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HelloデジオStupidity Vol01 (マダガスカル&モーリシャス島 2004年12月録音)

マダガスカル&モーリシャス島に業務で出張した折に、2004年当時は最先端だったiPod外付けマイクで録音したひとりごとのファイルを公開します。

こちらをクリックしてください
https://www.mixcloud.com/taroyutani/helloradiostupidity/

HelloDedioStupidity Vol01 (Mauritius, Madagascar, December 2004)

解説


漫画家タナカカツキさまのデジオナイトという独り言をMP3で投稿する先行コンテンツにならって。2004年12月の年末から新年にかけて、伊藤ガビンさまのはからいで開放されていたサーバーをお借りして、HelloデジオStupidityのタイトルで、当時、流行だったはてなダイヤリーのサブコンテンツとして断片的に音声を公開していました。

ときどき読み返して整理する文章や見直す写真と異なり、独り言の音声ファイルは、気恥ずかしさもあって、ほとんど作りっぱなし投稿しっぱなし。
やがてサーバーのデータも消滅……。

熱しやすく冷めやすい自分の性格もあり、内容もあまり覚えてなかったのですが。HDDに残されていたデータを聞き直すと、個人的な発見もあり、時代の記録になっている部分もあり……。
今がなんとなくよいタイミングに感じて再公開します。

初期のiPod外付けマイク録音は、音質が悪いだけでなく、定期的にHDDのドライブが動く音が録音されてしまうという致命的な欠陥があり、時々、キューンという音がはいるのですが。
それが2004年に刻印された時代の情緒にも思えて……。
ただの、独り言なんですが。

もしお時間を持て余しいる奇特な方がいらっしゃいましたら、お聴きください。

以下はオリジナルファイル公開日付と、自分が添えた詩や文章の抜粋です。

2004-12-24 詩人とは何か?

モーリシャス島の民家に生えていたバナナの葉


 どうもどうも。
 どうもたいへんです。
 やっぱりたいへんです。
 ここ数日間、詩人になってみました。

 具体的には
 1・景色や言葉や物事を「詩人」として受け止めてみる。
 2・寝る前や乗り物の移動時間などに詩や散文をメモる。
 3・書いた詩や散文を、iPodボイスメモに録音。
 という活動をしています。

 そして判明したのは
 1・詩人は職業ではない。
 2・詩人はある精神の状態である。
 3・詩人になると涙もろくなる。
 4・詩人はエロい。
 5・詩人は彼岸であり善であり悪である。
 6・詩人は模倣する(なっちはその意味において十分に詩人である)。
 7・詩人はキ×ガイと限りなく隣接する。
 8・詩作は芸術ではなく、ショービジネスである(でありたい)。
 9・自ら「詩人」であると名乗るのは恥ずかしい(かなり激しく)。
 10・詩人になるとコーヒーと酒の消費量が多くなる。
 11・詩人は傲慢である。

 ということ。

 またこれは未確認情報ですが、各種地霊や亡霊などとのコンタクトも報告されています。
 どうなんでしょうか?

マダガスカルのビールラベルより。

2004-12-25 よこたわる

 マダガスカルの首都、アンタナリブから南の山岳地方をドライブしている最中、なぜか目についたのは、大地や地面によこたわっている人々。
 少年少女やおじさん、おばさん。乗り合い自動車(タクシィ・ブルス)を待ちながら、トマトやニンジン、焼トウモロコシ、果実などの農作物やアヒル、ニワトリなどの家禽、空き缶で作った飛行機や自動車などの玩具などを路上販売しながら、あるいはなにをするわけでもなく、路肩の草むらなどによこたわっている。さすがに適齢期の若い女性はいながったが、かなり普通に見受けられた。

 いきている人が、大地によこたわる
 人のいきは草いきれと、ジャリにまみれて
 いきている人が、大地と会話する
 まるで恋人達がささやきでおもいを交差するように
 死者がとこしえの安らぎに安堵したため息のように
 いきながら、土のうえに、やわらかな湿度をかんじながら
 いきている人が、大地によこたわる

 突然、突風が吹き、15m先の道路も見えなくなるような豪雨に包まれた直後、いきなり青空があらわれ、差すような太陽光線が照りつける、雨期の大地に、よこたわる人々。

 マダガスカルの最初の強い印象は、米を添えた地ウサギやザリガニの煮込み料理ではなく、赤い大地に広がる水田でもなく、まず完全に受動的な彼らの姿をとって現れた。

写真はマダガスカルの2000Ariary紙幣。
棚田の水田風景と煉瓦作りの農家が国の象徴的な図像。

2004-12-26 アスファルト


 かつてフランスで学生運動盛んな頃、パリの道路の敷石について「めくってしまえば、道路は砂浜にもどる」というメッセージがあった。
 東京のアスファルトだって、ひっぺはがせば、赤土や古い湿原の記憶をもった大地が現れる。
 もちろん現実の自分は、自動車大好き、アスファルト大好き、泥道未舗装路はダメぜったい勘弁してくださいよ〜というアーバン現代文明大好き人間であるが、なんとなく、時々、アスファルトやコンクリートの建物をブチ壊して、古い土壌を見てみたいというプチ・ラッタイド(反産業革命・反機械的思想)な欲求が時々起きる。
 また、いろいろな場所で、廃墟になって緑につつまれた未来の風土や、あるいは人間が自然に手を下す前、数億年前〜数十年前の土地の姿、風景について、イメージを喚起する瞑想をしてしまう。
 なぜだろう?

 眠った土地を叩き起こせ
 叩け、殴れ、叩け、殴れ
 地面の声に耳をかたむけて
 アスファルトをめくれ
 身震いして、アスファルトをめくれ
 眠っていた地面の声に、耳をすまして
 ただ記憶する、いきづかいに
 ただ感じる者として
 草花の種は眠らずに時を待っていた
 落ちていくスピードを見守るふりをしながら
 クラックをひろげて
 身震いし、アスファルトをめくれ
 眠った土地を叩き起こせ
 掘れ、叩け、砕け、叫べ
 ただ一人、感じる者として
 地中の王に会いに行くために


2004-12-27 Rainy Day Woman


 まるで作りっぱなしで放り出された聖地のように、丸い巨大な岩が殺伐とゴロゴロしていた。

 おそらく、数百年前までは緑の山脈に広がるジャングルだったのだろう。それが、現在も絶え間なく続く焼き畑と、水田への開拓、森林の木材をつかった建材への転用や焼き煉瓦作りに森は伐採され、森に隠されていた岩岩が地表に露出したらしい。

 もちろん、人間の営みに善悪もなく、ただ今となっては、偶然に支配された歴史的な必然性の積み重ねがこのような風景を生んでいる。ただ、これらの岩々が織りなす不思議な風景は、人間を拒絶し対立するものとして屹立しているようだった。

 助手席に座らせてもらっていた自分は、運転手に遠慮してなるだけ目を覚ましている努力をしていたが、夕暮れ時、空腹を覚えて昼食のデザートの残りのバナナを食べると、ふわふわと意識はどこか空中に飛んで、とある山の頂上にある大きな岩塊にインタビューしていた。
 「はじめまして。いつからストーンしていますか?」と。


 岩は、自らが、岩であることを
 忘れてしまうほど
 岩だったから
 自ら、何かを、話しかけることもなく
 待っている
 何を?
 永遠の終わりに
 吹く風のことを
 聞くこともなく
 眠っている
 力を
 よびさますこともなく
 ただ
 受け身でありつづけた
 この数億年間の営みが
 永遠ではなく
 必然と偶然が、幾重にも重なって
 結晶化したものにすぎないと・・・。
(見届けた語り手は部屋の灯りをパチンと消しドアを閉じた)


 ふと、気がつくと、目の前は闇につつまれ、遠くに野焼きの炎が赤くゆれていた。

悪天候・悪路をひたすら走破。食堂ではノウサギのソテーを食べた。
目的地まで、あと3時間。ドライブを続けなくてはならない。

2004-12-28 Rainy Day Woman #12 & 35

カメラとフィルムだけは手持ちで守った記憶がある。

 まるで雲の中を進んでいるようだ。往路と同じ、あるいは降りしきる雨のため、もっと厳しい状況の帰り道。自分はどこにいるのだろう。まるで白い闇の中をさまよっているようだ。
 視界を失い、日常から切り離された意識は、脈絡のない心をあそばせながら、霧に灰色に染まる景色を眺め続ける。

 うまれつき
 神話を失っている
 私たち
 雨は生理現象として
 無慈悲に降り注ぐ
 天のおしっこ
 ふきだまり
 雲の中を通り抜け
 おおきなものの
 ふところに抱かれているとも知らず
 おびえ
 醒め
 眠る
 雨の中
 からだ
 冷える
 物語を
 濡らして

 無休で約8時間のドライブ後、首都のホテルに戻り、屋根の上に積んであったトランクを開けると、中の衣類は全て濡れていた。口をきくのもおっくうな程、疲れていた。

ちょっと風邪気味でナーバスになった記憶がある

2005-01-02 匂い

 ときどき、意味もなく、明確な名付けさえした覚えのない「匂い」の記憶に、こころ揺らぐ。発酵する匂い、血の匂い、そして人間の発するの匂い。匂いが気になるのは、嗅覚は説明や理由から一段飛びに、身体の生理反応としてあらわれ、その意味においてもっとも肉体的・直感的であるだからだと思う。
 そして、この散文はいつまでもぶつぶつ続き、いつまでも完成しない。
 なぜならばこれは詩である以前に、ダダダダダッと連射された「ぬけがら感想」であり、個人的な呟きにすぎないから。

 記憶の匂い
 空港の匂い
 港街の匂い
 都市にも村にもそれぞれの匂いがあり
 時差も異国も民族も匂いとして記憶される
 老いにも若さにもそれぞれの匂いがあり
 乳飲み子は甘い匂いを主張する
 ふと風に匂いを感じ
 雨の匂いと混ざった
 土や岩、石の匂いを嗅ぐ
 濡れた草の匂い
 枯れた草の匂い
 湿った熱帯雨林の匂い
 悲しみと欲望の匂いを忘れるために
 酌み交わす酒の種類も匂いである
 紙幣とコインの匂い
 生活とは匂いであり
 キスとは匂いである
 家族や家、それぞれの匂いがあり
 懐かしい匂いがしたり
 匂いを隠したり
 感情的な匂いに包まれたりしながら
 この匂い、なんだっけ?
 市場に残った
 果実が無意味に発酵する匂いを
 トタン屋根の隙間から差す日差しが加速する
 深く闇が香るように
 あらゆる光も匂いとして輝きを放つ
 柔らかい皮膚の芳香に
 血の匂いが混じった
 彼女の匂いと
 私は
 匂いになる
 匂いに
 帰っていく

2005-01-03 天使について

 人間が土地を利用する時、それ以前にその土地に住んでいた天使や精霊との関係をどう構築するかが問題となる。

 時々、かつて名水が湧いた泉があった場所で、現在は水は涸れているのに、いまだに名称や池などが残っている場所がある。森林を開拓して、住宅街などに整備した後、近隣の滝や泉、井戸が涸れるような現象。都市周辺の古い寺社仏閣や神社などでよくあること。そんな場所に訪れて、よどんだ池などを眺めながら、かつて周囲が森につつまれていた頃は、ここがさぞ美しい空間だっただろうと想像していると、不意に天使や精霊の不在を感じる。ここでいう天使は、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などでいう天使ではなく、どちらかというと、土地の精霊を擬人化したもののことをいう。あまり定義として正確ではないが、日本人の意識の中でなんとなくしっくりくる「天使」像は、やはり土地に住まう精霊のことをいうのだろう。

 一部の精霊は、人の存在をひどく嫌う。
 人が干渉すると、消えてしまう。そして、気配だけが残る。

 元旦、近所の神社や寺院の初詣に行くことがあり、あらためて、神道や日本的な仏教思想って、どこかで自然と人間との仲介的な防波堤の役割を果たしているなあ、と思いマスタ。土地の精霊は、悪いこともするし、良いこともする。結局、共存するか、追い出すか。人間の文化は二者択一的な側面があるし、日本の風土は、それなりに荒廃しながらも共存を選択する余裕がある。それはとても幸運なことだ。そういえば昨年の夏、九州宮崎県の高千穂神社の、人の入れない、撮影も禁止されたご神域を訪問した際、土地の人になんども「子供の頃とか、ちょっと入ったりしませんでしたか?」と質問したが、答えてくれなかったなぁ。人が入れない禁断の聖域、聖地は、彼らのような繊細な精霊の、人間が保護したすみかである。そして、そういう方法でしか、共存できない精霊もいる。

 唐突だが、マダガスカルの首都、アンタナナリヴやその周辺の風景に対して一番印象的だったのは、この「精霊」的な何かに対する、なんとも言い難い不在感だった。東京外語大学、深澤秀夫氏の「マダガスカル研究のページ」にアップされている「マダガスカル 過去と現在との対話が織りなす世界」というレポートは、個人的にこの不在感、疑問点にピンポイントで答えてくれた。


「アンタナナリヴの町は17世紀頃までアナラマンガ、すなわち『蒼い森』と呼ばれ、19世紀後半にフランス人神父の手によって編纂された口頭歴史伝承集も、その昔メリナの人びとがアンタナナリヴ平野一帯に進出した当時丘は森に覆われ、低地にはイクパ川などが造り出した氾濫原の沼沢が広がっていたことを語っている。それから200年から300年の間に人間は、森を切り開き家を建て焼き畑を作り炭や薪を取り、沼沢を水田に変えていった。このようにマダガスカルの景観や『目に見えるもの』はしばしば人を誤らせ欺く。そこでは『古い』と見えるものが『新しく』、『新しい』と見えるものが『古く』、今そこにあるものの中で、1500有余年の人の営みの歴史の変遷をくぐり抜けてこなかったものはひとつとしてない」

深澤秀夫マダガスカル研究のページより : http://www.aa.tufs.ac.jp/~nfuka


 もちろん、外国がどうのこうのいえる程、日本の環境や自然保護が優れているわけではないし、自分は個人的にはあくまでも「自分と人間に優しくて、地球に優しい」という優先順位で物事を考えている現実主義者でもある。が、あの殺伐とした風景は、ほんのついここ数百年の間に築かれたものに過ぎないということを知って、やはりなんとも言い難い気持ちにもなる。

 そういえば昔、中上健次原作で柳町光男監督、北大路欣也主演で堤清二社長がパトロンになった「火まつり」という映画があり、山の民の主人公は、人が入っては行けないご神域、聖域で、魚を捕ったり猟をしたり昔の女と情事をしたりする神人としてキャラ設定されていた。最後、自分の家族を殺害した後、自殺するという話だったが、やっぱり自らの血を絶やすぐらいの覚悟がないと、聖域は破れないのかもしれない。と、なんだか話はぜんぜんまとまりません。

画像はバリ島で昔描いた闘鶏の水彩画。2005年は酉年だったんで。

2005-01-05 ことばにとって美とはなにか?

 あ〜。ば〜。ね〜。
 あ〜。ん〜。ぱ〜。ん〜。
 あ〜。ん〜。
 ま〜。
 ん〜。ぱ〜。
 ん〜。
 ま〜。ん〜。
 う〜。み〜。

2005-01-06 宿

 ある場所からある場所へ、移動を続けていくと、もののみえかたがクルクルかわっていく体験をすることがある。とくに旅先では価値の相対性がグラグラゆらぎ続けることが多い。象徴的なのがホテル。東京での快適な生活に慣れた自分は、アジアやアフリカなどを訪問する際、1泊目に宿泊した首都や空港近くのホテルの設備に文句をこぼすが、その後、山岳地帯や農村などを移動してから同じホテルを訪問すると、驚くほど快適でゴージャスに思えることが多い。

 わたしはしっている
 わたしはしりつづけている
 しることをやめたときに
 わたしはうごかなくなる


「ひとことでいおう。生きることとは、知ることなのだ」

ウンベルト・マトゥラーナ&フランシスコ・バレーラ著「知恵の樹」(管啓次郎訳)より。



モーリシャスの商人の家に咲く薔薇

2005-01-07 媒体


 ビデオカメラ、ICレコーダー、デジタルカメラ、記録と伝達を目的とした、いろいろな道具や機械たち。
 これらの道具の限定された機能(音を録音するだけ、動画と音を記録するだけ、瞬間の映像を記録するだけ、などなど)を使って、いろいろなことを伝えようとすると、日常の生身の人間同士では、言語化・意識化しなくてもいいことも伝えたり考えたり必要が起きたりする。
 そのことに、ふとしたおかしさを感じる自分。の発見。

2005-01-08 踊り

ダンスダンスダンスダンスダンスダンス。





追記 Photo : マダガスカル

2004年当時は、まだまだドラムスキャナを使ったポジフィルムによる印刷製版が一般的な時代
デジカメは一眼レフではあったものの、高級機以外は現在と比較するとラチュードや解像度など物足りず
メインカットなどのサブ押さえぐらいでしか撮影しておらず
非常にシャッター押す感じが、ゆるいのですが……
そのデジタルのゆるさこみで、いくつかのイメージを公開します

Photo : モーリシャス

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