「海を填んで」を振り返って③

 こんばんは、アメージングだいやです!
 昨日のnoteでは筆休みをさせていただきまして、ありがとうございました。おかげさまで英気を養う事ができました。
 今日は一昨日に引き続き、演劇集団あまちゅあでいとの第二回公演にて上演しました「海を填んで」の振り返りを行おうと思います。一日挟んでしまいましたので、どんな振り返りをしていたか忘れてしまった方はぜひ一昨日の②をご覧になってからお読みいただけたらと思います。

 前回の②では、「海を填んで」を書き始める際に僕が考えていた事や、この作品に込めた『メッセージ』とそれを届けたい『誰か』について書きました。また、僕のキーワードである特性―この場合の『僕』は、『アメージングだいや』というよりは『素の僕自身』の意味合いが強いかもしれません―『利己的な利他性』という言葉も飛び出しました。『利己的な利他性』。まあ簡潔に言えば、『自分勝手に他人の事を思いやる事、その性質』…ですかね?(厳密な表現とは違うと思うので、ぜひ検索してみて下さい。慶應義塾大学名誉教授の岡部先生の論文等、とても面白いものが見つかると思いますよ!)とにかくその面倒な性質によって、僕自身たくさんの失敗と後悔、そして懺悔がある事を書きました。今日はその続きから。

 書くテーマが決まった僕は、そのテーマを背負ってくれるキャラクター・冴島海斗くんの人物形成から始めました。
 彼自身、恋愛で大きな失敗体験がありそれをトラウマとして抱えている。深い心の傷に懸命に耐えながら、どうにかそれを糧として前に進めないか模索しているものの、なかなか思うように心の靄を払う事ができない。
 彼が脚本を書く人間であるという設定は、ここから生まれました。
 これは完全に僕の持論なのですが、『自分』という大きなコンピュータがあって、『記憶』や『感情』といったファイルを『経験』というデータに変換して落とし込む際に、『芸術』という手法は極めて合理的で最適なものだと思うのです。自分の中に確かに在るけれども言語化が非常に難しい『何か』を、体の外に形のあるモノとして表す。そこには、自分自身との深い対話と主観・客観の両視点から見た冷静な問題理解が必要不可欠です。そしてそのプロセスこそ、言いようのない不安感を伴って存在するトラウマや失敗体験等を消化(ある意味では昇華)させるのに非常に有効なものであるのです。
 話を脚本に戻します。海斗を『脚本を書く人間』と決めてからは、割とすんなり彼の人間性を…さらには全体のストーリーを固めることができました。
 ダイキ・シュン・アカリ・リサが話を進める『恋活イベント』パートも、特に引っかかる訳でもなく書き進められました。あの4人のぐちゃぐちゃした話は海斗が書いている世界なので、海斗の背景が固まって僕の中で彼の理解度が深まれば深まるほど書きやすくなっていきました。
 こうして、「海を填んで」という、アメージングだいやが書いた脚本の中に冴島海斗が書いた脚本も存在するという不思議な作品が出来上がっていったのでした。

 この脚本が出来上がり、僕は作者として非常に高い満足感を得ることが出来ました。特に矛盾無く一つの世界を描くことが出来ましたし、何より僕が初めに設定した『誰か』に届けたい『メッセージ』も、過不足なく作中に収める事も出来たからです。
 ただ。これをまたさらに『演技』として表現しなければならない役者たちからは、困惑の声がたくさん上がりました。

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