目に涙をためながら、彼女は【1000文字小説】
散らかったワンルームのベッドに、大切なヒトが眠ってる。
厳密にはヒトじゃない。猫だ。まっ黒な猫の、風太。赤い首輪に鈴をつけて、「魔女の宅急便」のジジみたいだ。
美由紀は、眠気まなこでぼんやりと風太を見つめながら「あぁ、なんてかわいいの」と、思わず声をもらす。丸まって寝ている風太をすくい上げるように両腕で抱きしめたら、「ニャッ!」と拒否られた。
「んもぅ、ツンデレだな。ふーちゃんは……」
枕の下に潜むスマホを取り出して、時刻を見る。
AM8:16。ヨレヨレのスウェットのまま、ベランダに向かう。
よく晴れた5月の空だった。忙しさのピークだった3・4月を振り返って、「よくやってるよ、あたし…」とつぶやいた。
美由紀は、ベンチャー企業の不動産会社で派遣社員として働いていた。頭の回転が早く、細かなところに気を配る接客ぶりが認められ、今年の春、正社員になった。おかげでお給料はグンと上がったが、気苦労もドッと増えた。
新しく入ってきた派遣社員の指導役を任されて、真面目な美由紀は丁寧に仕事を教えた。しかし、派遣社員のひとりが気になって仕方がない。
彼女は、「鬱で行きたくないんで、休みます」とよく休む。出勤したときに具合をきくと、ケロッとした顔で「お給料いいから、辞める気はないんです」と言った。
彼女の仕事量は、そこまで多くない。それなのに、美由紀が1日でこなす量を、もう1週間以上かけている。努力している素振りが見えたらいいけれど、そんな素振りは、ない。
(繁忙期なのに、勘弁してよぉ。)
しびれを切らしてデスクを離れ、パソコンに向かっている彼女に声をかけた。
「あのね、このエクセルの金額は半角って言ったでしょ」
「え、あ……ハイ」
「あとね、慣れないかもしれないけど、もう少し急ごうか。スマホ見るのは休憩時間にしよう?」
「……」
(無視かよ。)
「派遣社員だから適当でいい」なんて、美由紀は思っていなかった。お金を稼ぐって大変なことだ。お給料を受け取っておいて、仕事は全然進めない。その上、「もっと優しくしてくださいよ」っておいおい、かまってちゃんかよ! 心の中で悪態をつきながら、笑顔でやり過ごした。
そんな彼女が、大きなミスをした。
上司はカンカン。美由紀は彼女を給湯室へ連れて行き、この状況を話した。
「……わたし、悪くないんで」
目に涙をためながら彼女は睨んだ。美由紀はそれ以上、何も言えなかった。
次の日、彼女は会社を辞めたと、上司から聞いた。かばうべきだったのか。あの涙は、どんな意味だったのか。もう聞くことはできない。美由紀は罪悪感でいっぱいになった。
「あの子、捨て猫だったときの風太みたい、だったんだよな……」
ベランダの手すりに肘をおき、もう一度彼女の顔を思い出す。捨て猫みたいに一人ぼっちで、「誰ももらってくれないんでしょ?」って顔してたなと。
「やさしくできなくて、ごめんね……」
そうつぶやいたとき、窓ガラスをカリカリッと引っ掻く音が聞こえた。風太が窓越しに「ゴハンはまだ?」と言う。「ニァーア」と2回鳴くのは、ゴハンの合図だ。
「ふーちゃんったら、ツンデレなんだからぁ」
ふふっと笑いながら窓を開け、風太を抱きしめた。
(記:池田あゆ里)
こちらは「1000文字エッセイ集」に掲載中です。