「海を填んで」を振り返って②

 こんにちは!アメージングだいやです!
 今日は昨日に引き続き、演劇集団あまちゅあでいとの第二回公演にて上演された長編作、「海を填んで」の振り返りをしていこうと思います。まだ昨日の振り返り①をご覧いただいていない方はまずはそちらから、「『海を填んで』って何じゃい!?」という方は一昨日のnoteにて公開されている「脚本『海を填んで』」をご覧いただいてからこちらをお読みいただけると楽しんでいただけるかと思います。よろしくお願いいたします。

 んおっと、失礼しました!変なものをアップしてしまった!
 …えっと…。この写真は稽古終わりに、シュン役の新堀隼弥くんと撮った一枚ですね。う~ん…疲れてるからか目つきが鋭い…。(;^ω^)
 稽古終わりに仲間と飲む一杯は格別でございます。(笑)

 …とまあ、さてさて…。写真の話はこれくらいにして、そろそろ本題に参りましょう。
 昨日のnoteの最後にて、この作品のタイトルの由来について触れました。
 『精衛填海』ー「人ができそうもない事を企てて、結局それが無駄に終わる事。また、いつまでも悔やみ続ける事」という意味の四字熟語です。
 僕がこの脚本を書く時、一番最初に着手したのはラストシーンでした。
 最後にだけ出てくる、宅配便のインターホンで起き上がる男の子。作中に出てくるキャラクターの中で唯一、『現実』の中を生きている存在。彼の名前は冴島海斗といいます。彼のバックボーンや背景をどれだけ鮮明にできるかが、脚本家としてのアメージングだいやの大きな命題でした。大きな後悔と悲しみ・トラウマを抱え、それでも何とか前を向こうとしている彼の姿をどれだけ丁寧に描くことができるか。これは、「海を填んで」という作品の…ひいては公演そのものの魅力度や整合性にも直結してくる問題でした。4人の男女が恋活イベントにて繰り広げるぐちゃぐちゃした話を、独り自室にこもり書いている海斗。僕がこの作品や公演に込めたいメッセージを、どのように彼に背負ってもらうか…本当にずっと悩みました。
 これはnoteにて何度も書いている事なのですが、僕は脚本を書く時や公演を打つ時、何かしらの『メッセージ』とそれを届けたい『誰か』を具体的に明確に考えます。その『誰か』には、特定の人が当てはまる時もあれば『~な方』のようにイメージを当てはめる場合もあります。まあ、そういった差異はあれど、『相手』を設定しなかったりメッセージが曖昧なまま作品制作を進めることはありません。これはアメージングだいやの鉄則、決して破る事は許されない自分ルールになります。それを踏まえて、「海を填んで」。今回も、プロットの段階で『メッセージ』と『誰か』を設定しました。
 今の自分は、いったい誰に…何を伝えたいんだろう。何を届けるべきなんだろう。アメージングだいやという薄い表皮の内側で、ひたすら考え続け。そしてなんとか必死に見つけた答え。
 「今回は、あの人へ…素直な気持ちを届けよう。」というものでした。

 アメージングだいやという服を脱ぐと、僕というモノはなかなかに面倒な人間です。変なところで頑固で、あんぽんたんで、ド変態で、自己肯定感が低く、卑屈。成功体験より失敗体験の方を基に自己形成してしまい、少しばかり歪んだ目で人と接してしまう。
 挙げたらキリがないような自分の性質の中で、自身でも最も面倒に感じているのが、「利己的な利他性」でした。僕の中に強く残るいくつかの失敗体験、それらはいつも、僕の中にある利己的な利他主義が原因で引き起こされていました。
 中でも、割と最近のこと。その主義のせいで断たねばならなかった一つの関係がありました。その断絶が自分にとってどれだけの喪失感を与えるのか分かっていながら、それでもくだらない主義に則って実行しました。案の定僕は、激しい後悔と相手への申し訳なさ、強い苦しみに苛まれる事になりました。

 僕の胸の中を席捲するその相手への気持ち。それを、冴島海斗という青年に乗せて舞台の上に表そう。そう強く決意して、僕は海斗の人物形成とプロットの制作に入りました。


 …ぐぬああああ…!やはり書きたい事がたくさんありすぎてまたまとまらない…!!
 ごめんなさい!明日、「『海を填んで』を振り返って③」に続きます。
 この振り返り、総文字数ってどれくらいになるんだろう…?頑張って次回でまとめ切るぞ…!
 ぜひまた明日もお付き合いください!
 それでは!!


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