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【オンラインイベントレポ】吉岡秀人さんに聞く『未来のつくりかた』

10月末日、小松成美さんが主催するオンラインイベントに参加した。

タイトルは、「貧困地域の医療現場を救うジャパンハート最高顧問・吉岡秀人さんと、未来のつくりかたを語る」。

こちらのイベントを振り返りながら、「自分たちの未来」について考えていきたい。

東南アジアで奔走する、小児科医・吉岡秀人さん

吉岡秀人さんは、27年前から東南アジアの子どもたちに無償で医療を提供してきた。特定非営利活動法人「ジャパンハート」の創設者であり、最高顧問である今も、現場で活動して医療の届かない場所に医療を届けつづけている。

貧困の状況下にいる子どもたちのために、人生を捧げる吉岡さん。その思いは、いったいどこからやってきたのだろうか?

吉岡さんは、大阪の吹田市で生まれた。「過去と未来が混在した町だった」と、子どもの頃を振り返る。

「当時JRは国鉄呼ばれてました。その国鉄の駅を降りると、大勢の物乞いの人たちが地下道にござを引いて座っていました。その人たちは、日本軍服を着てたんです。手足が無くて、夕方になると杖をついて帰っていく……。それまで身体に障がいを持った人を見ることがなかったので、その光景が強烈に残りました」

そんなある日、アジア初の万国博覧会「大阪万博」が開かれた。吉岡さんの住む町に大勢の人が集まり賑わった。方や未来に向かってお祭りをしている人がいて、方や戦争を引きずる人たちがいる。「わずか20年という時間のズレで、人の運命はこうも変わってしまうのか」と、10代の吉岡さんは愕然とした。

「戦争を生きた人たちへの感謝とともに、申し訳ないなって気持ちが起こって。そういう人たちのために自分ができることはないかと思い始めたんです」

その答えが、「医療を受けられない人のために、医療を行うこと」だった。

ミャンマーの過酷な医療事情

日本で救急病院に勤務後、1995年からミャンマーに渡り、吉岡さんは医療支援を開始した。当時、ミャンマーの平均寿命は50歳ほど。あまりにも若い平均寿命の理由は、5歳以下の子どもが大量に死んでいたからだ。「世界で2番目に医療事情が悪い国」と言われていた。

「日本はみんな保険で守られてますけど、海外の人たちには、保険なんかありません。針1本から自己負担です。そういう国の人たちのために医療を行う日本人が誰もいなかった。それが僕にとって一番の驚きででした」

病院には、吉岡さんの存在を聞きつけたミャンマーの親と子どもたちが大勢やってきた。頭蓋骨に穴が開いている子。水頭症を患っている子。やけどで皮膚がただれた子……。吉岡さん一人の力ではどうにもならない症状ばかりだった。

「僕を最後の砦と思って来てくれたのに、親たちは落ち込んで帰っていくんです。その背中を毎日見送らなければなりませんでした。かわいそうで、そのストレスはつらく耐えがたいものでした」

「手術しましょう」と言いたくても言えない。なぜなら器具がない。衛生管理にも問題がある。人手が足りない。過酷な医療状況下に吉岡さんはいた。

「誰かがやってくれれば……」。そんな思いも脳裏によぎったという。

「5年後でも10年後でも、彼らが生きてる間に治してくれる人が現れたら、それでいいのではと思いました。でも周囲の人から『現地の人たちはお金がない。おそらくずっと変わらないでしょう』って言われてしまって」

あるとき、ふと、自分自身の固定観点が自分の首を絞めていることに気づく。

「できないことに捕らわれるより、できるためにはどうしたらいいかを考えよう!」

その日から吉岡さんは、医療体制が整っていないミャンマーでの手術に取り掛かった。

ミャンマーで手術ができないなら、日本でする

ミャンマーの子どもたちの事例を聞くなかで、最も胸が熱くなった話がある。

2004年、吉岡さんがジャパンハートを立ち上げたときのことだ。首に大きな腫瘍ができた2歳くらいの男の子が、母親に連れられてやってきた。腫瘍は、すでに器官や食道に張り付いていた。「おそらく3か月の命だろう」と思ったそうだ。病院には十分な麻酔もなく、手術ができる医者は吉岡さんしかいない。すぐに手術ができないまま、親子は町に帰ってしまう。

半年後、吉岡さんは男の子が住む150キロ離れた町へ向かい、様子を見に行った。「きっともう、生きていないだろう」。そう思って向かった。

町の人に聞きながら探し回り、小さな駄菓子屋さんを営む母親を見つけた。すると母親は「子どもは奥で寝てます」と言う。「まだ生きているなんて!」と驚いて、停電で暗い部屋の奥に入っていく。

ゆりかごに入れられて、耳の近くにラジオを当てられた男の子がいた。体重10キロほど男の子の腫瘍は、すでに2キロを超えていた。皮膚が破裂し、そこから栄養が抜けている。もう自力で起き上がれなかった。

「この子を助ける方法は一つしかない。日本に連れて行って手術するしかないと思いました。ただ、当時のミャンマーでは、国民を海外に連れ出せないことになっていました。それでも、母親のすがるような目を見たら、僕の口から出た言葉は『日本に行って、治療しますか?』でした」

日本で手術したとしても、小さな身体では耐えられず死んでしまうかもしれない。母親は、「それでもいいから連れて行ってくれ」と強く懇願した。

吉岡さんはすぐに男の子の出国願いを出す。意外にも、ミャンマー政府はすぐにパスポートを手配してくれた。日本大使館も全面的に協力。「やっぱり、人の気持ちなんだと思うんです」と吉岡さんは振り返る。

岡山県国立病院の恩師に手術室の手配を頼むと、快く承諾してくれた。こうして、決断した1か月後には手術することができたのだ。

手術は無事成功する。男の子は右半身が麻痺していたが、リハビリをし、歩けるまでに回復。成長した少年は、「いつか先生みたいなドクターになるんだ」と目を輝かせた……。

第69回・菊池寛賞を受賞

今年、吉岡さんは、創造的な業績を挙げた個人や団体に授与される「菊池寛賞」を受賞した。オンラインイベントのインタビュアーである小松成美さんが、お祝いの言葉を述べると、吉岡さんは照れながら笑った。

小松「受賞の理由は、『ミャンマー・カンボジア・ラオスなど、まだ医療が行き届いていないアジアの貧困地域で、25年以上にわたり無償の医療支援を行う。コロナ禍の今も自ら最前線で治療を続ける、継続する力は賞に値する』とあります。この、”継続する力”というのが大きなトピックですよね。特別な人を助けたからではなく、25年も続けてこられたことへの賞なんですね」

吉岡「そういことを評価してくれる時代になったんだなって思います。僕がこの活動を始めたとき、多くの方に反発されました。助けたって終わりがない。やっていることは最後の一滴だから、成果も見えにくいわけです。『そんなことをして何になるんだ?』と言う人が非常に多かったんです。

けど、僕は思いました。一度切りの人生だから、自分が正しいと思うことをやることこそが自由だって。それが25年経って、大きな学会で講演を頼まれるようになり、多くの方が僕の話を聞いてくれるようになりました。時代が変わったんだなと思います」

小松「私が感銘を受けたのは、子どものときから未来への視点を持っていらしたということです。『少し先に生まれてきたら、自分だって戦争の被害に遭っていたかもしれない』。そう思ったときに、そうした人を助ける、そういう社会を少しでも良くすることを考えて行動に移された……。覚悟をもって実行していかれたのだと思います。

いま、若い人たちはそういうことにも躊躇したり、もしくはチャレンジをしないことで自分を守ろうととするような傾向があると思うんです。でも、一度切りの人生ですから、後悔しないようにしなくちゃですよね」

吉岡「いや、僕も人生、後悔しっぱなしですよ(笑) 皆さんと同じで、最初から勇気があったわけではありません。ただ僕が思っているのは、誰かに認められる必要はなくて、自分は何ができて、どんな才能があって、どういうふうになれるのか……。“自分を知る”ことだけは、自分自身に示すべきだということです。

人生って、マラソンみたいなものです。前半から飛ばしても、後半が悪ければ後悔することになりますよね。でも後半が良ければ、前半どんな苦しくても合理化できる。後半が“人生の勝負”なんです。後半で最高の走りをするために、今できることはどんどん挑戦した方がいいです」

人生の後半戦で、私たちは何を思うだろうか? 精一杯自分に示せたと思う未来を目指して、走り続けようと思う。そう思ったイベントだった。

(記:池田アユリ)


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池田 アユリ@インタビューライター
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