る入場前の選手団と、中継モニターを交互に眺めた。黙りがちになりながら、私たちは目の前を通る入場前の選手団と、中継モニターを交互に眺めた。名前を聞いたことがあったかも分からない国がいくつもあって、私は世界を全然知らないのだということを、改めて実感した。選手の人はみな、とても晴れやかな笑顔で行進していて、その笑顔は見る人をとても明るい気持ちにさせた。
そうしていよいよ日も暮れ、あたりも涼み始めたそのとき、凱旋門に落ちる火の玉のような夕陽と、ライトアップされたエッフェル塔がモニターに映った。そこには私たちがいるシャンゼリゼ通りも映っていた。それは、咄嗟に声には出ない、黙って眺めていたい種の美しさで、私は「ほんとうに遠くまで来ちゃったな」と思いながら、何年も夢みた場所に今自分がいるという事実に心から感謝した。
夏の終わりの生ぬるい空気と、夜の入り口の冷気と、人々の興奮が複雑にまじりあった風。大きい喧騒のなか、その人は私に顔を近づけ「I think I love Paris」と言って、そして目を見て悪戯ぽく笑った。
そのとき彼が感じていただろう喜びは、私にもとてもよく伝染した。人々の話し声、中継モニターから流れる音声。途切れ途切れに意味の塊になっては届いていた周囲の音全てが、文字通りただのノイズになり、そして止んだかのように思えた一瞬だった。