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時空を翔ける記憶 来世がないと知ったから 弟とのご縁 その1

 3歳年下の弟の記憶は、広島の山奥に住んでいたころ何かの病気をして 頬に障子紙を貼られていた3歳ころの記憶が最初です。
これも 写真に残っていたので、それで記憶になったのですが2つ違いの姉と遊んだり、そのころからひとり遊びが好きだった私は ほとんど弟との記憶がありません。

 広島から神奈川に移り、何度も転校し いじめられたりいじめたりが忙しくて(笑) その後も弟や妹の記憶がほとんどないのですよね。

 それでも 甘えん坊で幼稚園に行っても、帰ってきてしまう というエピソードは、父が同じことをしていたと祖母に聞いたことがあるので、親子だな と思ったり・・・

 そんな弟との記憶がしっかりとしたものになるのは、姉が東京に出て 両親が離婚をしたあと。私が18歳ころからになります。

1.喧嘩ばかりしていた

 姉も私も定時制高校へ進み、お給料は封を切らず父に渡す という生活をしていましたが、父が出て行ってからは自分で管理するように と母に言われました。

そんな中 弟が高校受験するわけですが、それまでさほど絡んでいなかった というより、会社に出掛け、夜は学校へ行ってから帰ってくるので絡む時間がなかった というのが現実だったのでしょうね。

 弟の高校受験に際し、私は、私立の高校へ行けるわけはないんだから、県立高校に落ちたら 家に帰ってくるな と言いました(笑)
あの頃の私は かなり傲慢なやつでしたから、姉も自分も家のために犠牲になったのに、長男がのうのうと私立高校へなんか行けるはずがないだろ と思ったし、許せない と思ったのです。

 うまく県立高校へ合格できたものの、大人になってから 
「ねえちゃんに 落ちたら帰ってくるな と言われて、ものすごく怖かった」
と話していましたね。

 理由はもう 覚えていませんが、何度も派手に喧嘩をしました。

弟の家に遊びに行くと ともに呑んで酔うたび首筋の古傷を指して 「姉さんにやられた傷だ」と笑っていました。

 派手な喧嘩を繰り返していた当時は4軒長屋の市営住宅に住んでおり、あまりに大声で喧嘩をするもので、近所のおばさんが仲裁に来ることもありました。

そんな関係でしたが、なかなか面白い奴で
「姉さんの原付バイクも一緒にメンテナンスをしたよ。」 
と自分の大型バイクを磨きながら言ったことがあります。
乗ってみると、なぜかお尻がどんどん前にいき落ち着かない。

「サドルにもワックスを塗っておいたんだ。」

そんな悪戯もしていましたが、私が20歳で嫁いでからは母や妹のことも気にかけてくれていたようです。

2.母の片づけをするために生まれてきた

 やがて、私はひとり 家を出て神奈川県で住むことになりました。
後に 長男や次男も合流するのですが、そのたびに本当に親身になって面倒を見てくれました。

 まだ私が家族と一緒に暮らしているとき、弟夫婦は特に長男がお気に入りで、長男もひとりで長く弟の家に滞在するなどとても仲良くしていました。
我が家では 正直持て余し気味の長男でしたから、とても不思議に思ったものです。

 そして母が認知症と診断されてから、弟はそれまで以上に面倒を見ていました。ひとり暮らしは無理だけど、弟の家に同居は出来ない・・・

やっとグループホームに入居できると決まり、母が住んでいた市営住宅の片づけをしたのは 弟夫婦でした。もちろん彼らだけに任せるわけにはいかず、多少の手伝いはしましたが弟が中心になって すっかり綺麗にしてくれました。

そして母がグループホームに落ち着いた夏の日、食事を終えた弟は居間でくつろいでいたはずが、体中の力が抜けるような形でくずおれ 救急車で運ばれたそうです。

 伊勢原の東海大学付属病院で、必死の治療の甲斐もなく弟は意識を取り戻さないまま 逝きました。

 危ないから 来て! と義妹に言われ、泊りがけで見舞った日、3度弟の心臓は止まりました。
けれどそのたびに 持ち直す。
嬉しいけれど、正直疲れてもいました。

 仕事もあることだし と、姉と入れ替わりで帰った翌日、弟は姉に見守られて命を終えました。

姉も私も 早くに母から離れましたから、弟はその分母を大切にしていました。
母も弟には甘えていましたし、典型的な母親とひとり息子 という図式を私たちは笑っていました。

母が認知症と診断され、グループホームに入所が決まり、住んでいた市営住宅も元の様に綺麗にして退去することが出来た・・・

母さんに関して、何の心配もなく逝くことが出来たね
まるで、母さんの面倒を見てから逝く って決めていたみたいだね

姉としみじみ語りあいました。

それが彼の宿命の一つだったことは、もうしばらくしてから わかることです。

 



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