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【掌編小説】さなぎ
今年もまた四月を迎えた。四年目だ。三年前から落ち続けている。同級生たちは皆未来へ向けて羽ばたいているのに、僕だけが土砂降りの下、こうして空を見上げ、その背に翼はない。飢えている。未来に飢えている。渇いている。初めて涙を呑んだ日は遠くぼやけている。あの時のように涙を流しても、渇いたままの僕がいる。雨粒は銃弾のように大きく、いっそ銃弾であればいいと思うが、さりとて死にたい訳でもなく、胃袋は元気に鳴いて、主人に栄養をたかっている。
扉を背に、歩き出した。重い足は案外すんなりと僕を運んでくれる。変だな、と笑う息は春の嵐より乾いて冷たく、凍った表情筋を動かせない。県道を行く。何が悪かったのだろう、と考える。点数、怠惰、努力不足。いつもの三点セットが、何万回目と変わらず浮き上がり、ひび割れたフォントで回りだす。今年いっぱい回っていたんだ。それでも僕は踏ん張れなかった。今年はできるだろうか。今度もできないのだろうか。ここでやめるべきだろうか。それは嫌だ。三年を完全に棒に振ることになる。前途はくらい。目に見えない。それでも可能性はあると両親は言う。諦めなければいつかは、と先生も言っていた。変わらず真剣な眼差しで。
水溜りを跳ね上げる。飛沫はすぐ雨に落とされて消える。遮られていた街の灯が再び現れる。数多の色が滲んで、捨てた参考書の山に似ている。結局その春も買い直したけれど。いつだ? どこだ? あまりにも遠い。滲んだそれらは分厚いすりガラスに遮られたようで、まるで彼岸の踊り花。いや、僕の方が彼岸にあるのだろうか。向こうから僕は人魂に見えて、あるいは何も見えなくて。立ち止まっているうちに、僕はもうあの岸から切り離されて、虚空を漂うしかなくて?
長すぎる赤信号。
交差点を車が次々と流れていく。その一台ごとに運転手を見つけて、僕は呼吸を浅くする。大音量の洋楽。窓越しの笑い。五センチ低いところをゆく彼らは、皆大空を飛ぶ渡り鳥のようにどこかへ。僕はどこへ、どこに、僕とは? 答えはなく、問いも定かでなく、鼓動が雨音を塗り潰して何かを叫んでいるようで、呼吸のあるなしも分からない。クラクション。身を引く。信号無視を見送る。ないまぜになった絶望と羨望の乗った視線が、車をパンクさせてしまえばいいと思う、が思うだけ。信号のそばにコンビニがある。僕は蛾のようによろめいて、輝く扉へ吸い込まれていった。
入ったらすぐ右に曲がり、左から二番目のカップ麺をとる。約束された最小限の動き。昨日も、一昨日も、繰り返していた。担々麺なんて嫌いだ。でも初めて買ったのがそれだから、僕はそれをとり続けている。足踏みを続けている。小綺麗に並んだ雑誌を眺めながらレジへと向かう。どれも新生活特集だ。無邪気に子供が笑っている。僕はまだ三年前の春にいるのに。足元の小さな水溜りは、僕の長い髪を映す。
不意にぶつかられ、僕はのろのろと舌打ちした。じろりと僕を見る女の目には、輝かしいコンタクトがはまっている。眼を逸らした。彼氏だろうか。小さく謝る背の高い影に瞬きをした。
「ヨシ?」
前髪の陰から見上げると、同級生がそこにいた。彼はスカジャンを着、流行りの髪型を金に染め、彼女に寄り添っていた。たしかプロ野球選手を目指していたはずだが、その面影はない。驚いたような笑顔だけが記憶通り。相変わらず髪長いな、と彼は笑った。そっちは見違えたね、と僕は言う。喉が焼けるように痛かった。それきり僕たちは黙った。別に、再会を喜ぶ仲でもなかったのだ。みじめだ。僕はずっと同じ服を着て同じ床屋に通っている。それなのに、変わり切った友とも言えない級友へ手を伸ばしてしまった。情けなかった。いつか見てろ、と歯噛みした。いつかがいつ来るかは分からなかった。
レジの呼び声に応えてカップルは行く。酒とつまみを抱えている。また会おうや、と振られる手を眺めて立ち尽くす。また? また、呼吸が分からない。うるさい鼓動に杭が立つ。
「お前、変わったな」
息が止まった。白紙の僕を置いて、彼らは傘を差し去っていく。僕と同じ年頃だった。静かに閉じる扉に映る落ちくぼんだ目の人間は、干乾びきった老人に見えた。
地獄の門にはこう書いてあるらしい。
――この門を通るもの、一切の希望を捨てよ。
現代日本に業火や血の池がある訳もなく。相変わらずの土砂降りの下、カップ麺を抱えて歩く。レジ袋はもらえなかった。そういえば去年からそうだった。店員の薬指には指輪があった。それはいつからだったろう。いつ僕は「変わった」のだろう。足踏みだけを繰り返していたはずなのに。分からないことだらけが渦巻いている。
稲光が閃いた。くぐもった轟音に震える。躓いた、と思った時にはもう、僕は転んでいた。ドブに片足を突っ込み、地面に押し付けられ、くらくらする頭を上げる。カップ麺がドブをものすごい勢いで流れていく。我知らず叫んでいた。カップ麺を追いかけて、僕は走る。忌まわしき運動不足が節々をきしませ、肺を発火させる。家も、医院も通り過ぎ、僕はようやくカップ麺を捕まえた。呼吸がうるさい。血の味がする。春の嵐になぶられて、よろめき、倒れそうになりながらやっとのことで電柱に掴まった。息も絶え絶えに寄りかかり、ごちゃついた色彩の円柱をとらえる。期間限定増量中、らしかった。
幼い頃、さなぎを拾ったことがある。羽化の神秘に触れたくて、茶色いそれを木箱に大事にしまった。春を待っていたある日、映画を見た。あのさなぎのようなものから巨大な蛾が生まれ、人間を襲う映画だ。小さな僕には刺激が強すぎた。あのさなぎからも同じような怪物が出てくるように思えて恐ろしかった。僕はさなぎを玄関に投げつけ、お気に入りの靴で踏みつぶした。乾いた音がして、灰色の汁が流れ出し、玄関のタイルの間を迷路のようにさまよった。足を挙げてみると、僕の恐れたあの怪物はいなくて、ただどろどろした乳白色の液体と、二三本の筋が土に汚れていた。幼虫も成体もいなかった。僕はあの時さなぎを殺したのだろうか。それともさなぎは元々死んでいて、死の運命を無限に引き延ばしただけだったのだろうか。さなぎは、此岸彼岸のどちらにもいなかった。
湯を入れながら考える。未来は否応なく訪れる。五分も経てばラーメンはのびる。湯を入れずとも次第にまずくなっていく。それと同じように。
蓋に重石を乗せながら考える。先生の真剣な目のなかに、微かな諦めを見るようになったのはいつからだろうか。両親の声の励ましを惰性と勘ぐり始めたのは? 四年目を続けるべきかは分からない。でもきっと、これまで通りではない年になる。過去三年もきっとそうだった。気が付いていなかっただけだ――点数、怠惰、努力不足、ひび割れつつあったフォント。
階段をのぼりながら考える。未来は常に一方向だろうか。街へ行かねばならないのだろうか。ヨシはプロ野球選手にならなかった。僕は、ああして扉に映っていた。
カップを置いて、考える。未来が否応なく訪れるなら、その扉の中に否応なく招じ入れられるものならば。扉を開こうとすることに意味があるのかどうか。
うちのやたら重い門。車のドア。コンビニの自動ドア……扉は、未来の顔を潜めて、いったいどこに幾つある?
答えは分からない。分からないことだらけだ。彼岸にも此岸にもいない、自分も、他人も。前途を眺めれば暗闇ばかり。気付かないうちに潜った扉は何枚あるだろう。過去を振り返っても分からない。僕の両輪は未知だ。羽でも、足でもなく。目の前にはゆで上がったまずい担々麺。僕は後ろ手に部屋の扉を閉めた。
糧があり、生きている。それだけが確かだ。
(了)