【短編小説】生/首曼荼羅
暗がりから現れたそれを見て、私は息をのんだ。確かに生首だった。車輪付きの台座の上でごとごとと揺れ、陽気な歌を口ずさんでいた。生ける生首の噂は本当だったか――私に笑いかける彼の眉は、少し歪んでいた。
「どうした、そんなに驚くこともないだろう。大英博物館には世界の全てが折り畳まれているんだから」
私は気の抜けたような返事しかできなかった。眩暈がしていた。彼は快活に笑い、肩でも叩くような調子で聞いてくる。
「おいおい、そんな調子じゃ困るよ。記者なんだろう。普段、何を書いているんだい」
「オカルト――いえ、神秘学についての記事を。宇宙人、古代文明、ドッペルゲンガー――」
神秘学と言い直したのは、オカルトと聞いた彼の顔が、あまりに恐ろしかったからである。台座の中ほどに張られた注意書きに、今更気が付いた――
「自尊心が高いです」
「――まあ、大したものじゃないですよ。あなたの記事が書き上がれば、全部ちり紙にするつもりです」
彼はすぐ笑顔に戻ってくれた。
「そう、今日は取材だったね。俺の数奇な運命について――さっきドッペルゲンガー、と言ったね」
「はあ……それがなにか」
「どう思う? ……答えにくいなら質問を変えよう。理想の人生とは何だ?」
答えを考える暇もなく、彼はテンポ二百で左右に揺れる。
「完璧で唯一であること、だよ君!」
残響すらうるさい。ちらと目線をやると、職員は指で小さくバツを作った。どうやらこの生首は少し狂っているらしい。そんなやり取りは露知らず、生首は恍惚とした顔で揺れのテンポを落としていく。
「中庸で満たされた生活、それが理想だ。完璧だ。欠けず余らず、自分の庭を自分で刈れる、そういうことさ。平凡なだけではなく、そうあり続ける、それがミソだ。ありきることで唯一になれるのさ。ドッペルゲンガーはそれへのアンチだ。完璧な人生を殺してしまう、反物質……俺はそれに勝った、これからするのはその話さ」
彼は口角泡を舐め、穏やかに笑った。
「分かってくれたかい」
あなたは大分色々と欠けているようだが、とは流石に言わなかった。
「とてもよく分かりました。是非、あなたの半生についてお聞かせ願いたい」
彼は満足げに回り、首の丸い断面を強調して、おもむろに口を開いた。
※※※
ある朝、彼は左手の小指の爪がなくなっていることに気が付いた。酔いで目が狂っただけかと思ったが、何度触れても爪はない。昨晩は相当飲み歩いたから、爪ひとつくらい落としてきても不思議ではない。謎は、爪はなんの痕跡も残さず消えていて、まるで元からついていなかったように見えることである。指の背の柔らかさが妙に馴染んだ。幾度も揉むうち、彼は爪など無い方が自然なのだと思えてきて、とりあえず行方は考えないことにした。それより先に、こみ上げる吐き気をやっつけなければならなかった。トイレから出てきた時にはもう、彼は左手を気にも留めなくなっていた。
休日が明け、彼はいつも通り制服を着て大英博物館の警備に立った。仕事仲間もエジプトの遺物も、彼の小指の異変を指摘しなかった。昼食を届けに来た恋人だけがそれに気が付いた。何もかもが平均的でありながら、平均的である努力を怠らない彼女は、丁度三分心配したきり、爪の話をかっきりやめてしまった。彼女はデートの話をし、彼は友への愚痴を言う。
「クソッあの気紛れ野郎。『今日は霊界との接触実験をするから来ない』だと? この前は『霊界なんてない、幽霊は全部宇宙人だ』なんて言ってた癖に。畜生、どっちかはっきりしやがれ」
「ええ、そうね。やっぱりはっきりしないとね。今度のデートは鏡の泉はどうかしら。私達の将来を見に……」
「未来なんて見えやしないんだよ。あいつだってそうだ……いきなり易を始めたり、易を燃やして水晶玉を覗きだしたり……何なんだアイツは。欠点だらけで、アホで、あの半端者がどうして生きているのか分からないよ」
「ええ、私の完璧なハニー……完璧な愛の巣を見つけに、ドイツの街へ行くのはどうかしら。今なら電車で三駅よ」
「ああいう半端な奴は嫌いだね、まったく。あいつは学生時代からそうだ。なのに俺より出世して、本当に意味が分からない――」
「そうね、そうね――」
昼食を終えると、彼はいつもより遅れて持ち場へと向かった。博物館は海のように広い。車さえ走っている。通りを三本も越えねばならない。小走りである。視界は狭い。飛び出し注意といくら言っても、人は急には止まれない。彼はしたたかに額をぶつけ、交差点の角に転がった。信号はじきに赤。片眉の無い額を押さえる被害者に│謝罪《Sorry》をうめき、よろよろと渡る。どうにか古代ギリシア室にたどり着いたが、頭痛はひどくなるばかり。どれ、惨状を見てやろうとガラスケースに目をやって、彼は驚愕に目を見開いた。
彼はかねがね、平均的なパーツばかりが集まった己の顔において、唯一眉毛だけはディカプリオに匹敵する傑物だと考えていた。毎朝くしで丹念に梳かしさえするその眉が、なんと片方なくなっているではないか。恐る恐る手を伸ばすと、陶器のような感触が指先にあらわれた。その途端彼は一声叫び、警備も忘れて展示室を飛び出した。
――交差点でぶつかった男を探さねば。
折しも通りかかった巡査に、彼はまくし立てた。私の眉を知らないか、盗難に遭ったのだ――巡査は当惑して知らないという。その帽子からはみ出た眉に見覚えが――そう思った刹那、不意に引力を感じ、彼の目の前に星が散った。三歩よろめき、彼はようやく自分のしでかしたことを知った。帽子を吹き飛ばされた巡査が痛みにうめいており、その片眉は綺麗さっぱり消え去っていた。彼はまさかと思いながらも、奇妙な確信をもって、自分の額へ手をやった。陶器のような感触があった。顔面蒼白。彼は自分でも気づかぬうちに巡査に背を向け駆け出していた。
人ごみをかき分け、クラクションを蹴とばし、彼は走りに走った。得体の知れない小部屋が入り組む大英博物館の深奥へと入り込む。無数にある扉の一つ一つが世界のあらゆるところに通じている。澱んだ裏路地の突き当り、髑髏のノッカーを幾度も叩き、彼は主人の応えも待たずに飛び込んだ。百五十キロの巨躯に跳ね返され、彼は玄関マットに転がった。相殺された勢いを取り返すように、彼の舌が回る。暴風のようなとりとめのない説明に、彼の旧友――ことオカルト好きの困った上司は面食らい、とぼけたように立っている。しかし彼の小指、両眉をじっくり見るうち合点がいったようで、キッチンで紅茶を淹れて持ってきた。彼はそれを一気に飲み干し、一息ついた。そこでやっと自分の手のひらが半分無いことに気付いて、折角取り戻した落ち着きもろともカップを投げ捨て悲鳴を上げた。半狂乱の彼を、まあまあまあ、となだめて、上司は彼を応接間へエスコートした。とにかく何があったか話してみろ。彼が再び一からはじめて二分もたたないうちに、友は全てを理解したようで、
「そりゃ、ドッペルゲンガーだな」
そう言って彼を驚かせた。
「それは自分と瓜二つの人間だろう。会うと死ぬっていう。それと俺の眉毛となんの関係があるんだい」
「眉毛はもちろん、小指や手のひらとも大いに関係があるよ。ドッペルゲンガーに会うとなぜ死ぬか、君は知っているかい?」
彼が首を振ると、友は顔を輝かせ、丁度お告げがあったのだ、と言った。そして宇宙の深淵や十一次元の謎に迫る非常に複雑でSFじみた説明の後、こう締めくくった。
「要は対消滅だな。本体がプラスならドッペルゲンガーはマイナス。その逆もしかり。会うと互いに打ち消し合って存在がゼロになる……そういうことだよ」
なるほど原理は分かったが、それと俺の眉毛、この世から永遠に失われてしまったこの世の宝とは何の関係があるのだ、と彼は思った。友はそれを見透かしたようににやりと笑った。
「つまりね、君のは部分ドッペルゲンガーさ。普通は本体と同じ人間態をしているが、君のはどうしたことか分裂して色々な人の部位に分散しているんだ。それに君が近づくと引力が強まり、頭突きをしたりビンタをしてしまう訳だ」
「俺はどうなるんだ? 死ぬのか?」
「すぐには死なないさ。時間の問題だがね。引力の作用で、君の一部を持つ人々が近くへ集まりつつある。これから君は欠けるばかりさ」
彼はみるみるうちに泣きそうな顔になった。
「なあ、どうにかならんのか? 俺は死にたくないんだ。まだ結婚だって――頼む、なんとかしてくれよ」
「なんとかしてやりたいが……始まったものは止められない。今の内から祈っておくよ」
彼は友の家を辞した。自分が死ぬ。これからどんどん欠けていく――それが途方もなく恐ろしかった。防衛反応だろうか。彼は動揺しながらも、古代ギリシア室へと無意識に足を運んでいた。もうあの巡査はいなかった。広大な展示室はがらんとして、彼は己のみの存在を感じてほっとした。彼はいつも通り、部屋をぐるりと点検しだす――しかし日常へは戻れなかった。彼は動きを止め、がくがくと震えはじめた。目の前にエルギンマーブルがあった。略奪された神像たちが、欠けた姿で彼を見下ろしていた。首のない女神、腕のない男神。生気のない白が、巨大な津波のように迫って見えた。あまりの恐怖に、彼はその場にへたり込んだ。六体の神像全てに、彼は自らの心臓を幻視していた。
観光客のざわめきに、彼は素早く振り返った。押し寄せる人々。動く地雷原のようだった。彼は飛び上がり、ガゼルのようにその場から逃げ出そうとした。しかし所詮人の足。人波の縁をすり抜けようとした彼は、逆に大波に飲み込まれてしまった。
どうにか外へ出ようともがく。子供を飛び越え、恋人の間をすり抜ける。不意の引力に身体が回り、あっと思うと足が一本消えている。彼は転びそうになるが、人の密度が彼を支え、倒れることを許さない。あちらに引力、こちらに斥力。彼の一部を持っていた人々は、自分の身体が欠けたことに気が付かないようで、つるんと白い断面を見せながら、平然とその場から去っていく。ただ彼だけがきりきり舞い。待て、返せ俺の身体と叫んでも、それは異国語に塗り潰される。長く続いたピンボールから解放されたとき、彼は片腕片足と胴体の四半を失い、古代エジプト室に転がり込んでいた。彼はラメセス二世の巨像を見上げた。ファラオは下半身と片腕を失って、うつろな目で彼を見下ろしていた。彼はぞっとした。余りにも恐ろしかった。打ち消せない未来の自分に見下ろされているように思えた。
――半端な奴は嫌いだね。
彼は己の言葉を思い出した。
――半端者がなぜ生きてるか分からないね。
彼は過去と未来の自分に挟まれ、もうどうすることもできず、冷たい床の上で硬直していた。なぜ俺が――これが報い――しかし俺は何も悪いことなんて――運命――なぜ俺だけが――昨日までうまくいっていたのに――彼は世の不条理を呪った。起きるものごとに理由はない。理由はいつも後天的で、混乱への対症療法でしかない。しかしそれすら見つけられない理不尽を前にして、彼の混乱は留まることを知らず、体内の渦巻はどんどん大きくなっていく。中間状態への強烈なストレス。歩き回る観光客の足音一つ一つが、死神の足音に聞こえる。
彼は目も口も大きく開いた。体内の渦巻を一気に解放しようとしたのである。それが成功していれば、彼は狂人として生を終えられていただろう。しかし彼の名を呼ぶ恋人の声に、彼は開ききっていた喉を閉ざした。冷静な驚きと焦りが、叫びを八分の一秒だけ響かせて止めた。彼の恋人は典型的な声にならない叫び声をあげ、彼の元へ駆け寄った。その一歩一歩が、彼に羞恥を抱かせた。彼は必死に手足を動かし、柱の陰に隠れようとしたが、その甲斐なく恋人に肩を掴まれた。
「どうしたのこれ――どうなっちゃってるの!?」
彼はうまく答えられない。しゃがんだ彼女と目線が合っていることが、彼にとっては苦痛だった。理想的だといわれる十五センチの身長差、それは今やマイナス。嫌だ、嫌だと彼はしきりに呟いた。彼女が救急車を呼ぼうとするのを必死で拒否した。どのみち彼はそのうち死んでしまうのだった。
死にたくない、と何度も呟いた。将来の話、付き合わなくてごめん、とボロボロ泣いた。恋人は彼を慰めるうちに、狼狽えるのをやめた。唇を引き締め、彼をえいやと持ち上げた。とにかく病院へ行くというのだ。彼女が人並外れた勇気を持っていたことを彼は初めて知り、胸を打たれたが、それを喜ぶことはできなかった。俺は何てバカだ、と呟きながら、彼は恋人の肩にすがりついた。夢想していた黄金の未来が欠け落ち切ってしまう前に、その一欠片だけでも味わいたかったのだ。彼は恋人と口づけを交わした――と、同時に引力が働き、彼らを必要以上に交わらせてしまった。
気付けば彼は、床をゴロゴロと転がっていた。首だけになったのだと気が付くのに三回転を要し、恋人の四肢がばらばらに転がっているのを理解するまで二回転を要した。悲鳴も上げられず、彼は固まった。彼と彼女が「お似合い」だと称されることは多かった。しかし、まさか胴体がほぼ同一であったとは――彼の目の前で、恋人だったモノの五体はバッタのように飛び跳ね、集合し、三頭身のトロールのようになって、去っていった。もう彼のことなど忘れてしまったようだった。彼はゴムのように横たわる自分の片腕と片足を見やった。それらは彼女の手足のようには動かなかった。
――彼女は気が付いていないのだ、忘れたことに、欠落したことに。俺は知ってしまったのだ。
それ故に、彼は一ミリたりとも動けず、ロゼッタストーンを見上げている。古代のヒエログリフはその三分の二以上が欠けている。それでも解読されたのは、下部に二つの文字で同じ内容が書かれていたからだ。意味の存在には自らによく似た他者が要る。同一であることは自己の消失を意味する。
彼はもう、消えてしまいたかった。彼は生まれた頃から、自分は何者にも支配されない唯一の存在だと考えていた。嫌われようがどうでもよかった。それが今や、首だけで呼吸し、無様に大理石に頬を押しつけている。
――ドッペルゲンガーに対して俺もドッペルゲンガーなら、俺は他人の寄せ集めじゃないか。じゃあ俺になんの意味がある?
彼の目の前で、彼の片腕が引力に引かれて浮き上がり、ピザ屋の腕と同化して消えた。ピザ屋は片手でバイクを操り、表情を変えずに去っていく。
彼はぎょろりと目を動かし、ラメセス二世の顔を見上げた。身体の過半を失っても、王は堂々として見えた。それがぞっとするほど美しく、完璧に見えて、彼は恐怖を感じた。がらがらと、煉瓦が崩れるような音を聞いた。
「どうした、こんなところで」
彼を見下ろす友の顔は、彼とは似ても似つかなかった。胸のかわりに瞼を撫でおろしながら、彼は答えた。
「道に迷って」
「案内は必要かい」
彼は瞬きして考えた。二度目の瞬きは頷きよりも強かった。よしきた、と彼は友に拾われる。
「どこまでいこうか」
「なあ友よ、俺に未来があると思うかい」
「あるとして、観葉植物がわりになるくらいだろうな」
「だよな。俺はいつか言ったな。半端者は嫌いだって」
「言ったね多分。自分の人生には欠点がないと豪語していたな」
「俺はそう、完璧でいたいんだ。状態変化が嫌いなんだ」
「完璧は痛いがね」
「俺はその痛みを求めるくらいには平均的なのさ。俺は死に切りたい。探してくれるかい、俺の顔をもうひとつ」
お安い御用、と言って友は駆け出した。街並みがぐんぐん通り過ぎていった。彼はしだいに強まる引力を、甘美なものとして受け止めた。
――俺の死に花を咲かすため、地球が自転を速めている。
湧き上がってくる高揚に、彼は五キログラムの全身を震わせた。どこかしらを失った人々が、視界の端を掠めていく。その一人一人に、彼は勝利宣言を投げつけた。
「俺は完全に死ぬ!死に切って俺だけ完全になるんだ。俺はお前たちとは違う。あばよ半端者たち!」
通りを三本飛び越えて、古代ギリシア室へ飛び込もうかというところ。コーンで四角く囲われた中に、その男はいた。観光客の大群が展示室から吐き出され彼我を遮る。彼は快哉を上げ、友は応えて大きく振りかぶった。見事な放物線を描き、彼は真っ直ぐに彼の運命へと落下していく。何かを感じたのか、驚いたように振り返るその男。その目が、耳が、すこし不格好な鼻の形さえ今は愛おしい。影が祝福の光のように落ちてくる。彼は歓喜の声を上げ、高貴なる死に口づけしようと――
しかし、果たされなかった。天井から落下してきた鉄骨が、ドッペルゲンガーの頭を粉々にしてしまったのである。彼は鉄骨に跳ね返され、唇を尖らせたまま虚しく路上を転がった。ゴミ箱にぶつかって動きを止める。深紅の肉塊が視界を流れ落ちてゆく。彼は何が起きたか分からずただ呆然と、真っ赤に染まったエルギンマーブルを眺めた。その口は、友に拾い上げられても、まだぽかんと開いていた。恐怖にして甘美なあの引力は、もう感じられなかった。友は言葉を探した。
「なんといえばいいか……」
彼はにわかに顔を真っ赤にして叫んだ。
「畜生! 死んじまったら何にもならんじゃないかバカ野郎!」
※※※
「……そうして俺は勝利したわけだよ、極端に回ろうとする俺にね」
その後、友の斡旋により彼は週二で一般展示に回り、生計を立てているということだった。語り終えた時にはもう、すっかり月が出ていた。彼は顔に疲れを滲ませて、私に感想を求めた。詭弁と矛盾の塊をどうやって記事に成形しようかと考えながら、私は答えた。
「随分大変な目に遭いましたね」
彼は意外そうな顔をして、首を左右にごとごと揺らした。
「そこまで当たり障りのないことを言われたのは初めてだよ。確かに散々な目に遭ったが……実はあまり後悔していないんだ。オンリーワンになれたからね」
ミロのヴィーナスを思い出してみたまえ、と彼は言った。片頬だけを引いて笑ってみせた。
「欠けることこそ完全じゃないか?」
そう言う彼の眉は相変わらず歪んでいた。今日はここまでとして、来週の休日にまた会うことにした。
「また会おう、楽しみだよ」
快活に笑いながら、彼は台座を押されてゴロゴロと、闇の奥へ去っていった。戻ってきた職員にこっそり聞くと、あの眉は大金をかけて植毛したそうだった。
※※※
金曜、謝罪の電話がかかってきた。急に都合がつかなくなってしまったという。あれだけ楽しみにしていたのに、なぜだろう。問い質すと、彼は狂ってしまったのだと、職員は言った。
「元からじゃないか?」
「あれ以上になってしまったんです。もう、収蔵庫から出せないくらいに……」
――昨日の一般展示。聴衆がぞろぞろと帰っていくのを見送っている時、彼が突然笑いだした。なだめてもすかしても笑いやめないので、仕方なく二重の箱に詰め込んだが、それでも彼の声が聞こえる。とうとう地下収蔵庫の奥の奥に置いてきた。なぜ笑い出したのかと聞くと、職員は唸った。
「……笑う直前、若いお客さん同士がぶつかってすっ転んだんです。それかなあ」
「妙な二人でしたか?」
「いえ、好青年でしたよ。互いにすぐ謝ってね。さっと別れていったが……そういえば、二人の小指の先が少し欠けていたようでした」
多分彼は泣きたかったのだ、と私は思った。いずれ自分以外の生首が展示される未来を思うと、彼は耐え切れなかったのだ。どこか遠くから。喉の裂けるような笑い声が聞こえた気がした。きっと未来永劫、彼は地下で声を上げ続けるのだろう。
(了)
この作品は「カクヨム」に投稿した『生首曼荼羅』を改稿したものです。少しでも何かを感じて頂けたなら幸いです。お読みいただきありがとうございました!
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